第2話 ヘルちゃんは明るい魔族?

 マクマール帝国は人口九〇〇万人、敷地面積十万㎢の島国であった。

 当時としても決して大国ではない。国土はほぼ正方形と言ってよいぴっちりとした形をしており、大きくわけて東西南北の四地域に分かれている。

 そのうち南部地域に当たる『ロンスター』は、地域のほとんどが農耕や建物の建築に適さない不毛の砂漠である関係で、経済的に大変貧しい地域となっていた。人々は皆、ロクな街道も警察組織もなく、あるのは掘っ立て小屋みたいな家とギャングが経営する酒場ばかり、というスラム街で生活していた。

 で。その中でも最大のスラム街である『ダラッツ』がとりあえずの物語の舞台であると思ってよい。

「おきてーーーー!」

 暗黒街ダラッツに相応しくない異常に明るい声で男は目覚めた。

 重い瞼を上げるとそこには彼の常宿である『イントンハイセル』という宿屋の天井があった。いつも通り狭苦しくてホコリ臭い。

 ――いつもと違うのは。

「キャー! 起きた! うわ! やっぱりかっこいい! 寝起きなのに爽やかさのかけらもない! ステキ!」

 見た目十代前半ぐらいの女の子が自分にのしかかっていることだ。

 男は反射的に彼女の胴体を足でからめとり、マウントを取り返した。

「わっ! なにぃ? どきどきするんだけど」

「――!? おまえは!」

 その紫に銀色のメッシュが入った髪の毛、背格好にそぐわないやたらに派手な格好、そしてその異様なまでに無邪気な笑顔に見覚えがあった。

「あのときの死神!」男は慌てて立ちあがりベッドから降りた。

「だから死神じゃないってー」少女も上体を起こしベッドの縁に座る。

 男は彼女の頭を右手で握りつぶさんばかりに掴んだ。

 少女はそれを「頭を撫でられた」と解釈したのか、目を細めて若干頬を朱に染めている。

「貴様……! 俺になにをした」

 男の右手に万力のような力が籠められる。が。少女は全く意に介した様子なく答えた。

「なにって。わかるでしょ? 治してあげたんだよ」

「治しただと――!? ウソを吐くな!」

 男の体に彼の傷だらけの人生の中でも、一度も感じたことのないあの痛みがよみがえる。

「殺そうとしていただろ!」

「えーーー? なんでそうなるのー?」

 少女は頭の横でクルクルと人さし指を回したのち、

「あっ。そうか!」

 ポンと手を打った。

「ごめんごめん。先に言っておけばよかったね。私の<<死に至る治癒>>はちょっと痛みを伴うって」

「ちょっとだと!? 千回死んだほうがマシと思うぐらいの痛みだったぞ!」

「ははははは! ごめんごめん! でも。死んでないでしょ。それに。ほら見てみなよ」

 少女は男の右腕、それから腹を指さした。

「――!? これは――!」

 右腕の袖をまくってみても、そこには一筋の切り傷すらなかった。

 オエンズに貫通された腹部も同様だ。

「やっとわかったー? もー生きてた時点で気ずいて欲しかったなあ。死神なんかじゃなくて命の恩人だって!」

「……なにが目的だ」

「あのね。確かあなた『イナ』っていうのよね?」

「ちっ……なんで名前を……」

「イナ。あなたにお願いしたいことがあるの。話だけでも――」

 少女が言い終わらない内に、イナはくるっと踵を返して入り口のドアに手をかけた。

「わっ! 待ってよ! 命の恩人を無視するつもり!?」

 イナは追いすがる少女のほっぺたをつねりながら言った。

「仮におまえが俺の治療をしたのが事実だったとしても、それは勝手にやったことだ。恩に着る理由なんかねえ」

 良く伸びる柔らかいほっぺたであった。

「じゃあな」

 ドアをバタンと閉じて部屋から出ていく。

「――行っちゃった」少女は恋する乙女のごとくつねられた頬を両手で抑えながら呟いた。

「ふふふ。性格最悪! ますます好き!」


「もうこんな時間か……丸一日寝てたみてえだな」

 イナは『自由戦士』を稼業として生計を立てていた。なにそれかっこいい! と思うかもしれないが、この時代のダラッツに集う自由戦士と言われた連中は例外なくただのゴロつきである。彼らのやることといえば良くて使い走りや賞金稼ぎ、悪ければ窃盗、恐喝、殺人、その他無法行為ばかり。ごく一部を除き収入は少なく、みな食うや食わずやの生活を送っていた。

 そんなヤツらの唯一の楽しみと言えば、やはり酒であった。金がないんだから酒なんか飲まなければいいじゃないかというのは正論だが、人生お先真っ暗である不安を和らげるためには飲むよりほかに手段がなかったらしい。

 一見クールに見えるイナにとってもそれは例外ではない。

 彼はダラッツに合法非合法合わせて二百軒以上あるとされる酒場の中でもトップクラスの安さと酒の質の低さ、客層の悪さを誇る酒場『タイガークロ―』の扉を肩で開いた。

 幽鬼のようなステップで姿を現すと店内の喧噪が一瞬で静まる。

「げっ! イナ」

 カウンターの向こうで肉を焼いていた、コック帽子の男があからさまに顔をしかめる。

 しかし。イナは一切意に介さずカウンター席の端っこに座った。

「コーン酒」

 そして全く悪びれることなく注文を行う。

「おいマスター!」と客の一人が叫ぶ。「あいつがいると酒がまずくなるんだが!」

「ホントだよ! 天才的なんだ! 陰気さが!」

「負のオーラが凄すぎる!」

 言っている方も言えた義理でない発言が多いが、確かにイナが放つオーラが陰鬱なものであることは否定のしようもない。

「そ、そりゃごもっともで!」

 店主は頭を掻きながら客たちに謝罪。

「つーわけだ。とっとと出ていきやがれ」

 それからイナの顔面にツバを吐きかけた。

「そもそもてめえほぼ酒代払ってねえしな」

 イナはわずかに眉をしかめて店主を見あげる。

「なんだと。じゃあ貴様は金を出さないと酒を出さないというのか」

「当たり前だ!」

「そんな理不尽が許されるか」

 のっそりと幽鬼のごとく立ちあがると店主の胸ぐらを掴んだ。

「な、なんだてめえ! やるってのか! 言っておくがここに味方は一人もいねえぞ!」

 店主の言う通り、客たちはみな立ちあがりイナを睨み付けていた。

 ――が。そのとき。

「まァまァまァまァまァまァまァまァ!!!」

 異様に甲高い声が酒場に響いた。入り口の扉がゆっくりと開く。

「その人の酒代はわたしが払うからさ」

「お、おまえは――!」

 紫髪の少女が再び姿を現した。

 店主があっけにとられながらも彼女に問う。

「は、払うったってあんた金なんか持ってんのかい?」

 すると少女は微笑んで、首に掛けていたド派手なネックレスを店主にほおり投げた。

「――!? こりゃあ――十万デビアスは下らない――!」

 店主はカウンター席真ん中に座っていたゴロツキを蹴り出して少女を招いた。

「こちらにお座り下さいお嬢様! イナくん。キミも座っていいよ。彼女と仲良くね!」

 人のよさそうな憎めない笑顔である。

「わあ! 彼女だって! どうしようねえ」

「……どうもしねえよ」

 そう言いつつもイナはカウンターにゆっくりと腰を降ろした。


 イナの好物のコーン酒はマクマール帝国の特産品『グリーンコーン』を発酵させて作った酒である。大変安価なのだが、その見た目のグロテスクさと舌がおしゃかになるくらいの苦味により大変に不人気であった。イナはいつもこいつを氷で割ったグラスを一時間も二時間もかけてちびちびと飲む。その間ほぼ無言。陰気なことこの上ない。

 この日もおよそ九十分をかけて無言で一杯を飲み干した。

「おい。おまえ」

 それから。おかわりをグラスに注ぎつつぼつりと声を発する。

「モガガ? なぁに?」

 イナの隣に座った少女は夢中で甘物を口に運んでいた。

 バターケーキにアイスクリーム、ガレット、ゴーフル、苺のタルト。

 ところせましとカウンターに並んでいる。

 普段あまり注文されることのない甘物をたくさん作って店主も満足そうであった。

「一体なにがしたいんだ??」

「えっ? そりゃあ甘い物バキ食いだよー。私ねえ甘い物大好きなの! ここのお店のヤツおいしいねえ! なんでみんな頼まないんだろ?」

 店主はますますゴキゲンな様子でケーキのおかわりを少女の皿に置いた。

「イナがさっきから飲んでるのってなあにぃ? 美味しいの?」

「コーン酒」

 グラスを少女の前にスライドさせた。どうみても酒を飲んでいい年齢ではないが、そんなことはこのダラッツで守っている人間はいないし、第一、イナの知ったことではない。

「コーンのお酒? へー! お酒飲んだ事ないけど美味しそ――マズ――――!!!!」

 口から霧の如く噴きだしてイナの顔面にぶっかけた。

「ゲロクソまじい! 臓物みたいな味する! なんでこんなのが好きなの!?」

 イナは顔射されたコーン酒を右手でぬぐってその手をペロペロ舐める。

「別に好きなんかじゃないさ」

「じゃあなんで飲むのー?」

「他にやることがないからだ」

 この上なく暗いトーンでそんな風に呟いた。

「ふーん……。よくわかんないけど。それならちょうど良かった」

「なにが」

「その。お仕事の依頼があるの」

 イナは大きく溜息をついた。

「ようやく本題か?」

「うん。聞いてくれる?」

「聞くさ。なにせ金がねえんだ」

 少女は場違いなくらいに明るく爽やかな笑顔でイナの横顔を覗き込んだ。

「じゃーまずは自己紹介からかな。私の名前はヘルレイザー・フォトンエリック・アンブローズ三世の娘! 自分でも噛みそうになるから『ヘル』って呼んでね!」

「……まるでどっかのバカな王族みてえな名前だな」

「王族だよ! しかも超大物の!」

「あああん?」

「だって私のパパはね。『魔王』だもん」

 イナは口に含んでいたコーン酒を噴き出すのを辛うじて堪えた。

「正確には元魔王かなー。三年前に勇者とかいう連中に倒されて封印されちゃったから」

「……」

「でね。私の目的は! 封印されしパパを蘇らせること!」

「…………」

「パパが死んで魔力の供給源を失ったせいでほとんどの魔族は石化してしまった。でも! ヘルが生きているよ! 封印されたパパは臓物みたいに強い奴らが守護しているみたい! これは確かにキツい! でもヘルとあなたが組みさえすれば奴らにだって勝てる! いい? あなたは本当はものすごい力を秘めているの! でもこれまではその潜在能力をフルに発揮することができていなかった! なぜならヘルがいなかったから! ――――ってあれ?」

 ヘルは首を左に捻った。そこには。

「……いない」


「ふう……聞いて損した」

 イナは持前の存在感の薄さを活かして、隠密の内に店の外へエスケープしていた。

「頭のおかしいガキめ……」

 首をゴキゴキと鳴らしながらダラッツの街を歩く。

「魔王に勇者か。イヤなことを思い出させやがって」

 なぜか。十年も前――まだ少年であった時分のことを思い出す。

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