秘密

 白い壁はひんやりと冷たく、背中に心地よい。一日中遊んでいたから、さすがに疲れている。

 僕はほとんど眠りかけていた。うっすらと目を開けて、彼女を待つ。

 しばらくして、僕の意識を覚醒させたのは彼女の入室ではなく、視界の端に映った、白いものだった。ベッドの下からひっそりと覗いている。この部屋にはちっとも物が無いから、それは恐ろしいほどの存在感を放っていた。

 いけないことだと知りつつも、そろそろと這い寄って、それを引き出してみる。ノートだった。表紙は真っ白で、題名らしきものが書かれてあった。

『人間について』

 それは恐らくヒナさんの字だ、というのは何となく本能的に分かった。

 不思議なくらい落ち着いていた。二十歳の女性が寝泊まりしている部屋に有ってはならないものだろうが、僕はそれを、ちっとも異質だと感じなかった。彼女ならばきわめて自然に、まるでコーヒーでも飲むみたいに、このノートに文字を書き連ねて、ぜんぜん不思議じゃない。

 だから僕の葛藤は、ページを繰るか否か、ただその一点にあった。

 タイトルからして、またベッドの下に置いてあることからして、彼女にとって見られたいものではないのだろう。それは容易に分かる、けれども、読んでみたくて仕方なかった。この中には、なにか彼女に関する深いものが含まれているのだと、直感的に分かっていた。

 しばらく悩み、欲求に従うことにした。彼女を傷つけることなど、あってはならない事だ、しかし、いい加減に僕だって、我慢できなくなりつつあった。彼女に寄り添いたいと思うほど、このままではいられなくなった。それが危険なことだとしても、もっと、彼女を深く知りたかった。

 ゆっくりと、胸が高鳴るのを感じながらページを捲った。最初のページには、こんなことが書かれてあった。

『果たして、わたしは人間なんだろうか』

 小さくて丸っこい、いかにも彼女に似つかわしく可愛らしい文字は、背筋を凍らせるくらいの深刻さをもって問いかけてくる。息を呑んで、ページを繰った。

 総じて、それは日記のようなものだった。

『五月十日

 登校中の高校生を見かけた。彼らはいったい、何を糧として生きているのだろう』

『五月十三日

 今日は雨。外に出る気も起こらなくて、ずっと本を読んでいる。この小説は、なかなか絶望的だ。

 わたしには未だに、人間というものが分からない』

『五月十五日

 何の為に生きているんだろう。こんな風になってまで』

 こんな調子で、ネガティブな内容が続いている。克明に、彼女の孤独が表れていた。

 思わずため息を吐いて、天井を見上げた。彼女の嘆きは、まるで僕のそれだった。きっと深さや詳細は違うのだろうけれど、種類は同じなのだと思った。

 つまり、彼女は自分の存在に自信がもてないのだろう。いや、そう言ってしまうと語弊があるかもしれない。

 生きていることに疑問を感じている。どうしようもない疑問だ。考えたって解決しないし、そもそも一般的に生きていきたいのなら、考えてはいけないことだ。

 子供のわがまま。そうとも言える。決して言いたくはないけれど。

 さらにページを繰っていく。その雰囲気は、ある日を境に変わった。

『公園で寝ていると、高校生の男の子に話しかけられた。下手なナンパには何度も遭ってきたけれど、これは初めてのことだ。

 素直でいい子だった』

『凛くんは不思議だ。男の生臭さというか、そんなものがまるで感じられない。わたしのことを気に入ってくれているらしい』

『凛くんと居ると、とても穏やかな気分になる。彼ならば、わたしを救ってくれるだろうか。

 人間になれないわたしを』

 そこまで読んで、ノートを閉じた。

「ヒナさん…」

「なあに?」

 ぎょっとして振り返ると、そこには朗らかな笑みを浮かべ、髪の毛をタオルでわしわしと拭くヒナさんが居た。僕は頭が真っ白になって、あたふたと言い訳を考え始める。

「えっと」

「待って。そのノートのことなら、気にしなくていいから」

 制されて口を閉ざす。彼女はそのままベッドに腰掛けると、細長い息を吐いた。

「へんな女だと、思った?」

「…いえ」

「まあ、いまさらだよね」

 恐ろしくて、顔は見られなかった。彼女は静かに続ける。

「でも、むしろ見つけてくれて良かったかも。今日はね、ちょっと真面目な話をするつもりだったから」

「真面目な話、ですか?」

「うん。ま、先にお風呂入ってきなよ。長くなるかもしれないから」

 気まずい空気に背中を押されて、言われたままに入浴の準備を済ませ、部屋を出る。外の空気は幾分か冷たくなって、澄んでいた。

 裏手にまわると、取ってつけたように小屋がもう一つ建てられていた。入口は二つあって、一方がトイレ、他方がバスルームになっていた。

 脱衣場らしきスペースで服を脱いで、シャワーを浴びる。そのうちに、少しは気分も落ち着いてきた、と同時に、後悔が押し寄せてくる。

『人間になれないわたしを』

 その一文が頭にこびりついて離れない。

 まったく意味は分からないけれど、それがきっと、彼女の秘密なんだろう。

 体を清潔にして、乾かして、ヒナさんに貰った服を着て、外に出ても、考え続けていた。あの日記の意味について。おそらくは、彼女の苦しみについて。

 部屋に戻ると、彼女はベッドに腰かけたままで、例のノートを読み返していた。

「おかえりー」

「…あの、ヒナさん」

「なに?」

「ごめんなさい」

 とにかく、謝るべきなのだと思った。彼女が抱えたものは、僕には見えない。けれど、他人が秘密にしていることを覗き見るのは、たぶんそれだけで罪悪なのだ。

「これのこと?なら、気にしなくていいってば」

 彼女はノートをひらひらと振って、事も無げに答える。

「まあ、座ってよ」

 躊躇いつつも、彼女へ歩み寄る。そのまま隣に腰かけた。いつも通りの距離。

「わたしは、ほんとに気にしてないから。んーん、むしろ、凛くんには知ってもらいたいかな」

 黙っていると、彼女はさらに続けた。

「わたしに自由が与えられたのは、けっこう最近のことなんだ。二年くらい前かな?」

「自由…?」

「そ。それまではね、違うところに住んでたの。ここよりもっと寂しい場所。ほんとにベッドしかなくて、決められた行動以外は許されていなかった」

 絶句した僕をよそ目に、ヒナさんはからからと笑った。

「でも、そんなに辛いとは思わなかったね。外に出してくれるのも、ほんとに限られた時だけだったけど、なにせ、生まれた時からそうだったから」

「生まれた時から」

「ええ。物心ついた時からそんな感じだった。だから、こうして外に出てきて、ようやく自分が不幸だったことを知った。ただ…」

「ただ?」

「辛かった、というか混乱したことは、暗示だった。学校に行かない代わりにね、独自の教育は受けてたんだけど、その隙間に、うまく暗示が混ざってるんだ。『わたしは人間じゃない』『わたしに人間性は要らない』ってね」

 かなり無理のある暗示だ。けれど、場合によっては成立しうるのだろうか。

 それにしても、意味不明だ。

「人間じゃない?」

「そう。そのままの意味だよ」

「そんな…」

「ま、その意味が分かってからは、なんか納得しちゃったけどね。とにかく、わたしは隔離されて育てられたの。まるで実験動物みたいに。あ、でも安心して。生き物の種類的には、ちゃんと人間だから。たぶん」

 ヒナさんの言っていることは至ってシンプルだったけれど、なんだか実感できない話だった。現実離れしている。

 だが一方で、納得もしていた。そのくらい特殊な環境でなければ、彼女のような透明な人間はつくられない。

「…まるで実感できませんけど、まあ、分かりました」

「ありがとう。で、ここからが本題なんだけど」

 ヒナさんは僕の顔を見て、屈託のない笑顔で言う。

「わたしと、旅に出ない?」

「…はい?」

 なんの脈絡もない提案に、間抜けな返事がこぼれ出た。今日は彼女に振り回されてばかりだ。

「旅って…」

「旅行。興味無い?」

「ありますけど。いきなり過ぎますよ」

「ああ、実際に行くのは凛くんが夏休みに入ってからにするよ。旅費は全部わたしが出すから、凛くんはついてきてくれるだけでいい」

 ヒナさんとの旅行。それは想像しただけで心が踊ることだった。でも、まったく頭が追いついていかない。

「行先は、まだ決めてないけど、凛くんが来てくれるなら一緒に決めよう?あ、だいたい十日くらいにするつもりだよ」

「…ちょっと、考えさせてください」

「分かった」

 彼女は上機嫌に言って、そのまま仰向けに倒れた。

 これは、もちろん父にも相談しなければならないことだったし、僕自身の覚悟も必要になることだった。

 これ以上踏み込めば、もはや今までの関係では居られないのだろう。

「あの、ヒナさん」

「なあに?」

 僕は大きく息を吸い込み、それでも飲み込みかけた言葉を、けれども何とか吐き出した。

「どうして、泊まりとか旅行とか、誘ってくれたんですか?」

 ヒナさんはしばらく黙っていた。何かについて深く思いを巡らせている、そんな気配が伝わってくる。

「ノート、読んだよね?」

「は、はい」

「なら、もうバレちゃったと思うけど」

 ベッドについていた左手に温もりを感じて、胸の辺りがおかしな音をたてた。

「わたしね、君のこと、気に入ってるんだ」

「…なるほど」

 これまで湿っぽかった空気が一変、奇妙な甘さを帯び始めた、と思ったら、彼女は声を出して笑い、その雰囲気をぶち壊した。どきどきした自分が馬鹿みたいだった。

「それだけだよ。他に理由が要る?」

「いえ、十分です」

 僕も笑った。その通りだと、思った。

 人と人が共にあることに、理由など必要ないのだろう。それでも、人と人は全然同じほうを向いていないから、その帳尻合わせのために、大義名分らしいものが必要になってくる。愛も恋も、もとはそんなことなのかもしれない。

 僕は彼女を求めている。彼女もまた、僕を求めている。ならば、それで十分だ。それだけで成り立たない人間関係なんて軽薄で、それこそきっと無意味なんだ。

 たとえ綺麗事だと嘲られたとしても、ヒナさんと、それを見てみたい。

「よかった。じゃあ、考えておいてね」

「はい」

 返事をしてから、欠伸を噛み殺した。一度にたくさんの情報が入ってきて、未だにすこし混乱している。彼女の生い立ちは分かったけれど、結局何者であるかということまでは分からない。

 けれども気持ちの上では、決意が固まりつつあった。彼女が何者であろうとも、必ず共に居よう。できる限りで、彼女の孤独に寄り添おう。それだけが、僕の考えるべきことだ。

 ひとまずベッドから立ち上がり、布団を敷いた。これまた新しいものだ。ふかふかと柔らかく、触り心地も良い。

「さて、せっかくお泊まりしてるんだから、なにか話そうよ」

 布団の上に座り込むと、ベッドの上から身を乗り出してヒナさんが言った。

 少しだけ考えて、思い切ったお願いをしてみる。

「僕は、ヒナさんの話が聞きたいです」

「…わたしが、何者なのか?」

「いえ。そんなことはどうでもよくて、ただ、ヒナさんの思い出話を、聞かせてほしいんです。僕に会うまでの話を」

「思い出話、か」

 彼女の生い立ちを聞いた今では、愚問とも言える。しかしながら、これは重要なことだ。僕が知りたいのは彼女の人間性なのだから。

「そうだなあ。子供の頃は、ほんとにつまらなかったよ。いや、自覚もなかったけどさ。ただ、あくまで人間みたいに育てられたから、感情がバカになったり、人の感情が分からなくなったりすることは無かった」

「人間みたいにって、普通の子供みたいに、ってことですか?」

「んー、普通の、っていうのも、知識として知ってるだけだから、もしかしたら間違ってるのかもしれないけど。たぶん、そう。童話もたくさん読んだし、刺激の弱いものだったら、アニメとかも見せてくれたよ」

「親、みたいな人は居たんですか?」

「わたしが中学生くらいの歳になるまでは、女の人が世話してくれたね。まあ、例のごとく顔は知らないんだけど。そっからは、色んな人が取っかえ引っ変え、すごく機械的に勉強を教えてくれたり、必要なものを与えてくれたり」

「ほとんど、閉じ込められてたんですか?」

「まあね、監禁だよ。出たとしても、大きな建物の中庭みたいなところで、ちょっと散歩するくらい。綺麗なところだったけどね。ただ、生かされてるだけだった」

 黙って顎を引いた。彼女は黒髪の毛先を弄びながら、自分の爪先あたりを見つめていた。

「高校生くらいになると、会話の練習が始まった。それまで、必要以上に人と話すことはほとんどなかったから。教育だって、映像や音声に頼っていることが多かった」

「じゃあ、実際に生身の人と?」

「うん。男の人だった。と言っても、まるで刑務所での面会みたいに、仕切り越しに話すだけ。相手の顔なんて全然見えない。それで、受け答えに不自然なところがないかどうか、社会に適合できるかどうか、確かめたんだと思う」

 まったく、実験みたいだった。吐き気がする。

「それで?」

「わたしは、数ヶ月のあいだ放って置かれた。今とおんなじ感じ、だけど、相変わらず閉じ込められたままだった。それで二年くらい前に、ほんと、ゴミでも捨てるみたいに、ぽんって、外に放り出された。というか、ここに置き去りにされたんだ」

「何も伝えられずに、ですか?」

「ちょうどいま、凛くんが座ってる辺りにメモが一枚残されてただけ。必要なものはこちらに伝えろ、そうすれば用意する。あとは自由にしろ。そんなことが書いてあった」

 彼女は両足を引き上げて、ベッドの上にぺたりと座った。

「で、この生活が始まった。最初はどうしたらいいのか分からなくて、まあ困ったけど、すぐ慣れた。一応、最低限の社会常識は教わったから、電車に乗ったりお店に入ったり、そういうことには苦労しなかった」

「ナンパされた、って読んだんですけど」

「ああ、そうだね。そのあたり歩いてたら、何度か声かけられた。でも、なんだかみんな気持ち悪くて、すぐ逃げた。目つきと言うか、雰囲気というか。ああ、ほんとにそういうことしか考えてないんだって、分かっちゃって」

 そこで彼女は言葉を切って、ふっと、目を細めた。その表情は、かたちとして笑みに似ていた。

「なんかね、人間臭かったんだ。ナンパの人、んーん、道行く誰も彼もから、わたしとは違う匂いがしてた。怖かったし、哀しかった。でもなんで哀しいのか分からなくて、しばらく悩んだりもした」

 彼女の瞳が僕を捉える。

「でも、君は違った。失礼かもしれないけど、君からは人間のイヤな匂いがしなかった」

 ああ、何となく予想できていたことだった。仕方なく笑う。

「それで、僕と話してくれたんですね」

「うん」

「ひどい話だ」

「ごめんなさい」

 僕らは声を合わせて笑った。それは甘くやさしくて、ひどく人間じみた行為だった。

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