遠い国
『そもそもの間違い。それは世界の方ではなくて、私の内に在ったのである』
その一文を書いてから顔をあげた。時計の針は午後三時を示していて、部屋には僕一人で、窓の外は炎天の快晴だった。
夏休みまで一週間となった日曜日、外へ出る気も起こらず、自室で怠惰に休日を過ごしていた。
近頃、小説を書く手が動かない。これまでは何を考えずとも自然と文字が連なり、文章に成っていったものだが、このところ全く駄目だ。
なんとなく原因は分かっていた。原動力の枯渇だ。
胸の内に、
少し、寂しいような気もする、しかし、おそらく良いことなのだろう。どれだけ小説を書こうとも、優れた文学作品になるわけでもなし、誰のためにもならないのだから。今の方が、よほど健全と言える。
立ち上がって、空を見上げた。
たぶん。
たぶん、僕は何かを探していたのだろう。それは綺麗な女性だったのかも知れないし、仲間だったのかも知れない。あるいはもっと抽象的な、概念に近いものだったのかも知れない。
その何かを、小説のなかに探していた。
今は、それを彼女の内に見出している。
「おはよう」
文乃はひどく不機嫌に言った。僕は苦笑して応える。
「おはよ。まだ怒ってる?」
「別に」
まだ、と言うかずっとだ。最近、彼女はいつも不機嫌で、それなのに口はきいてくれる。なんとも不自然な態度だ。これまでにも似たようなことはあったものの、これほど根深くはなかった。
「ヒナさんのこと、そんなに気に入らない?」
「…まあね」
文乃とヒナさんは一度話している。その時は流石の文乃もしおらしく、愛想の良い振りをしていたのだけれど、実際のところ彼女の評価は良くない。
「なにが嫌なの?」
「…はっきり言うけどね、あの人とは関わらない方がいいよ。パッと見た感じでは綺麗なお姉さんだけど、裏では何考えてるか分かんない」
「それは偏見だよ。少なくとも彼女は、悪人じゃない」
言っておいて、何だかひどく暴力的に感じて閉口する。嘘ではないはずだが、そういう断言は、どこか間違っているような気がする。
文乃はかぶりを振った。
「レイニーは、好きになっちゃってるんでしょう?だから分かんないんだよ」
「じゃあ文乃は、具体的にどこが引っかかってるの?」
「…表情、かな。まあ、レイニーには分かんないよ」
彼女はつっけんどんに返すと、足早に行ってしまった。仕方なく、僕も歩調を速める。
教室に入ると、立川くんが近づいてきた。
「よう」
「おはよ」
肩を組んで暑苦しい挨拶を仕掛けてきた彼に、平坦な声で答える。
「なんだテンション低いな。明日から夏休みなんだぞ?」
彼は爽やかに笑うと、僕の背中を叩いた。その感触さえも、どこか遠かった。
今日は授業もなく、蒸し暑い体育館でつまらない話を聞き、いつもより丁寧な掃除が終わると、もう放課となった。何をしていても、彼女のことばかり考えていた。
「よっしゃ、終わったな」
「そうだね」
前を向いたままで相槌を打った。
「凛。どっか行こうぜ」
「あ、うん」
ほとんど反射的に頷いてしまってから、立川くんのほうを向いた。彼は鞄を肩に担ぐようにして、爽やかな微笑を浮かべていた。
「とりあえず飯だな」
僕らは歩きながら行き先を考えた。浮かれた空気は校舎全体にあって、でも僕には、却って寂しく思われた。なぜだか分からないけれど。
「なあ、凛。木立のことなんだけどさ」
交差点で信号待ちをしている時、立川くんが躊躇いがちに言った。僕らは陽を嫌って、近くに落ちた街路樹の影へ逃げ込んでいた。蝉が頭上でやかましく鳴いている。
「うん?」
「…単刀直入に訊くぞ?お前、あいつのこと、何とも思ってないのか?」
質問の意味が、分かるような分からないような。
遠くに陽炎が揺らめいているのをぼんやりと眺めて、恐らくは彼が意図したと思われる問に答える。
「僕らは、恋人にはならないよ」
「…そうか」
「でも、友達として大事だから、早く機嫌を直して欲しいとも思ってる」
言っておいて、その白けた感じに呆れる。それは本心だろうか?
彼は無言で頷くと、軽くうつむき、何かを考えているような仕草を見せた。信号が青に変わって、僕らは再び炎天に肌を晒した。
「…友達に対して説教臭いのは嫌だから、言いたくないけどよ」
「なに?」
「最近の凛は、ちょっと変わったぞ。良いか悪いか、それは俺が決めることじゃないけど」
思わずどきりとして、僕は全身をこわばらせた。冷たいものを感じる。
「変わったって、どんなふうに?」
「んー、そうだなあ。俺から見ると、明るくなったみたいだけど。でも、なんだろ。上手く言えないけど、なんか」
「なんか?」
「…現実を見てない、っつうか、魂が抜けてる」
驚いたことに、僕は小さく笑ってみせただけだった。
「そうかな。自分ではよく分からないけど」
「ああ。俺だって、凛の全部を分かってるわけじゃないけどさ。ちょっと、危ない感じがする」
何も言えないまま、自分の影を見下ろした。奇妙な形に潰れて、ひどく不格好だった。
「…それは、僕がヒナさんと関わっているから?」
彼女の話は、彼にも聞かせていた。
「それだけ、とは言えねえよ。でも、お前の変化はその人と出会ってからだからな。影響はあるだろう」
「まあ、うん」
「俺は、元に戻れとは言わねえ。でも、気をつけてな。凛は、危なかっしいところあるから」
もう、何も言わなかった。彼もまた、少しの間黙っていた。自転車に乗った女の子が、隣を走り抜けて行った。
「…悪いな、こんな話して。じゃ、気を取り直して、飯だ飯!」
頷いた、はずだけれど、それにすら自信を持てないでいた。
旅行の前日、旅の荷物をまとめながら、知らずにため息を吐いた。
脳裏を過ぎったのは文乃の顔だった。
彼女のことを、嫌いになったわけではない。ずっと、傍に居てくれたし、友達として何度も助けてもらった。
ただ、ズレが我慢できなくなりつつあるのだろう。立川くんにしてもそうだ。二人は友達になってくれたけれど、いつも、少し高いところに立っている。そして僕を見下ろして、きっと大勢が味方する正しいことを言うのだ。
卑屈すぎるだけだろうか。それも、否定はできない。
ヒナさんの与えてくれる安らぎの特別さ、その肝は、おそらくそこにある。つまり、彼女は一度だって、僕と違うところに立たなかった。いつだっておんなじ高さに立って、正面からものを言ってくれた。頭ごなしに否定するようなことは、決して無かった。
雨が降っている。それが心象風景だった。
いまや、雨は止んだのかもしれない。けれど、灰の空は依然として残り続けている。
人間は灰色だ。どっちつかずの混合色。
そんなことを思って、独り笑った。
分からないのだ。立川くんも文乃も、ヒナさんも。だからこそ、誤魔化さず、凝り固まった主観を振りかざすことなく、僕を僕として見てほしかった。もっとまっすぐに、向き合ってほしかった。
だから僕は、ますます彼女にのめり込んでいく。
『手荷物は最小限に』と言われ、大きめのリュックサック一つで家を出てきた。中身はほとんど着替えで、後は少しの現金とスマートフォン。そのくらいだった。
父は、あっさりと旅行を認めてくれた。身の安全に気をつけること、言われたのはそれだけだった。
「凛くん、お待たせ」
約束の時間ぴったりに、彼女は鞄一つで現れた。夏らしい白のワンピース、髪はリボンでゆったりとまとめられ、首には細いチョーカーが巻いてあった。
「ヒナさん」
「まだ時間あるけど、早めに行っちゃおうか」
そう言って、彼女は僕の隣に並ぶ。お菓子みたいな匂い。
「なんか、お姫様みたいですね」
思わず本音が漏れた。
「え、そう?可愛い?」
ちょっと焦ったけど、訂正する気にもなれなかった。
「はい」
「ふふ、なら良かった」
僕らは可能な限り陽射しを避けながら、駅のほうへ向かって歩いた。見慣れた商店街を行くと、たっぷりと残された夏休みに、はしゃぐ学生の姿がちらほらと見受けられる。
まずは電車に乗り、少し離れた街まで行って、そこで飛行機に乗る。
そのまま、ついこの前まで名前もうろ覚えであった遠い国へ行く。
ひと月ほど前、僕らは旅の舞台を決めるべく、ヒナさんの部屋で話し込んでいた。彼女の部屋には冷暖房やそれに類するものが無いけれども、不思議と涼しい。殺風景で心を蝕む部屋ではあるが、ただ過ごすぶんにはひどく快適な部屋である。
僕らはベッドに腰かけ、たくさんの案を出した。しかし、これといって良いものが浮かばず、困り果てていた。
「もういっそ、海外へ行っちゃおうか」
そう言ったのはヒナさんだった。僕は呆気にとられた。
「でも、お金とか、あと言葉とか、大丈夫ですか?」
「英語ならなんとかなるでしょ。それに、お金は気にしなくていいよ」
「…ヒナさんがそう言うなら」
「やったー。えっとね、海外なら、前から行ってみたかったところがあって」
予想に反して事はすんなりと進んでいき、今に至る。
海外へ行く、と父に報告した時には、さすがに驚かれたけれど、それでも許してくれた。
『良い体験になるだろう。くれぐれも、その方に迷惑をかけないようにな』
普通の親ならば世間体なども考慮して、ヒナさんの存在を怪しむところだろう。旅費さえ要求せずに海外へ連れていくと言うのだから、それが当然の反応だ。父は特殊と言える。
母の死が影響しているのだろうか。あまり考えたくない。
駅に着いて、ひとまず朝食を摂ることにした。夏の陽射しは時間の感覚を麻痺させる。まだ七時半だった。
コンビニで買ったパンとカフェラテだけの簡単な朝食を、比較的人通りの少ない自転車置き場の裏側、その壁際に置かれたベンチに座って、青い空を見上げながら食べる。
本当は、どこでも良かった。こうしてヒナさんとふたり、ぼんやりとくつろいでいられたなら、それでいい。だから遠い国というのは、まるで記号のように感じられた。
このまま彼女と現実を離れて、二人で何かを見つけに行くのだ。
「いい天気だね」
「そう、ですね」
もう、何も考えていなかったし、何も考えたくなかった。ただ、隣に彼女の温もりだけを知っていたかった。
電車に揺られ、空港に着いてあれこれと事務的な事柄を片付けていると、時間は思いのほか速く過ぎていった。今は、トイレに席を立った彼女の荷物を見張りながら、ロビーの椅子に座っている。
立川くんは、僕が変わったと言った。その意味は、存外と分からないではない。たしかに僕は、現実から目を背けているのかも知れない。ヒナさんという非日常を手に入れて、それに縋り、何かから逃れようとしている。これまで胸の内を占領していた自殺願望は、気づけばほとんど消え失せていた。
ああ、僕は生きようとしている。
「おまたせ」
彼女の声に、意識は現実へと引き戻される。
「ヒナさん」
「ん?」
彼女はゆっくりと隣に腰かけ、欠伸をした。
「どしたの?」
「僕らのような人間に、救いはあるのでしょうか」
自身の口から零れた言葉に、僕は心底驚く。主語が複数形になっていることに気づいてから、さらに驚く。
「…わたしはともかく、凛くんは大丈夫でしょ」
「そうですか?」
「ええ。それにね」
彼女は大きく息を吸い込み、ちいさく天井を仰ぎ、俯きながら吐き出した。
「救いは、待つものなの。何かを支払って手に入れる救いなんて、それは、偽物だよ。救い、っていうのは、つまり幸福の絶対値なんだから。それを自己否定で作り出すのは、間違ってる」
幸福の絶対値。不思議な言い回しだ。けれどその言葉は、深いところへすんなりと染み込んでいく。
「待つ、ですか」
「ええ。だから、君が心配することないんだよ」
「…ヒナさんは、未だに、自分を人間だと思えませんか?」
「まあ、ね。頭では分かってても、けっこう根深いものね」
それきり、僕らは黙った。それだけで満たされていた。
しばらくして飛行機に乗り込むと、僕はすぐに眠ってしまった。夢は見なかったけれど、代わりに時折、幻聴のようなものを聞いた。
『目を覚ませ』と言っていた。それでも僕は眠っていた。
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