面影
それ以来、ほんとうにヒナさんとは会えなかった。
まったく地に足がついていない心地がした。どこに居ても、何かが間違っていた、あるいは僕が間違っていた。
八月の中旬、盆の時期だった。
父の運転する古い軽自動車に揺られて、緑の多い田舎町までやって来た。母の故郷であり、彼女はここに眠っている。静かなところだ。行き交う自動車も少なく、畑や田圃の世話をしている農家の人々がちらほらと見られる他には、人の姿もない。ただ、蝉ばかりが騒がしく鳴いていた。
これは毎年の恒例であり、僕らにとっては重苦しい儀式だった。
粗雑に舗装された、名前も知らない雑草が左右に生い茂る道を、緩やかな勾配に逆らって登っていくと、そこに、墓石の群れが見える。雑木林に囲まれ、墓参りの利便を考えてだろうか、隅のほうに水路があって、透き通った綺麗な水が流れている。
こんな人里離れた場所にも家族想いの人々はやって来るのだろう、あちらこちらに墓参りの痕跡が見られた。線香の煙が立ち上っているところもある。
僕らは無言で手を動かした。花を供えて手を合わせるまでに、そう時間はかからなかった。
目を閉じると、母の顔が浮かんだ。記憶の中の母は、もうおぼろげな像となりつつあるが、いつでも笑顔だった。
本来ならば話しかけるように祈るべきなのかもしれない。僕にはできないけれど。
顔をあげると、無機質な墓石が見えた。なんとなくため息を吐いてから立ち上がる。若干の眩暈をおぼえて、足元がふらつく。
「大丈夫か?」
「うん、平気」
父は頷くと、僕に背を向けた。黙ってついて行く。
車までの道のりは、とても長く感じられた。それほど時間は経っていないはずだが、車内には既に熱気が立ち込め、しばらく換気をしなければならなかった。
ようやく助手席に乗り込み、シートベルトを締める。父の左手がサイドブレーキを下ろした。
「なあ、凛」
「何?」
「学校は、楽しいか?」
父はまっすぐに前を向いていた。車窓から田園を眺めて答える。
「それなりにね」
「そうか」
それきり、父は黙りこくった。いつもならばもう少し口数の多い人なのだが、この時ばかりは静かになる。僕も父も、何を話せばいいのか分からなくなる。何を話しても、それが互いを傷つけてしまいそうで。
窓に映る景色にコンクリートの色が目立ち始め、エアコンが効いてきた頃、父はおもむろに口をひらいた。
「お前は、母さんに似てる」
思わず父の横顔を盗み見た。寂しげな微笑。
「似てるって、どの辺りが?」
僕が憶えている限りでは、母さんは僕よりもずっと器用な人だった。それに明るく、いつでも優しかった。
僕とはまるで違っていたはずだ。
「なんて言うのかな。その、雰囲気というか、身にまとう空気がな」
「でも、母さんはもっと明るい人だったでしょう?」
父は笑った。
「お前が生まれてからは、たしかにそうだったかもしれん。体を悪くしてからは、特にな」
「やっぱり無理してたんだ」
「ああ。お前ももう大人だから、正直に言うとな。いい母親であろうとしてた」
母にとっては笑えるような状態じゃなかったはずなのに、彼女はいつだって笑っていた。
「でもな、お前が生まれる前は、そうでもなかったんだ」
「そうなの?」
「うん。いつも、どこか遠いところを見ていた」
それは、僕の知らない母の姿だった。
「遠いところ」
「そうだ。現実に生きているのに、なんて言うか、その向こうを見ているみたいでな」
「…父さんは、どう思ってたの?」
「俺は、そういう所が好きだったんだよ。ああいや、母さんは優しい人だったからな、まずはそこに惹かれたんだけど」
車はトンネルに入り、オレンジの光がちらちらと通り過ぎていく。
「嫌じゃなかったの?」
「ん?」
「母さんが、そういう人だったのは」
父は声をあげて笑った。
「嫌なわけないさ。正直な、俺には母さんのことが、よく分からなかった。俺よりもずっと賢い人だったし、きっと、見えてる世界も違ってたんだろう」
「賢い、人」
「ああ。だから俺は、いっつも母さんのことを観察してた。少しでも分かりたくて」
トンネルの出口が迫ってくる。父はいっとき黙って、何かを思い出しているようだった。
「結婚してからも、ずっと考えてたよ。母さんの見てる世界を。でも俺に分かったのは、すごく簡単なことだけだった」
「なに?」
「母さんは、自分を含めて、世界をまっすぐに見ていたんだろう。感覚に流されて、埋もれていくことを許せなかった」
「それって、客観視、ってこと?」
「ああ、そうだな。たしか、母さんもそんなことを言っていた」
「…そっか」
一度も見たことのない母の姿は、ひどく今の僕と重なる気がした。
「そうそう、母さん、お前が小さい時によく言ってたんだ。『結婚して、子供も生まれた。私はもう、消えてなくなるわけじゃない』って。正直、俺にはいまいち分からんかったが」
父は細く息を吐き出した。
「お前なら、なんとなく分かるんじゃないか?」
「…まあ、ね」
呟いて、うつむく。
母もまた、考えていたのだろう。個人として生きていく限界や、存在の美徳について。
「ああそうだ。旅行は、楽しかったか?」
「うん。とても」
「それにしても、何者なんだ?その、ヒナって娘は」
「それは、僕も知らないよ。いろいろ複雑みたいなんだ」
「そうなのか」
「うん。でも、彼女は善い人だよ。それだけは分かる」
正確には、善い人というのも違うのかもしれない。
何故、ヒナさんにあれほど惹かれたのか。今更になって、ぼんやりと分かってきた。
彼女は透明だ。こうして、彼女の居ない現実に引き戻されて、それを痛烈に再認識した。
「とりあえずお金は返さなきゃだし、今度連れてきなさい」
「分かった。でも、しばらくは無理かもしれない」
「どうして?」
「しばらく会えないって、言われてるんだ」
ポケットに入っていたスマートフォンを取り出して、ロックを解除する。数インチの画面で笑う彼女を眺めていると、なんだか泣きたくなった。
『咲くも咲かぬも人の性。存在自体が悲劇の生き物』
ボールペンの芯を引っ込めて、紙を持ち上げた。
とうとう、この小説も完結してしまった、と言うか、これ以上書くことが無くなってしまったのだ。いくら考えても手が動かないのだから、これで終わりなんだろう。
主人公は自殺した。どれだけ足掻いてみても、彼には現実を生き延びる能力が無かったらしい。
彼はきっと、人格の檻の果てを見たから死んだ。
それは変形するものだと思っていた。容易ではないことも知っていた。それでも彼は努力した。
しかし檻は強固で、外に出ることは叶わなかった。苦痛の先には、苦痛が待っているのみだった。
いつか、ヒナさんが言っていた。自己否定で救いをつくりだすのは間違っているのだと。ようやく、その意味が分かった気がする。そもそも、自己否定で自分を掘り下げて、振り返った時には救われているだなんて、それはあまりにも悲劇的だ。
救いは、もっと甘いものでなくてはならない。シンデレラのように、ただ待つだけで訪れるような何か。
けれども、幸福は落差だ。だから動いていなければ、幸福にはなりえない。そして救いがその絶対値だと言うのなら、待っているだけでは救われない。
この矛盾を解消するべく、彼は死んだのだ。
つまるところ生きている限りには、そうそう簡単に救われないということ。絶対的な幸福の状態を知れば、そこに絶対的な救いが生まれる。しかし、人間は相対的にしか感情を評価してやれぬから、そんなことは不可能だ。『幸福を感じたのならば、そこにはなんらかの落差が生じている』という命題は覆らない。
全ての紙をまとめて持ち、端を揃えてみる。随分な厚さになっていた。最後に一枚、題名を書いた紙を一番上に追加しておく。
それから、数十枚ずつに分けて地道に穴を空け、ずいぶん前から埃を被っていた、もうどこからやってきたのかも分からない紐を通した。それでもって固く縛り、教科書の横に並べた。
『人間について』
おそらく、僕にとって最初で最後の自作小説だ。
なんだか虚しかった。
彼のようには成れない。それだけがはっきりしていた。
翌朝、立川くんからメッセージが届いた。
『帰ってきたらしいな。遊ぼうぜ』
これと言ってすることも思いつけなかったので、すこし躊躇いつつも頷くことにした。スマートフォンを置いて窓を開け放った。外は曇り空で蒸し暑い。
ヒナさんからは、やはり何の音沙汰も無い。そもそも連絡手段がないのだから、音沙汰が無いというのもへんだけれど、ともかく、僕は宙ぶらりんだった。
昼前に家を出て、駅前へ向かった。近くのファストフード店で食事をすることになっている。足どりは重く、気怠かった。
あれから、文乃からの連絡は無い。僕も連絡しなかった。もうすぐ夏休みも終わるのだから、そろそろどうにかしなければ。そう思うけれど、行動に移せないでいた。
文乃と喧嘩したかったわけじゃないんだ。ただ、僕がずれてしまって、文乃がそれを分かってくれなくて。いや、そもそもの初めから、ずれていたのだろう。ただ、隠していたから気づいてもらえなかっただけで。
最近になって分かってきたことは、人間が人間を断じる時の軽率さだ。
僕らはよほど分かり合っているようで、ちっとも分かり合っていない。それでも、人の一部を見て、その人間を理解したかのように振舞っている。
僕にはそれができなかった、いや、それができていたならば、人間を恐れる必要もなかったのかもしれない。僕が誰かと話している時、どこに立てばいいのか分からなくなる、あの感触は、相手の作った表情の向こう側に混沌を見出す、その一瞬によってつくり出されている。一人の人間を複雑に、その総てを見ようとするから、上手くいかない。
駅に着くと立川くんは既に居て、ハーフパンツのポケットに手を突っ込んで、ぼうっと空を見上げていた。
「やあ」
「おう、久々だな、凛」
僕らは並んで歩き出した。平日の昼だと言うのに、駅付近は随分と賑わっていた。少し歩いて、ファストフード店に入る。
店内は思いのほか空いていて、僕らはすんなりと注文の品を受け取って、席を確保した。
甘い炭酸飲料をすこし含んでから、ハンバーガーの包みをひらく。
「んで、美人さんとの旅行はどうだった?」
立川くんはハンバーガーを咀嚼しながら言った。
「楽しかったよ。いい経験になった」
「海外だろ?言葉とか、いろいろと大丈夫だったのか?」
「意外にね。それに、言葉は彼女が居たから」
「うえ、英語とか喋れんの?」
「うん、すごく流暢だよ」
「いよいよ、只者じゃないな」
彼が笑う。その向こうは、やっぱり僕には見えない。
「あ、そういや、お前ら喧嘩したんだってな」
苦笑して頷いた。
「木立、けっこう落ち込んでたぞ」
「なかなか、上手くいかないことがあって」
「まー、俺はどっちの味方もしないけどよ。いい加減に仲直りしたらどうだ?」
「僕もしなきゃとは思ってるよ。でも、なかなか言い出せなくてさ」
僕の言葉に、彼はニヤリと笑った。
「そんな凛に朗報だ。木立、お前と夏祭りに行きたいって言ってたぞ」
「夏祭り…」
そう言えばそんな時期だ。毎年、町の外れにある神社で行われる。
「ああ。チャンスじゃないか?」
「…分かった。とりあえず連絡してみるよ」
「おう、その意気だ」
僕は頷いてから、喉につかえそうになったハンバーガーを無理矢理に飲み下した。もう既に気が重い。
僕の内心を見透かしたのか、立川くんは目を細めた。
「俺も木立も、お前のことが心配なんだよ」
「心配?」
「ああ。たしかに、俺はその、ヒナさんとやらを、よく知らない。でも、その人が現れてから、お前はずっとふらふらしてるんだよ。なんつーか、不安定で」
「不安定、ねえ」
「そうだ。だから、木立のことも、許してやってほしい」
もう、反論することはしなかった。ただ曖昧に笑ってから、小さく頷いた。
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