天国みたいな
地には青い、小さな花が群れて乱れ咲いている。ここからだとカラフルな絨毯のようだった。ところどころに例の桜が立っていて、淡い花弁を風に散らしている。花畑を荒らさないように、何本か道がつけてあった。
僕らはゆっくりと坂を下り、すぐそこにあった細い歩道へ入った。低い柵で仕切られているものの、青い花はこちらへ溢れ出さんばかりに、勢いよく伸びている。
「綺麗」
「ええ」
ほとんど言葉を失いながら、くねくねと遊ぶように伸びた、土が剥き出しの細い道を、のんびりと歩く。あちこちで見たことのない蝶々が飛んでいて、それを狙っているのか、低空を鳴きながら小鳥が飛んでいる。
天国があるとするならば、きっとこんな場所なのだろう。
それはごく単純に美しく、正しい生命に溢れていて、簡素な幸せで満たされていた。濃厚な花の香りが鼻を擽る。風が吹くと、いっそう派手に花弁が舞った。
そのうちに桜が近づいてきて、僕らは一休みすることにした。
気の利いたことに、木陰にはベンチが置いてあった。白くて、木製で少し古びていて。色こそ違うものの、それはあの日、ヒナさんが寝そべっていたベンチを思い出させる。
「ほんと、綺麗なところ」
「ずっと居たいくらいですね」
「だよねえ。わたし、寝ちゃいそう」
言ってから、彼女は欠伸を遠慮なしにもらした。
「まだ眠いですか?」
「んー、時差とかの関係もあるのかな。初めてだからよく分からないけど」
彼女はぐっと体を伸ばし、僕の肩に寄り掛かる。驚きはしたけれど、緊張は無かった。柔らかな温もりが心地良い。
「ちょっと、お昼寝しますか?」
「いいの?」
「はい。いつもどおり、でしょう?」
彼女は
木漏れ陽のなかで、しばらく眠っていた。
気づくと横になっていて、何か温かいものに頭を載せていた。やがて、それはヒナさんの太腿なのだと気づき、はね起きた。
「あ、起きた?」
「ごめんなさい。すっかり寝ちゃって」
「大丈夫、まだそんなに経ってないはずだよ」
時計を確認すると、ここへ来てから一時間も経っていないらしかった。それにしても、二十分くらいは眠っていたはずである。
「起こしてくれて良かったのに。重かったでしょう」
「すごく気持ちよさそうに寝てたから、つい」
照れて笑った僕の頭に、彼女が手を載せる。
「疲れてたのは、わたしだけじゃなかったみたいだね」
「あ、いや、疲れてるってほどでは」
「ほんと?無理してない?」
頷くと、彼女は相好を崩して僕の頭を撫でた。
「ちょ、ヒナさん、なんか恥ずかしいです」
「ごめん、なんか撫でたくなって」
言いながら、彼女は手を引っ込めた。僕は傍らに置いてあった紙袋を持ち上げると、朝食のサンドイッチを取り出す。
「食べましょう」
ヒナさんに一つ渡して、自分のぶんに齧りつく。昨日の肉料理とは打って変わって、さっぱりとした味わいだ。具材も野菜を中心に、きわめてシンプルなものだった。
「こういうとこで食べると、なんか美味しいよね」
彼女は口もとを手で押さえながら呟いた。
「ええ、ほんとに」
オレンジジュースをストローから飲む。ペットボトル入りの安っぽいものとは違って、きちんと新鮮なオレンジの風味が感じられる。
ストローから口を離すと、何気なく訊いてみる。
「そう言えば、ヒナさんの苗字って、何ですか?」
意外な質問だったのか、彼女は目をぱちくりとさせて、少しのあいだ黙っていた。それから、感情の読めない表情で答える。
「秘密。って言っても、きっと、わたしに苗字なんて無いんだ。ヒナっていうのも、本当は、違う」
「…そうなんですね」
事情があるのは重々承知だったが、名前すら与えられていないとは思わなかった。少しの後悔を感じつつも、謝ることはしなかった。それはなんとなく不誠実で、優しくないような気がした。
「なんか、ごめんね。ほんとは全部話してしまいたいのに、秘密ばっかりで」
「いえ、気にしないでください。僕は、ヒナさんがここに居てくれたら、それでいいんです」
「…そっか」
彼女は嬉しそうに頬を緩めた。頭上で小鳥がさえずる。
「凛くんは、あだ名とかないの?」
「あります、けど、それで呼んでくれるのは一人だけですね」
「どんなの?」
「レイニー。英単語の」
彼女は僕の言葉を復唱してから、ちいさく頷いた。
「なんというか」
「ずいぶんネガティブな感じでしょう?」
僕は笑って、あだ名の由来を語って聞かせた。ヒナさんは黙って聞いてくれたが、どことなく湿っぽい空気になってしまった。
「なるほど、でも、素敵な話だね。凛くんは文乃ちゃんと、ほんとに仲がいいんだ」
「まあ、幼なじみですから」
言っておいて、一瞬だけ目を逸らした。
若干の罪悪感に苛まれる。今の僕らの関係は、決して人に誇れるものではない。
彼女は「そっか」と呟いてうつむいた。その横顔は、ひどく寂しそうにみえる。
「どうしました?」
「え?」
「いや、なんか寂しそうだったから」
彼女は目を見開いた。
「そんな顔、してた?」
「ええ」
「ごめんなさい、その」
彼女は言い淀んだ。息を呑んで、その続きを待つ。
「凛くんには、居場所があるのかなって。やっぱりわたしみたいなのと居るべきじゃないのかも」
「そんなことないです」
きっぱりと否定する。それだけは、きちんと伝えておかなければならない。僕のためにも、彼女のためにも。
「でも…」
「僕は、たしかに愛されてきたんだと思います。母は死んでしまいましたが、それでも、父は僕を愛してくれましたし、不自由することもありませんでした。少ないながら友達と呼べる人間も、居るには居るんです」
言いながら、なんて滅茶苦茶なことを考えているのだと、我ながら呆れた。けれどそれは、間違いなく僕の本音だった。
「それでも、僕には居場所が無かった。ずれてるんです。いやもう、ずれているのかどうかも、正直よく分かりません。とにかく、間違ってる気がするんです」
「間違ってる」
「はい。劣等感、なんでしょうか。それに、もう何をしたって楽しくないし、満足もできなくて。だから今は、ヒナさんだけが救いです」
足りないものなんて一つも無いはずなのに、自分を認めてやれない。自分の幸福や感情にまで説明文を付けて、挙句、小説なんてものまで書いて、何かに納得しようとしていた。
彼女はしばらく黙っていたが、ややあって、ぷっと噴き出した。
「それだと、わたしが神様みたいじゃない」
ああ、似たようなものなのかもしれない、そう思った。
「そうかもしれません。たぶん人間は、誰しも縋るものを探しているんだと思います。僕の場合は、ヒナさんでないと駄目なんです」
「縋るもの、か」
「それが神様だろうと仏様だろうと、正体不明の美人さんだろうと、大した違いはありません」
「なるほどね」
彼女はくすくすと笑って頷いた。
人は誰だって救われたい。それだけの事だ。
「なら、よかった」
「僕は好きでヒナさんといるってこと、忘れないでくださいね」
「はーい、分かりました。…だから君は、人間臭くなかったのかもしれないね」
「どういうことですか?」
「認めてあげられないんでしょう?普通に生きているはずの自分を」
「…ええ」
「わたしはね、人間を分かりたくて、たくさん本も読んだし、色んな人の話を聞いてみたりしたけど」
彼女は不意に黙り込んだ。それから僕の顔を覗き込んで、悪戯っぽく笑った。
「ねえ、わたしが、一番初めに気づいた人間の特徴って、なんだと思う?」
「…分かりません。なんですか?」
「満たされないってこと。それだけは、本の世界も現実も、変わらないみたいだった。みんな、どっかで満足してなくて、それでも大抵の人は、何かで誤魔化して生きている」
「誤魔化して」
「そう。方法は、なんでもいいんだけどね。でも君は、それができない」
僕は頷く。
「それが難しいんです。それを上手くやることは、自分を否定することなんです」
「ええ、でもそれは」
「怠惰、ですか?」
彼女はため息を吐いて、背もたれに体重を預けた。
「『普通』の人から見たら、そうなんでしょうね」
「ヒナさんからは、どう見えますか?」
「わたしは、ある意味で正しいんじゃないかと思う。その甘さを、知ってるからね。憧れたっていいでしょ。救いは、待つものなんだから」
彼女は遠く、視線を泳がせていた。異国で見上げる空は、どうにも、僕の知らない色をしている。
「止まっていたら、幸せにはなれない」
彼女の発した言葉は、紙よりも軽くて色がなくて、ふわりと風に浮かんだ。
「難しいね」
「ええ。難しいです」
この現実だけでいい。何もかも忘れられるような場所で、ヒナさんと二人、どこまでも和やかに、こうして居られたなら。
永久の停滞は、果たして幸福であり得る。
翌日は、古い石造りの建物へやって来た。
いっときには有名な作家が住んでいたとかで、これも観光名所として知られているようである。
「へー、ここで書いてたんだね」
「その人も、自分の家が観光スポットになるとは思ってなかったでしょうね」
「だろうね。…想像すると、なんかヤだなあ」
ヒナさんは木製の机に指先を触れた。年月を感じさせるそれは、至るところに傷が目立っていた。
「ところで」
「はい?」
「凛くんは、写真とか、嫌いですか?」
「いや、そうでもないですけど」
彼女は小さなトートバッグから、何かを取り出した。
「デジカメ?」
「そ。せっかく旅行に来たんだから、写真くらい撮りたいなって」
「いいですね。撮りましょう」
本当は写真なんて、特に人と一緒に撮られるのは苦手だけれど、相手はヒナさんだ。嫌なはずがなかった。彼女からデジカメを受け取り、肩を寄せる。
スマートフォンのようにはいかないので、思いのほか難しい。何とかシャッターを切って、僕らは写真に収められた。
「うん、ちゃんと撮れてるね」
「…やっぱり、つり合わないなあ」
「えー、そんなことないよ。じゃあ、これから色んなところで撮っていこうね」
僕が了承すると、彼女は嬉しそうにデジカメをバッグに仕舞った。
文豪の家を後にして、今度は石畳の路地を歩いた。少し先に、黒猫が尻尾を揺らしながら、ぐったりと寝転んでいた。その上では、僕には読めない看板が壁から突き出している。
「こっちにも野良猫っているんだあ。よーしよしよし」
ヒナさんは猫に駆け寄り、撫でまわし始める。猫は満更でもないらしく、ごろごろと喉を鳴らして転がった。
「おー、人に馴れてるね。幸せそうで何より」
そう言う彼女の方が幸せそうだった。
「前にもこんなことありましたよね」
「えーと、ああ、あったね」
「猫、好きなんですか?」
「うん。可愛いし、自由だし」
たしかに、犬よりは自由なイメージがある。
それにしても、珍しいことだ。彼女が特定のものを好きだと言うことは、ほとんどなかったから。理由は、今となっては何となく分かる。
すっかりご満悦なヒナさんを見下ろしていると、唐突に昨日の仕返しをしてやりたくなって、彼女へと手を伸ばした。
「わっ」
ヒナさんは体を揺らして、こちらを振り向いた。構わず、彼女の髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。それは滑らかで、見た目通りの触り心地だった。
「ちょっと、凛くん?」
「昨日の仕返しです」
「なんで今?」
「なんとなく。ヒナさんが猫にみえたので」
動物に例えるなら、彼女には猫がもっとも相応しい。次いで、カラフルな小鳥だ。
「むー」
「嫌でした?」
「嫌じゃ、ないけど」
僕は笑って手を引っ込めた。彼女は少し照れたように目を逸らして立ち上がると、僕に背を向ける。
「あれ、ちょっと怒ってます?」
「なんか、今のはズルい」
これまで何をやっても照れるのは僕の方だったので、この反応は新鮮だ。隣に並んで彼女を観察する。こう見ると、本当にただの綺麗なお姉さんだ。心做しか唇を尖らせたヒナさんは、こちらをちらと見て、また前を向いた。
「凛くんのくせに」
「えー、なんですか、それ」
路地を抜ける。陽は高く昇り、街も多少は活気づいてきた。噴水のある大きな公園を横目に見ながら、ゆったりと歩いていく。
欠伸のあとに大きく息を吸い込んで、どこからか漂う甘い香りに気づいた。まもなく、彼女が店の看板を指さす。
「パン屋さんだって。行ってみよ」
先ほどまでの拗ねた表情はどこへやら、彼女はからりと笑って店へ向かった。
今日も良い天気だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます