夏祭り
八月の終わり、夏祭りの日がやって来た。
あくまで規模は小さく、花火くらいは上がるけれども、大勢が来るような祭りではないので、とっぷりと日が暮れてから祭り会場へ向かうことにした。
祭りに誘うと、文乃はすんなり了承してくれた。まるでこの前の諍いなんて無かったかのように、自然に。
町外れの神社、その手前にある商店街が祭り会場となる。多くの出店が並び、辺りには何とも形容できぬ、祭り特有の匂いが立ち込めている。この匂いが夏の終わりを想起させるのは、何故なんだろう。
約束の時刻まで、まだ五分ほどあったのだが、文乃はすでに小学校の校門にもたれかかって、足下へ視線を落としていた。
「お待たせ」
「あ、うん」
彼女は演技にもみえるくらいにゆっくりと、こちらへ顔を向けた。
緊張していなかったと言えば嘘になる。ついこの前の蟠りは、消えたわけではない。
「行こうか」
「…うん」
いつもなら減らず口の一つや二つたたいて、もっと気さくに、弛緩した空気の中を歩いて行くはずなのだが、そうもいかない。僕は両の拳をぎゅっと握りしめ、夕空を見上げた。
夜空と言った方が正しいかもしれない、その藍のなかに、一番星らしい明るい光を見つける。名前も知らない星だったけれど、なんだか優しい。
神社が近づいて、人混みもいよいよ本格的になってきた頃、僕らはようやく、ぽつりぽつりと話し始める。
「レイニー」
「なに?」
「この前は、ごめんね」
「…こっちこそ、ごめん。ムキになって」
文乃の横顔を窺った。いつもと変わらぬ彼女。服装だって変わらず、そこにいるのは、間違いなく僕の幼なじみだった。
なのに、どうしてだろう、異様に遠い。
「んーん。私が悪いの。意気地無しだから」
彼女は飛躍したことを言った。その隙間を埋めることができず、ただ戸惑う。
「意気地無し?」
「うん…あ、たこ焼き、買っていこうよ」
強引に僕の言葉から逃れて、屋台の方へ歩き出す。すでに混雑していたので僕は並ばず、邪魔にならないところで彼女を待つことにした。
ぼんやりと往来を眺めながら、遠い昔のことを思い出す。普段は思い出さないようなことを。
綿飴の甘さ。右手に感じる温もり。
思い出の力は卑怯だ。
それは時に、現実の感触をも凌駕して、深いところに訴えかけてくる。
母がまだ生きていた頃、一緒にこの祭りに来たことがある。文乃と親しくなってからは、彼女とばかり来ていたので、これは相当古い記憶だ。まだ、僕が文乃と出会う前。
母に手を引かれ、もう一方の手に綿飴を持っている。その、ただ甘ったるいだけの、ほとんど空気みたいに存在感のない食べ物を、僕は今よりずっと小さい口に頬張っていた。
ひどく幸せだった。
父は居なかった。ほんとうに仕事で居なかったのか、それとも僕が忘れているだけなのか。確かでないが、おそらく前者なのだろうと思う。
来る前に夕食を食べていたのだろうか、僕は綿飴だけで満腹になってしまって、あとはただ、何もねだらず、母について行った。母は何も言わずに、僕を神社のほうへと連れていく。
二人で境内を歩き、神様にお祈りをして、それから、人通りの少ない神社の裏手へまわった。
大人ならば飛び越えられそうな幅の小川が一本、音も立てずに流れていて、祭りの喧騒を背後に、辺りはしんと静まり返っていた。母を見上げた。母は、月明かりを眺めていた。
そのとき言われたことが、未だに忘れられない。
「凛、よく聞いて」
「なあに?」
「幸せな人に成りなさい」
「幸せな人?」
僕は見上げたままで、母は月明かり、どこか遠くを眺めたままだった。思えば、母が難しいことを言ったのは、これが最初で最後だった。
「お母さんはね、幸せになれない体質だったの。でも、お父さんと出会って、凛が生まれて、ひとまず、自分の生命に納得できた」
「生命に、納得?よく分かんないよ」
「今は分からなくていいわ。嫌でも、大人になったら分かるから。だから、これだけは憶えておいてほしいの」
母は口を噤み、ややあって、静かに続けた。
「幸せを、信じられる人に、なってね」
僕は意味も分からず、ただ頷いた。
「もうすぐ花火が上がるわ」
母は夜空を見上げて、小さく、なんだか寂しげに呟いた。
「おまたせ」
「ああ、うん」
文乃の声に、意識は現実へと引き戻される。
気持ちに反して、僕らはゆっくりと歩いた。彼女の左手に白いビニール袋がゆらゆらゆらゆら揺れて、ただ、それだけの穏やかな時間だった。
それまでの道のりに比べると、境内は空いていた。わざわざ参詣するのは地元の限られた者くらいで、大抵の人は、賑やかな夜の通りを楽しんでいる。
僕らは賽銭を投げ入れ、神様にお祈りした。文乃は何も言わず、ずいぶん長い時間、祈っていた。
少し悩んで、心中で願い事を唱える。
『ヒナさんと、再会できますように』
それ以外に、望みなど無かった。
そのあと、僕らは神社の裏へまわった。あの日、母とふたりで花火を見上げた場所だ。何ひとつとして変わっていない。小川が月光を映しながら、少し先をきらきらと流れている。
ベンチでもあればいいのだけれど、あいにく、そんな気の利いたものはない。適当な石を見つけて、その上に腰を下ろした。幸いにも雑草の薄い場所なので、虫に苦しめられるということもなさそうだった。
しばらく、僕らは一言も話さなかった。何を話せばいいのかも分からなかった。虫の音ばかりが耳についた。
すうっと夜風が通り過ぎて、背の低い草が揺れる。
「ねえ」
沈黙を経て、先に口をひらいたのは彼女の方だった。
「なにかな?」
「あの人とは、どうなったの?」
「ヒナさんのこと?なら、しばらく会えないって言われてるよ」
「会えない?どうして?」
月明かりのおかげで、彼女の顔がはっきりと見えた。眉根を寄せて、僕をじっと見つめている。
頭のうしろに手を遣って、首をふった。
「分からないよ。僕が訊きたいくらいだ」
「そう」
「ねえ、文乃」
「ん?」
「ヒナさんのこと、気に入らないんだろうけど」
大きく息を吸って、吐き出しながら言う。
「どうか、彼女のことは認めてあげて。いや、認めてくれなくてもいい。否定しないであげて」
言われるまでもなく、僕にだって分かっている。僕らの関係は、『マトモ』じゃないんだろう。
「ああ、うん。…もう、そのことはいいよ」
「いいって…」
「結局、嫉妬なんだ」
文乃はうつむいていた。
「凛の気を引くために、色々やってみたけど、駄目だった」
「文乃…」
彼女はゆっくりと顔を上げた。月明かりに涙が光る。
「ずっと、好きだった。気づいてもらえなくても、よかった。ただ、凛を独り占めしていたかった」
僕は何も言えず、星空を見上げた。
「でもね、今はもう、スッキリしてるんだよ?私じゃ駄目なんだって、はっきり分かったから」
「駄目?」
「うん。凛は、さ。遠いんだよ。だからこそ惹かれたんだけど、でも、私からは、あんまり遠い」
涙は彼女の細い顎から滴り落ち、宵闇へ消える。
「隣に居るのに、まるで、どこか遠くに居るみたい。昔からそうだった。凛は、いつも遠くを見てた」
母の姿が頭を過ぎった。いつも遠くを見ていたという、彼女の横顔。
「だから、余計に捕まえていたかったんだよ。離したくなかった」
きっと誰の目からも、そんなふうに見えていたのだろう。やはり、人間一般から押し出されていて。
ため息をやり過ごして、訊ねる。
「文乃は、僕が、間違っていると思う?」
馬鹿げた質問だと、自分でも思った。
「分かんないよ、そんなの。凛が間違ってるだなんて思いたくないし」
「でも、僕は、文乃と同じところに立てない」
「…そう、だね」
「なら、きっと僕は間違ってるんだ」
人間一般に近いのは、文乃や立川くんの方で、僕なんかよりもずっと、人間らしく生きていく能力をもっている。
「文乃にとって、僕が変わり者であるように、僕も、みんなのことが分からないんだよ」
「…うん」
「僕は、自分を否定できなかった。そしてヒナさん、あの、空気みたいに透明な人の隣に、居場所を見つけた。それだけの事なんだ。僕だって、変わりたかった。もっと人間らしく幸せになるべきで、さもなければ死ぬべきだとさえ思っていたんだ」
一瞬のうちに、ヒナさんとの沢山の思い出がコマ撮りの映像となって、淡い色合いで再生されていく。
「でも、ねえ」
目頭が熱い。ほとんど涙を流すところだった。
「誰だって、幸せになりたいでしょう?生まれてしまったからには、生きていくしかないんだから」
人間一般から押し出されても、不器用でも、怠惰でも。
救われないシンデレラみたいに、惨めでも。
僕たちは、与えられた檻の中で生きていくしかないのだ。
涙は出なかった。胸に何かがつかえて、息が苦しい。斜め上方を見遣って、月光に右手を照らした。
ふっと、唇の間から薄い息が漏れた。ため息と言うよりは、乾いた笑いだった。
嗚呼、僕たちは何処にも行けない。
しばらくの静寂が訪れる。
もはや、話すべきことを一つだって見つけられなかった。
ややあって、ぱっと何かが光った。僕らは同時に空を見上げた。独特な高音と共に、火の玉が夜空へ昇っていく。それは一瞬だけ姿を消して、大きくひらく。
僕らは立ち上がって、黙ったままで花火を眺めていた。
家に帰ると一気に体が重くなった。ひどい倦怠感。さっさと入浴を済ませると、ベッドに寝そべった。
すぐにでも眠れると思っていたのだが、いざ眠れる状態になると目が覚めてしまった。二、三回寝返りをうったところで諦めて、灯りをつけた。眠くなるまでテレビでも眺めていよう。
リモコンの電源ボタンを押すと、真っ先に映し出されたのはニュース番組だった。どこかの国でひどい殺人事件があったとか、有名な俳優が性犯罪で捕まったとか、そんな、おとぎ話より遠い事が、次から次へと流れていった。ちっとも興味がもてない。
欠伸を噛み殺す。程よく退屈してきて、だんだんと眠気を取り戻しつつあった。
しかし、次に映像が切り替わった瞬間、心臓が止まったと錯覚するような衝撃を受けた。数秒の後、心拍数が一息に跳ね上がる。
画面の中に、ヒナさんがいる。
起き上がって、テレビに近づいた。それはインタビュー映像だった。マイクを向けられて微笑んでいるのは、間違いなく彼女だった。少なくとも、外見は寸分違わず彼女のものだ。
何とか気持ちを落ち着けて、音声に耳を傾ける。
『…そうですね。ですが今、こうして、父の跡を継ぐことに決まりました。今はまだ学生の身ですが、今後は甘えることなく…』
その話し方に、どことなく奇妙な違和感をおぼえた。
どういうことだ。なぜ、彼女が。
やがてインタビュー映像は終わり、ニュースキャスターが真面目な顔でコメントを残す。
『…幼い頃から様々な苦労を体験されてきたことでしょう。だからこそ今後、早乙女さんには…』
僕はテレビと灯りを消して、ふらふらと歩き、ベッドに倒れ込んだ。混乱していた。
社会情勢には疎いから、詳しいことは知らない。けれども、どうにか分かったことは、彼女が病弱であったこと。それから、とある企業のトップの座につく予定だということ。僕ですら名前を知っている、とても有名な企業だ。
スマートフォンで、彼女の写真を確認してみる。見れば見るほどそっくりだ。双子と言っても足りないくらいに。
早乙女。
今更に、ヒナさんを見た時の早乙女さんの表情を思い出す。
『知り合いに、同じ苗字の人が居る』
とても偶然とは思えない。彼はおそらく、何かを知っている。
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