エピローグ
僕は作家でも何でもない、だからこんなものはまったく不必要だと言われれば、きっとその通りなのだけれど、先日、なんとなく昔のことを思い出して、町の文具店で万年筆を買った。濃い青色のインクが気に入っている。ボールペンでは出せない雰囲気がある。
ふと、窓の外に目を向けると、春空はもう暮れ始めていた。なんとなく懐かしい気分になる。遠く、藍色の空に引き伸ばされた雲ですら、どことなくあの頃を思い出させる。
机上に置いた紙の束、その一番上には『人間について』と書かれてある。もうずいぶん昔に書いたものだ。
あれから十年ほどが経とうとしているなんて、実感できなかった。だって、老けたと言っても僕はまだ二十七で、歳上の妻だって、まだ三十になったばかりなのだから。
そろそろ、彼女が帰ってくる頃だ。僕だってきちんと働いているけれど、いつだって彼女の方が遅く帰ってくる。本当に頭が下がる、なんて言ったら、きっと彼女は照れて笑うだろう。
今でも僕は、彼女を愛している。一人の女性として、あるいは、人間として。
初恋の女性と結ばれる男性がどれほど居るのか知らないが、何にせよ、幸福なことだと思う。静かな幸せ。本来、人間が感じづらい、絶対的な幸せ。
ぼうっと椅子に座っていると、
万年筆を置いて向き直ると、彼女は遠慮がちに口をひらいた。
「おとーさん」
「なんだい?」
「おなか空いた」
「ああ、もうすぐお母さんが帰ってくるからね。そしたら、ご飯にしよう」
鈴は控え目で静かな子だ。僕のが遺伝してしまったらしい。苦労しないと良いけれど。
「わかった」
そう言って頷くと、彼女は部屋へ戻って行った。外見は母親そっくりだ。本当に良かったと思う反面、これはこれで、父として心配ではある。簡単に悪い虫がつきそうで。
しかしまあ、母親に似て聡明だから、きっと大丈夫だろう。
「ただいまー」
玄関から妻の声がする。立ち上がって部屋を出た。
靴を脱ぎながら僕を見つけて、彼女はいつも通りの笑顔をつくった。
「おかえり。今日もお疲れ様」
「君もね。…鈴は?」
「居るよ。お腹空いたって言ってたから、早くご飯にしよう」
「あ、また作ってくれてるの?」
「うん」
「いつもありがとう」
そんなやり取りをしていると、背後から鈴が歩いてきた。
「鈴。学校は、楽しかった?」
「うん」
「そっかそっか」
まもなく僕らは食卓につき、食事を始める。並んで座ると、やっぱり母親そっくりだ。
「ねえ、おとーさん」
「ん?」
「さっき、何書いてたの?」
「ああ、書いてたわけじゃないんだよ。ちょっと、思い出してたんだ」
「何を?」
「昔のことだよ。鈴が生まれる前。僕がお母さんに出会った頃」
詩音は口をもごもごと動かしながら、眉根を寄せている。僕はすこし深く息をして、ゆったりと吐き出した。
「なあに?わたしも気になるんだけど」
白米を飲み下して、詩音が首を傾げる。僕は微笑んで、二人を交互に眺めた。それからおもむろに口をひらく。
「お父さんとお母さんはね、似たもの同士だったんだよ」
「そうなの?」
「ああ。それで、惹かれあったんだ」
「へえ」
「気になるかい?」
鈴は黙って頷いた。
「よし、じゃあご飯の後、話してあげる」
「え、ちょっと、お父さん?そのー、鈴に話されると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「いいでしょ。思い返してみれば、けっこうドラマチックだよ」
「ま、まあそうだけどさ」
詩音はしばらく唸っていたが、「ま、いっか」と呟いて、僕に笑いかけた。
「改めて聞くと、かなり恥ずかしかったね」
鈴が眠ったあと、僕らは寝室の窓から月を見上げて、酒の入ったグラスを傾けていた。
「うん。けっこう辛かった」
「自分が話すって言ったんじゃない」
「そうだけど」
見ると、詩音のグラスは空になっていた。僕は無言で酒を注ぐ。
それを見て、彼女は楽しそうに笑った。
「立場逆転しちゃったね」
僕も笑って、グラスに口をつける。
「お酒は、寂しい時にしか飲まないはずなのに」
「そうだね。そう思ってた」
すっかりアルコールにも慣れてしまった。
「いまさらだけど、君に会えてなかったら、どうなってたんだろ」
「僕は、とても生きていける気がしないな」
「それは、わたしもそうだよ」
あの頃を思い返す。僕は独りぼっちで、彼女も独りぼっちだった。
「きっと、こんな居場所を探していたんだ」
「え?」
「自分のままで。自分を否定することなく幸せになれるような、夢みたいな場所を」
彼女は音をたててグラスを置き、月夜を仰いだ。
「なるほどね」
それでも、生きていかなければならない。それだけが真理だ。
生きているから悩み、苦しむ。幸も不幸も、全ては存在から滲み出してくるものだ。
運命的な恋の果てに、僕らがたどり着いた結論。
「…結局、それだけでよかったんだ。わたしたちには」
「うん。だって僕らは」
「生きているから」
彼女の頬に手を添えて、そっとこちらに向ける。
「…お酒臭い」
「詩音だって」
月明かりに平凡な街並みが照らされただけの、ただ静かな夜のなかで。
午前零時の舞姫 不朽林檎 @forget_me_not
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