言い訳
長時間の移動にくたびれて、着いたところは西洋を思わせる街だった。地面は現代風にきっちりと舗装されているが、すこし細い道などへ入ると、古い石畳が残されていた。僕らが到着したのは夜で、見上げた空も、日本とはどこか違ってみえた。
いちおう治安は良いそうだが、見知らぬ土地を暗闇の中で歩き回るのも心許ない、ということで、僕らはさっさとホテルへ向かった。それほど豪奢な感じでもないが、内装はまだ新しくて綺麗だった。一度別れて、それぞれの部屋へ入る。
入ってすぐの所にトイレとバスルームがある。短い廊下を抜けると、正面に窓が見えた。簡単なテーブルと椅子も置いてある。
一人で過ごすには十分すぎる部屋だ。ベッドの上へリュックサックを投げ置き、窓から街並みを眺めた。三階の高さから見下ろすと、ぽつぽつと灯りが見える。
しばらくぼうっとしていると、ノックの音が聞こえた。
「凛くん」
ドア越しにヒナさんの声。すぐさま迎えに出る。
「なかなかいい部屋ですね。落ち着く」
「ええ。ね、ご飯食べに行こ」
彼女の話によると、一階にレストランが入っているらしい。さっそく下へ向かう。
レストランはロビーの奥、自動販売機が二台並んだ、その向こうにあった。入口に簡単な案内板が置いてある。
分かっていたことだが、少しげんなりした。
「まあ、当たり前ですけど、英語ばっかりですね」
「…うん」
英語が通じるだけマシだと思いたいけれど、不便といえば不便だ。
「これ、大丈夫ですか?」
「ま、なんとかなるでしょ。大丈夫、お姉さんに任せなさい」
中に入ると、まもなく席に通された。木を基調とした内装で、テーブルと椅子も木製だった。
メニューを吟味する。これも当然のように英語で書かれているうえに、写真を見てもよく分からない料理が多く、僕は途方に暮れてしまった。
「いまいち分かりません」
「えーっと、これが、魚のフライと…」
彼女はメニューを一つずつ指さしながら、料理の内容を教えてくれる。
「あれ、ヒナさん、英語得意なんですか?」
「得意ってほどでもない、けど」
それにしては、きちんと読めているようだ。彼女の言葉を頼りに料理を選んだ。決まったところでウエイターに注文を伝える。
ヒナさんの英語は驚くほど流暢だった。注文は滞りなく完了し、彼女は胸に手を遣りながら、ほうっとため息を吐いた。
呆気にとられて、彼女の顔をじっと眺めた。こちらに気づいた彼女は、いつものように小さく首を傾ける。
「どうしたの?」
「…もしかしてヒナさんって、すごく賢かったり?」
「え、あ、いや、そんなでもないよ。言ったでしょ、教育は受けてたって」
まともに学校へ通っていても、あれほど流暢な英語が身につくだろうか?そう言えば、ここへ来るまでの手続きでも、かなりヒナさんに助けられた。
「なんか、僕、場違いじゃないですか?」
「どういうこと?」
「いやあ、僕みたいなのがヒナさんと居ていいものかと」
只者じゃないとは知っていたが、まさか、こんなところまでとは。ヒナさんは照れたように破顔して、顔の前で手を振る。
「いやいや。ま、たまにはお姉さんらしいところも見せとかないと」
「ほんと、頭が下がります」
「大袈裟だなあ。…こっちこそ、ついてきてくれてありがとう。凛くんのお父さんにも感謝しなきゃだね」
「いや、そんな…」
テーブルの上に視線を落とす。焦げ茶色の木目が、何となく人の顔みたいにみえた。
「わたしね」
「はい?」
「時々、すごく不安になるんだ。自分が何者なのか、自分でもよく分からなくなって」
彼女は僕の胸元あたりに目を向けて、ちいさく呟いた。
「わたしは、わたしだって、分かってるのに」
何も言えず、ただヒナさんのことをじっと見つめていた。彼女は顔をあげて僕と目を合わせ、優しげに微笑んだ。
「でも、凛くんと会ってから、すごく楽になった」
「僕が、人間にみえないからですか?」
僕も頬を緩めた。
「んー、どうだろう。なんて言うのかな、君は、あの、人間の嫌な感じがしなかった」
「嫌な感じ」
「ええ。自分が普通の人間だって言い張ってるような、あの感じ」
彼女は水を含んだ。
「それを言うなら、ヒナさんだって」
「わたし?」
「はい。ヒナさんは、ちゃんと目線を合わせて話してくれる。僕も、それは嬉しかったです」
彼女は笑みを崩さないままで、顎の下に人差し指をあてた。
「わたしは、言い張れる自分が無いからね」
「似たもの同士、なんですかね。僕ら」
「ええ、きっと。だから、君になら助けを求めてもいいのかなって、そう思って。それで、楽になった」
黙って頷く。まもなく、ウエイターが料理を運んできた。
「わー、美味しそう」
テーブルに並べられる料理を眺めて、彼女は嬉しそうに呟いた。ウエイターが一礼して去っていくと、僕らは食事を始める。
無難なものを、と思って頼んだ肉料理はジューシーで、美味しかった。日本のものとはまた違う、豪快で主張の激しい味だ。彼女は魚の、たぶんムニエルとかいう料理に類するものを食べていた。
「いいねいいね。やっぱり外国って感じでさ」
ヒナさんがはしゃいだ声を控えめなボリュームであげる。僕は肉を咀嚼しながら頷いた。
「明日は、どうしましょうか?」
「そうだねえ。とりあえずメジャーな観光名所をまわって、うん、気の向いたように歩こう」
「いつもみたいに?」
「いつもみたいに」
思わず笑みが零れる。それから数十分ほど、思いのほか量の多い料理に舌鼓を打ちながら、彼女と談笑を続けた。
食事のあと、僕らは明日に備えて早めに就寝することにした。
「おやすみなさい」
「ええ、おやすみ」
自分の部屋に戻ると、まずは入浴を済ませた。それからコップに一杯の水を飲んで、おとなしくベッドに横たわった。シーツからは香水みたいな匂いがした。
夢みたいだった。あるいはひどく現実的だった。
まるで矛盾した感触。
彼女と居ると、いつもふわふわと足下がおぼつかないような、奇妙な浮遊感に襲われる。だからと言って不安になったり、ネガティブな気分になったりすることはなく、むしろ僕は、いつにもまして陽気に、楽観的になる。
居場所、そんなもの。
僕には、おおよそ居場所というものが無かった。家は居心地の良い寝床であったし、学校にも話せる友人がいる。母を喪ったという忘れ難い過去をもっているとしても、僕はいま、おそらくは『普通』で、幸福であるはずだった。
だからその疎外感は、おおよそ理解されるものではない。人間一般から押し出されているという感触。どこかずれているのである。
人間一般、とは、 何だろう。そもそもどこに、一般的な人間のかたちがあるというのだろう。僕が間違っているのなら、正解はどこにあるのだろう。
お前は危なっかしい。そう言った立川くんの目が忘れられない。文乃だってきっと、同じ目で僕を見ているのだろう。
『お前は間違っているんだ』
そう、誰もが僕を見て言う。見下されることには慣れているし、相手にへりくだられることすら恐ろしい攻撃の予兆だと警戒してしまう人間だから、むしろ見下されているくらいがちょうど良い、のだけれど、それにしても、彼らの自信はどこからやってくるのだろうか。
一体どうすれば、そんなふうに傲慢になれるのだろうか。
一向に分からない。
僕がヒナさんに会って変わったというのなら、それは正常な変化だ。それこそが本来の僕であり、無理をしない、自分を定義する檻の中で、何も苦しまず、両手両足を投げ出して寝転んでいる状態なのだ。
これまで、文乃や立川くん、ひいては両親にさえ、必死にポーズを作ってきた。神経過敏の軟弱者であるからこそ、檻の外に手を伸ばしたり、時には窒息してまで所謂『人間一般』と同調することを甘んじて受け入れてきたのだ。
ああ、もう考えたそばから反論の声が聞こえるみたいだ。それはお前だけじゃない。みな、苦労して人と付き合い、生きているのだ。
そんなことは分かっている。でもそう言っている人々の、努力というのか、苦痛というのか、とにかく自身の人格にそぐわぬこと、その程度は、一体どれほどであろうか。自身を根っこから正して、破壊しなければならないと、そんな危機感に襲われたことが、一度でもあるだろうか。
僕は幾度となく考えた。死ねないから生まれ変わるしかないのだと、そう思ってみたけれど、できなかった。自身を否定して、それを当然の事として受け入れるには相当なエネルギーが要るのだ。つよい者には分かるまい。そこへ向かうエネルギーの残量だって、まるで初めから決められているみたいで。
どこにも出口など無く、ただ、このまま人格の檻の中で窒息するのだと思っていた。
怠惰。ふっとそんな言葉が脳裏を過ぎって、我ながら笑えた。
気づかぬうちに眠ってしまっていたらしい。目を開けると、窓の外はもう明るく、陽はすっかり昇ってしまっていた。慌てて身を起こし、時計を確認する。午前八時半。ほっと胸を撫で下ろした。
ひとまず顔を洗って歯を磨き、身支度を済ませてしまった。スマートフォンと財布を持ち、部屋を出る。
ヒナさんの部屋へ向かい、ノックしてみる。が、返事は無い。
「ヒナさーん」
呼んではみたけれど、相変わらず返事は無い。少し間を空けて、もう一度ノックしてみる、と、今度は反応があった。なにやら物音が聞こえる。
「ごめん、寝てたあ」
ドアが開いて、寝ぼけ眼の彼女が現れる。いつもはまっすぐに垂れ下がっている髪の毛が、へんな位置で跳ねていた。
ベビードールというのか、露出度の高い服を着ていた。目の遣り場に困って、露骨に視線を逸らす。
「お、おはようございます」
それに気づいたらしく、彼女はくすくすと笑ってドアの隙間を細めた。
「素直な反応。ごめんね、着替えるからちょっと待ってて」
そう言って、ヒナさんはドアを閉める。咳払いを一つして、廊下の壁にもたれかかって彼女を待った。
しばらくして出てきた彼女と一緒に下りて、フロントで鍵を預けると、青空の下へ出た。
「おー、やっぱり昼間に見ると、違う感じだね」
「ですね。お洒落だなあ」
昨日はあまり見えなかった細部を知って、僕はますますこの街を不思議に感じた。決して寂れているわけではないのに、雰囲気が落ち着いている。人もそれなりに見かけるけれど、街全体がとても静かだ。
石畳の広場を通り、朝食用のサンドイッチと飲み物を買って、浅い小川の流れる砂利道に出た。これをしばらく行けば、景色の良いところがあるらしい。
「あれ、なんだろ?桜かな?」
ヒナさんは対岸を指さす。たしかにそれは、桜にそっくりだった。花びらの色は桜よりも淡く、それが微風に吹かれて小川へ散りこんでいる。樹の背丈は三メートルそこらとみえ、小川沿いにたくさん植えられている。ここだけでなく、街のあちこちで見かける樹だ。
「たしかに、そっくりですね。夏なのに、桜かあ」
そういえば、日本よりも気温は低く感じられる。向こうは夏真っ盛りで蝉が鳴いているというのに、こちらは日本における六月、いや五月といってもよいくらいの気温である。調子が狂うけれど、今はたしかに夏なのだ。
「へんな感じだね。あんまり暑くないし」
「ですね。春の終わりみたい」
道端には小さくて星型で、薄紫色の花が咲いている。どことなく勿忘草に似ていた。小川はゆったりと流れていき、時折瀬を見せながらも水は尽きず、明るい陽をきらきらと映している。
「凛くん」
「はい?」
「誰かのための人生って、どう思う?」
不意に投げられた質問に、思わず隣を見遣った。そこにはいつも通りの横顔があって、特別な感情は読み取れなかった。
特に驚きもせずに、答を考えてみる。ひどい響きだが、僕の頭に浮かんだのはそれほど悪いイメージではなかった。
「…悪くないのかもしれませんね」
「どうして?」
「それが、生きる意味になるからです。もっとも、その相手が誰なのか、ってことは、重要ですけど」
「なるほど」
ヒナさんは頷いて、右手でかるく前髪を押さえた。
「そう、かもしれないね」
「ええ。人は、独りでも生きていけますが、それはひどく虚しいことです。命の重さみたいなものは、人に見られて初めて生まれてくるんだと思います」
自意識は、そのためにあるのかもしれない。客観的な命の価値を知るために。
「たしかに。自分が死ぬのを、自分では悲しめないよね。あれ、それも正確じゃないのかな…まあいいや。君は、どう?誰かの為に、生きていける?」
「ヒナさんのためなら」
意外なことに、臆面もなく言えてしまった。とくべつ恥ずかしいとか、そんなことは思わなかった。不思議なくらい素直になっていた。
「また君は、そんなこと言って」
「ほんとです」
ヒナさんは肩を揺すって笑った。
「照れるなあ、もう。ありがと」
「いえいえ」
「あ、なんか看板出てる」
ヒナさんが指さした先には、くたびれた看板が立っている。彼女は近づいてそれを眺め、ややあって振り向いた。
「もうすこしだね」
「絶景、って聞いたんですけど、何があるんですか?」
「んー、なんか花畑らしいよ。今が見頃なんだって」
それはまた、僕らの散歩におあつらえ向きである。彼女は左右にゆらゆらと揺れながら、どこかで聞いたことのある歌をハミングした。
平坦な道をしばらく歩いていくと、白い柵が見えてきた。それは左右へ伸びていて、並行するように、桜みたいな樹がずらりと並んでいた。
「あれかな」
入口はここからまっすぐのところに見えていて、なかの様子が少しだけ窺える。下り坂になっているらしかった。その向こうは見えない。
僕らは入口に到達し、そこで息を呑んだ。たしかにそれは絶景だった。
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