目醒め
時間はゆるりゆるりと流れていき、とうとう帰国の日を迎えた。この十日間は、一日にもひと月にも、あるいは一年にすら感じられた。
「今日で終わりかあ。なんか寂しいね」
「そうですね。ずっとここに居たいくらいなのに」
「ま、そのうち、また来られるかもしれないし」
僕らはホテルを出て、偶然見つけた店で朝食を摂っていた。壁はレンガを剥き出しにさせていて、傍に置かれた観葉植物が朝日に光る。まだ客の姿は少ない。ごく控えめな音量でジャズが流れているだけで、店内は静かだった。
「さーて、また飛行機、なんだけど、その前に」
「その前に?」
「あの花畑へ行こう。あそこだけ、写真撮れてないからさ」
「ああ、そういえば。良いですね、行きましょう」
まだ時間に余裕があるので、問題ないだろう。朝食を終えるとすぐに店を出て、例の花畑へ向かった。
今日は連日に比べて暑く、夏の雰囲気が街全体に感じられた。それでも、日本に比べると涼しいものだけれど。
小川沿いの道を行き、花畑が見えてきた。白い柵で囲われた天国。僕にとっては幸せの象徴だ。一生、忘れることはできないだろう。
ゆっくりと歩いていって、ベンチへ向かった。桜を背景にして、二人、肩を寄せて写真を撮る。
「よーし、上手く撮れてるね」
「ヒナさん、ちょっとそこに座ってくれますか?」
「え?いいけど」
ヒナさんはすんなりとベンチに腰掛けた。僕はスマートフォンを構えて、桜が画面に入るように後退した。そのうちに彼女も理解したらしく、両手を膝の上で組み合わせ、こちらに向かって満面の笑みをつくった。
かちり。
形容しがたい美しさが、手のひらサイズの画面に切り取られる。そこで笑う彼女は、本当に童話の世界から飛び出してきたお姫様みたいだった。
彼女に歩み寄る。
「ごめんなさい。どうしても撮りたくなって」
「うまく撮れた?」
「ええ。すごく綺麗ですよ」
言いながら彼女の隣に腰掛ける。木の軋む音、消えかけた春の匂い。
「ほんとに、夢みたいでした」
「楽しかった?」
「もちろん」
彼女は目を細めて遠くを眺めていた。僕は降ってきたひとひらの花弁を手に取って、その質感を確かめるように、そうっと撫でていた。ほとんど白に近いそれは、ほんの薄淡く桃色を帯びていて、しっとりと柔らかい。たしかに生き物の感触がした。
彼女が欠伸を噛み殺す。僕はぐっと仰け反って、深呼吸した。
いつまででも、そうして居たかった。
帰りの飛行機でも、ほとんど眠っていた。空を飛んでいるのだということすら忘れて。幻聴のようなものは感じなかった。
空港に着いたら、またしても夜だった。見慣れた日本の夜空に落胆しつつも、未だに夢見心地のままだった。
「帰ってきちゃった」
「なんか、寂しいですね」
祭りのあとのような寂しさ、なんて下手な比喩だ。夏の夕暮色みたいな寂寥感。こちらの方がいいかもしれない。
「さあて、では、帰りますか」
ヒナさんはとても緩慢な口調で言って、足下を確かめるように、ゆっくりと歩き出した。僕もそれに倣う。
「あ、帰り、ちょっとコンビニ寄ってくれる?」
「いいですけど、何買うんですか?」
自ら出向かずとも、必要なものは手に入るはずだ。
「それは、行ってからのお楽しみだよ」
よく分からないままに頷いた。
そして数十分後、彼女はコンビニで酒を買った。
「またですか」
「いいじゃん、最後の晩餐だよ」
「寂しい時だけじゃないんですか?」
「いつだって寂しいよ」
歌うみたいに軽く言って、スナック菓子を買い物かごに放り込んだ。思わず苦笑する。
「僕と居ても、ですか?」
「んー」
ヒナさんは明後日のほうを向いて考える素振りを見せ、それから、嬉しそうに微笑んだ。
「ある意味で寂しい。でもきっと一般的には、寂しくない」
「…なるほど」
深く追求することはしなかった。そもそも、僕らの会話のほとんどには、意味なんてない。ただのキャッチボールだ。そこに意味や意義を求めてはいけない。
それでも、その言葉の意味は少し気になった。
コンビニを出ると、ヒナさんの家へ向かった。今日は泊めてもらうことになっている。そのまま帰ってもいいと言ったのだが、帰国時間が遅くなるということで、ヒナさんは僕を心配し、ではヒナさんが僕を送ればいいのかと言うと、今度は僕が彼女の身を案じることになる。結果、互いにとって、最後まで一緒に過ごすというのが最適解だった。
丘の上にはやっぱり薔薇が咲いていて、月が出ていた。満月に近い。その大きな白い光のおかげで、辺りはかなり明るかった。僕らは互いの顔をしっかりと確かめることができたし、彼女の家まで続く道も、花壇に咲いた薔薇の輪郭も、ぜんぶ分かった。
ドアまでもう少しとなった時、彼女は不意に立ち止まって、僕を上目遣いに見た。蒼白い光が綺麗な瞳に溶け込んでいる。
「ねえ」
「なんですか?」
「ちょっとだけ、踊りましょう」
突飛な提案に面食らって、言葉を探す。
「踊りなんて、分かりませんよ」
「いいよ、そんなのはテキトーで」
「ほら」そう言って、彼女は僕の手を取った。片手に提げていたビニール袋をきわめて自然な動作で花壇の縁に置いて、それから、ぐっと僕へ身を寄せる。
「踊りましょう、王子様」
「…はい」
彼女の手を取って、わけもわからず舞い始める。ちっとも美しくなく、型にもはまらず、とにかく出鱈目に踊った。何度も彼女とぶつかりながら、脚をもつれさせながら、それでも僕らは笑っていた。彼女の艶やかな黒髪が夜の濡れ
月明かりに、時間も世界も人間も、何もかもを忘れて、僕らは踊っていた。何も語りはしなかったけれど、百の言葉よりも沢山の意志を遣り取りしているように思えた。
夜風が一段と強く吹き抜けた。僕らはリズムを変えて、もっと激しく動いた。草木の揺れる音、薔薇と濡れた土の匂い。ふたりぶんの足音。
気づけば、僕は涙を流していた。意味すら分からないままに、それは頬を滑っていく。
彼女もまた、泣いていた。
その水滴が細い顎へ伝って、ぽたりと落ちる、その瞬間さえも愛おしくて甘くて、どうしようもなく透き通っていた。
もうすぐ日付が変わろうとしている。
入浴を済ませて戻ってくると、ヒナさんはちびちびと酒の入った缶を傾けながら、ぼんやりとこちらを眺めていた。
「眠くない?」
「眠いです」
「だよね。さっさと寝ちゃおう」
彼女は缶を傾けて一息に干し、ベッドへ仰向けに倒れた。僕も布団を敷いて灯りを消し、横になる。
しばらく、何も話さなかった。しんと静まった部屋には、虫の声だけが残った。昼間を忘れたみたいに、夏の夜気はひんやりと涼しい。
「凛くん」
「なんですか?」
「残念なお知らせがあります」
目を開けてベッドのほうへ目を遣ると、ヒナさんの顔が見えた。
「明日からしばらく、君とは会えません」
「えっ」
「ちょっと、事情があって」
彼女の声はいつも通りに澄んでいて、静かだった。戸惑いを隠せない僕は、それでも一つだけ、切実な望みを込めて問う。
「…また、会えますよね?」
「…ええ。きっと」
彼女は頬をゆるめて、僕の顔をじっと見つめた。
「だから、その時は、きっと迎えに来てね」
「はい。待っててください。必ず迎えに行きます」
彼女は「よかった」と呟いて、また仰向けになった。
何事もなく朝が来て、この十日はまるで嘘だったかのように、あっさりと過去になってしまった。僕らはたっぷりと睡眠をとって、昼も近くなった頃にごそごそと起き出して、身支度を整え、僕の住む町へ向かった。
電車に揺られながら、行き先を考えた。しばらく会えないと言うなら、今のうちに沢山話しておきたい。
「とりあえず、あの喫茶店へ行きましょう。昼ごはんも食べたいし」
「分かった」
ふらふらと歩道を歩いていく。日本の夏はやはり蒸し暑く、蝉がけたたましく鳴いている。
まもなく喫茶店に到着し、見慣れたドアをひらいた。
「いらっしゃい」
いつものように出迎えてくれた早乙女さんは、今度はヒナさんを見て動揺しなかった。僕はミルクティーを、彼女はアイスコーヒーを注文した。
「さて、じゃあ旅行の思い出話でも」
しばらくして、もう一杯ミルクティーをおかわりすることになった。
翌日。
僕はスマートフォンのトークアプリを開いて、ため息を吐いた。
数十件におよぶメッセージは、全て文乃からのものだ。
ヒナさんとの旅行は、彼女には言わないでおいた。反対されるのが目に見えているし、だからと言って彼女を説得し、許可を得ようとするのもおかしい。彼女は僕の友人であって、保護者や教師ではない。
しかし、全てを放置したのは間違いだったのかもしれない。
メッセージの内容は、客観的に見ても恐ろしい。初めのうちはまだしも理性的なのだが、後半は語勢を強め、ひたすら僕の居場所を訊ねている。
『帰ってきたら教えて』
最後のメッセージはこうなっていた。あまりにも返事が来ないものだから、僕が出かけていると判断したらしい。
正直触れるのも怖かったけれど、このまま放っておくわけにもいかない。どうせ夏休み明けには顔を合わせなければならないのだ。
意を決して返信する。
『いま、帰ってきたよ』
数分後に返事が来た。
『今から行く』
もはや、僕に拒否権は無いらしかった。
しばらくして現れたのは、いつも通りの文乃だった。外見も雰囲気も、僕の知っているものだ。
だから、変わってしまったのは僕の方なのかもしれない。
久しぶりに見た文乃の姿は、薄い膜を一枚隔てたところにあった。僕とは根本的なものを違えている、違う生き物のようでもあった。
「久しぶり」
「うん」
僕の部屋に入った文乃は、椅子に腰かけて僕を眺めた。その視線から逃れるように、肩をすくめる。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、外国へ」
「外国?誰と?」
「ヒナさんと」
彼女は目を細める。僕は顎を引いて、フローリングの床を見つめた。
「意味わかんない」
「何が?」
「だって、あの人とレイニーって、何の関係もないんでしょ?なのに、二人で海外旅行?」
「別に、いいじゃんか。ヒナさんは信用できる人なんだから」
「信用できるって…」
僕は変わらず、フローリングの床を眺めていた。
「こっち見て」
顔をあげると、文乃は見たことのない表情を浮かべていた。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。反射的に口の端を吊り上げる。
「ねえ、いい加減に目を覚ましてよ」
ああ、またそれか。
「目を覚ます?意味が分からない」
「凛!」
彼女はこちらを睨みながら、きわめて強い口調で言った。久しぶりに呼ばれた本名に、心臓がうるさく鳴っていた。
「なに?」
「ねえ、お願いだから目を覚まして。このままじゃ、駄目だよ」
何が駄目なんだろう。
「あの人が現れてから、ずっとそう。凛は、ちっとも現実を見てない」
「現実?」
「そうだよ。いっつも上の空って言うか、どこか遠いところばっかり見てる」
文乃は今にも泣き出しそうだった。対して僕は、笑いを堪えていた。
我慢ならない。
「ねえ、文乃は、僕の何を知ってるの?」
「え?」
「何が現実なの?僕が見ているものは現実じゃないの?」
「あ、その」
「たしかにヒナさんは普通じゃないし、未だに正体は分からないよ。でも、それが何だって言うの?僕がヒナさんのこと、好きになっちゃいけないの?」
彼女はうつむいて、膝の上で拳をぎゅっと握った。構わず続ける。
「僕は文乃のこと、友達だと思ってる。立川くんも。でも、さ。どうして、君たちはいつも、僕に『間違ってる』って言うの?それは僕が決めちゃいけないことなの?」
「違うよ」
顔を上げた文乃は、目に涙をいっぱい溜めていた。さすがに少し怯み、口を噤む。
「間違ってるだなんて、そうじゃなくて…」
「なら、何なの?僕は不器用で怠惰かもしれないけれど、それは、いけないことなの?」
人間一般とか云うものがあるのならば、問うてみたい。果たして僕は、間違っているのだろうかと。
間違っている。そう思って生きてきた。けれどヒナさんに出会って、自分を正当化しようと考えた。きっとそれだけの事なのだろう。だから僕は、傍目には傲慢にみえたことだろうし、もしかしたら明るくなったのかもしれない。
救いを待ち続けることは傲慢だ。でも、それを願うことは、果たして罪だろうか。
あまりにも死に近い人間。自分の状況や言動に没頭できず、どことなく人生から遊離して、それでも人格の檻から抜け出せず、ひたすら、人間一般とか云う大海に窒息し続けて、いつか死ねるのを待っている。
シンデレラに成れない、怠惰な出来損ない。
つまるところ、それが僕の本性だった。
「僕は僕のままで、幸せになっちゃいけないの?」
「あ、え、っと」
とうとう、文乃は涙をこぼした。それを見たくなくて、ふいっと視線を逸らす。
「…今日は、もう帰って」
文乃がゆっくりと出ていくのを、立ち上がりもせずにぼんやりと眺めていた。
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