青天井
制服姿の学生もちらほらと見られる朝の往来を、駅のほうへと急ぐ。早朝はいっそう涼しく、肌寒いくらいだった。
あれは彼女からの招待状だ。彼女が落として行ったガラスの靴だ。だから、急がずとも会えるはずだ。そう思ってみても、やはり駆け足になってしまう。
電車に乗って、立ったままでしばらく揺られて、静かな田舎町にたどり着く。秋風が土と緑の匂いを運んでくる。
見覚えのある風景を行き、まもなく丘が見えてきた。この上で、きっと彼女が待っている。さらに足を速めて、彼女の家を目指す。
果たしてそこには僕の知る家があり、薔薇が左右に揺れる通路で、彼女が微笑んでいた。日傘の下で、傍らの薔薇をじっと見つめている。
僕が歩み寄ると、数秒かけて、彼女はこちらを向いた。
「ヒナさん」
「来てくれたんだ」
彼女はにっこりと笑った。そこには、正当な生命の重さがあった。
「もちろんです」
「学校は?」
「サボりました」
つめたい風が吹き抜ける。彼女は煩わしそうに長い髪を手で押さえた。
「悪い子だなあ」
「勉強なんかより大事なことだから」
どうだっていい。地位も財産も世間に誇れるような人生も、何ひとつとして要らない。そんなものは僕を生かしてはくれない。
生かしてくれるのは、ただ居場所だけだ。彼女の隣に立っていることで、ようやく、僕は生きていられる。
「…聞きました。ヒナさんのこと」
「そっか」
彼女は微笑んだままで呟いた。
「それでも、ここへ来てくれたんだね」
「ええ」
「ねえ、凛くん」
「はい?」
「わたしは一体、誰なんだろう?」
彼女は僕の瞳をまっすぐに覗き込む。答は決まりきっていた。
目を逸らさずに答える。
「ヒナさんは、ヒナさんです」
「乱暴だね」
「ええ。でも、そうでしょう?」
人間一般の姿。それはつまり、弱者の幻想なのかもしれない。
そんなものがあるとして、それと自分を比べて、変われない自分を嘲って、生きていかれないと苦しんで。僕は、ずっとそうやって生きてきた。今でも間違っているとは思えない。
けれども、人間一般の姿に、堂々と自分を重ねられる人が、一体どれほど居るだろうか。誰だって一般からのズレを感じて、それが僕やヒナさんの感じるものほど大きくないとしても、どうにか自分を修正して、懸命に生きていく。その姿勢は、誰だって変わらない。
僕たちは何処にも行けないけれど。
誰だって救われたい。ある者は幸せを待ち続け、ある者は傲慢に生き、またある者は甘い自己憐憫に沈む。
そうやって生きている。
だから、本当に考えるべきなのは、『人間一般』などではなくて。
そのなかで懸命に生きている自分自身だ。
「僕が、ヒナさんが、どんなでも。僕たちは、生きていかなければならない」
腕を伸ばす。彼女はほんの僅かに体を震わせたけれど、動かずにそのまま立っていた。
ぎゅっと、彼女の細い体を抱き寄せる。
きちんと生き物の温もりが宿っていた。
「だから僕は、あなたを可哀想だとは思わない。あなたの命を肯定したいから。間違ってなんか、ない。僕もあなたも、ただこの世に生まれて、必死にもがいて、普通の人よりも不器用に、不格好に、それでも懸命に生きているだけだ」
「凛くん」
彼女は僕の背中に腕をまわして、躊躇いがちに力を込めた。
視界が滲んだ。涙が頬を伝う。
「だって、生まれてしまったんですから。仕方ないでしょう。それでも、生きていかなければならないんです。怠惰でも、ズレていても」
「わたしたちだって、人間として幸せになりたい」
「ええ。零に、意味は無いんです」
それだけが、たった一つの正しいことだ。存在するか否か。一か零か。どこまでも意味を還元していけば、生命の価値はそこにある。
ヒナさんは腕のなかでじっとしていた。僕はいっそう感情的に、哀しくなってしまって、彼女の細い体を潰れるくらい乱暴に抱きしめた。
「くるしいよ」
彼女は笑いながら言った。腕の力を緩める。
「ごめんなさい」
ゆっくりと、彼女が僕から離れる。
透明で大きな瞳はすこし潤んで赤く、依然として僕をまっすぐに射抜いた。
口の端を持ち上げてみせる。出会った時、彼女が僕にしてみせたように。
彼女もまた、微笑んだ。淡い、春の木漏れ陽みたいな笑顔だった。
「今日は、いい天気だね」
「ええ、とっても」
人間に溶け込めない僕らは、それでも青天井の下で笑っていた。
ヒナさんに招かれて、家に上がらせてもらった。形としては何も変わらない。味気のない直方体。だがそれは、多少、人間らしさを持ち始めていた。
「いろいろ、増えましたね」
「うん。これからは、ここで暮らしていかないとだから」
全体的に白い。窓際に机と椅子、ベッドは壁際に寄せられ、その反対側にはテレビがある。入口の脇にはクローゼットだって置いてあった。それに、やっぱりお菓子みたいな匂いがしていた。
「家具は、ヒナさんの趣味ですか?」
「うん。わたしが選んだの」
それは素晴らしいことだ。これまで、まともな選択の機会すら与えられなかったヒナさんが、自分で何かを決定したのだ。しかも好みなんて、ひどく主観的なものによって。
「それに、トイレやお風呂、あとはキッチンなんかも、くっつけてくれるはずだよ。まあ、もう少し時間かかるけどね」
「良かった」
実のところ、彼女の待遇が気になって仕方なかった。不必要だとされた以上、何らのサポートもされないまま放り出されることもありえる。しかし蓋を開けてみれば、思いのほか状況は良い。
何を思ってのことなんだろう。すこし気になったけれど、そもそも実の娘に跡を継がせる、ただそのためにクローンを造るような人間の考えることなんて分からない。何かしらのメリットがあったのだろうが、まあ、それにしてもまともじゃない。
「向こうの人間からは、もう何も?」
「うん。これからは普通の人間として生きていくように、ってさ。必然的に天涯孤独だけど、生活に困ることはないかな。仕事もあるみたいだし」
「じゃあ、やっと解放ですね」
「だね」
「…そう言えば、名前が変わったんですか?」
もはや彼女が早乙女姫雛と名乗るわけにはいかない。手紙には、佐倉詩音とあった。
「ああ、そうだよ。佐倉詩音。だからこれからは、凛くんも詩音って呼んでね」
「詩音、か。なんか違和感ありますね」
「そう?」
「ずっと、ヒナさんって言ってたので。でも、…うん。似合ってると思いますよ。詩音さん」
「ならよかった」
彼女は相好を崩し、おもむろに僕の左手を掴むと、ぐいぐい引っ張った。
「詩音さん?」
「こっち来て」
言われたままに引っ張られて行き、ベッドに座らされた。何をされるのかと緊張していると、彼女は僕の隣に座り、そのままの勢いで僕をベッドへ引き倒した。
「詩音さん?何してるんですか?」
「一緒に寝よう?」
それは、あの遠い国でも言っていたことだ。あの時、僕にはそれが下卑た行為に思われて、拒んだ。彼女の言葉は、僕の勘違いなどではなく、明らかに性的な誘惑だった。
けれど今度は違った。それは彼女の言葉と、朗らかな表情が教えてくれた。そういう意味ではない。彼女はもっと単純に、子供みたいな純粋さで、何の深刻さもなく、その言葉を発している。
彼女は僕の顔を見つめていた。何かを試すように。
「…いいですよ。寝ましょうか」
答えると、彼女は笑みを大きくする。真っ白なシーツの上を這うようにして、僕らは眠れる体勢をとった。枕は一つしかないし、ベッドも狭い。とても快適とは言えない。
けれど、幸せな昼寝には十分だ。
「手、繋いでいい?」
「はい」
彼女の手を取る。初めてではないのに、それはひどく新鮮な感触だった。小さくて、柔らかな手だ。
ふたり、肩をくっつけて仰向けになり、静かに天井を見つめている。比喩でなく、彼女の息遣いが伝わってくる。
「ねえ、詩音さん」
「ん?」
「もしかして、あの時も、こうしたかったんですか?」
なんとなく、そんな気がした。彼女が誘惑したことは間違いないが、その目的は、ここにあったのではないか。
「まあ、ね。酔ってたし、そういう気分だったっていうのは本当だけど」
照れたように、声を揺らしながら続ける。
「ほんとは、誰かと、んーん。凛くんと眠ってみたかった。君の温もりを感じながら、眠ってみたかったの。これまで、夜はずっと、ひとりぼっちだったから」
「言ってくれたら、そうしたのに」
「なんか恥ずかしくて」
「誘惑するのは平気なのに?」
「おかしな話だね。でも、ほんとだよ。なんだか、言っちゃいけないような気がしてさ」
そんなことが、あってたまるか。
「言っていいんですよ。あなたも僕も、人間なんだから」
「…そっか」
誰かの温もりに包まれて、安心して眠る。それはひどく人間らしい幸せだ。
当たり前に叶えられるはずの幸福が、けれど僕たちには、ときどき途方もなく遠い。どうしようもなく。一人では満たされないものも、ある。
「えい」
彼女は身をよじって、僕に抱きついた。
「抱き枕じゃないですよ」
僕が笑うと、彼女も肩を揺すった。
「いいでしょ、君になら甘えても」
「ええ、もちろん」
この部屋はやはり不思議と涼しく、隣から聞こえる穏やかな寝息に耳を傾けながら、僕は眠りに落ちていった。
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