第59話 愛する人


 ブザーが再開五分前を知らせた。

 ロビーに出ていた人たちも続々と戻ってきて、半数くらいまで減っていた客席はまた満員になった。


 ステージ上の部員のみなさんもぞろぞろと入場しては、チューニングの音を鳴らし始めた。 確か最初に鳴らしたのがオーボエだよね。


 第2部は大地は司会をしないようで、バスクラの席に座って楽器を鳴らしていた。


 さっきまでの衣装と違って、今度は他の人と同じステージ衣装。 群青色のブレザーはとても引き締まって見える。


 こんどは再開のブザーがなり、司会の先輩が曲紹介を始めた。


「第2部はクラシカルステージ! はじめにお届けするのは、昨年のコンクールで演奏した課題曲と、カットなしの自由曲の2曲です。ではどうぞ! 」


 お姉ちゃんたちがコンクールで演奏した曲だった。 残念ながら全国大会へは手が届かなかったこの曲。 お姉ちゃんはどんな気持ちで聞いているんだろう。


 2曲終わると、顧問の島西先生の挨拶があった。


 続いての曲は割と有名な行進曲であたしも知ってる曲だった。 でもこうやってホールで聴いてるとテレビなんかでかかっている雰囲気と全然違う。


 ちょっと、楽器っていいなって思っちゃった。


 マーチの曲が終わると先生は深々とお辞儀をして、ステージの下手へと引き上げていった。

 代わりにステージの前に立ったのは、他でもない大地だった。 司会じゃないかと思ったら、分担が違うだけだったみたい。


 群青のブレザーのせいなのか、大地はさっきよりも自信に溢れた仕草でマイクを構え、最後の曲紹介を始めた。


「さぁ、定期演奏会もいよいよあと1曲を残すのみとなりました。 私ももう少し演奏していたいところですが、仕方ありません」


 さっきまでの台本を読み上げている感じと違って、大地の言葉がすんなり入ってくる。


「最後の曲は、バレエ音楽『山羊飼いの少年と愛の物語』です。 もともとバレエの音楽として生まれたこの曲は、3部構成になっています。

 元となった物語は、山羊飼いの少年と羊飼いの少女の恋のお話です。 第一部は、二人が楽しく暮らしている場面を、第二部は海賊にさらわれた少女を少年が助けに行く場面を表現しています。 第三部で、少女は神様のおかげで助けられ、少年が少女にプロポーズをして幸せに暮らすことになりました、というストーリーです」


 今回はプログラムに載っている曲紹介と少し違う内容だった。 アドリブで喋ってるのかな。

 普段は口数が少なくて、無愛想。 でも、こういう大舞台になると本領を発揮するんだろうね。



 カッコいいよ、大地。



 そんなことを考えていたのが伝わってしまったのか、大地がこちらを見て、目が合った――気がした。



 大地は、こちらを見たまま、数秒固まっていた。



 お姉ちゃんとお母さんがこちらを見たのが気配でわかった。 やっぱりこちらを見てる、よね?


 どうしたの? という気持ちで、小首を傾げる。


 もしかして、セリフ飛んだ?


 あたしにも経験がある。 アイドルになりたてのころ、MCをやっている時に段取りを忘れて困ったこと。 あたしの場合はアキちゃんが助けてくれたけど、大地は……。


 頑張れ、大地!


 念が通じたのか、大地はこちらから目線を外してまた続きを話し始めた。


「――失礼しました。 第一部は軽やかなメロディ、第二部は重厚なハーモニー、そして第三部は全員が踊って祝う賑やかなサウンドをお楽しみください。 特に第三部のオープニングでは『プロポーズの言葉』となるバスクラリネットのソロから始まります」


 よかった。 無事に出てきたんだね。

 バスクラはプロポーズの言葉、か。 きっと大地が吹くんだよね。


「ロマンチックな音楽をみなさんにお届けできるように、――私も愛する人を想って演奏します! 」


 そこまで紹介すると大地はペコリと頭を下げてバスクラの席へと戻っていった。


 客席はすこしざわついていた。


 あたしの聞き間違いでなければ、大地は「愛する人を想って演奏します」と言った。 他の人は知らないかもしれないけど、あたしは大地には愛する人がいて、それが誰なのかを知ってる。


 大地がこんな大勢の前でそこまで言うなんて……あたしは『千春』に勝てる日がやってくるのかな。



 先生が指揮台に上がり、腕を振り下ろした。

 クラリネットやフルートの旋律が重なって心地よいハーモニーを奏でている。


 素人のあたしが聞いていても、この演奏が凄いことがわかる。 CDなんかと違って、息遣いまで聞こえてくるような音の流れを感じる。


 ぞわぞわするような低音の響きのあと、神々しさを感じる木管楽器たちの旋律が流れて、そして静けさが包んだ。



 大地が、大きく息を吸った。


 ホールに大地の吹くバスクラリネットの音だけが響いている。


 その音色は、お腹の底を震わせるような低音で始まり、大地がエロいと言っていた中高音まで、胸を優しく撫でるように駆け上っていった。


 大地のプロポーズは、こんなにも情熱的で甘くて切なくて。 その甘美な響きはあたしの心を揺さぶるには充分すぎて、涙がこぼれ落ちそうだった。


 これが大地の『千春』への思いなんだね。 『千春』でいることでこんなにも愛してもらえるのなら、それも幸せなのかもしれない。


 バスクラリネットのソロが終わると、また一段と盛り上がりを見せてフィナーレを迎えた。


 言葉じゃ表現できないような素敵な演奏に、感謝と称賛の気持ちを存分に込めた拍手を送った。

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