海の見える町にて

 バスに揺られて、あまり馴染みのない町へやってきた。

 海の見える、静かなところだ。バス停からしばらくの間は寂れた商店街が続き、長い下り坂を行くと、そこに海岸線がひらけていた。緩やかな弧を描いて堤防が伸び、道路と砂浜を隔てている。堤防に上がってみると、打ち寄せる波は穏やかで、海は浅い緑色だった。

「んー、いいね、夏っぽくて」

「ですね。暑いけど」

 風に潮が香って、焼けた肌を撫でていった。景色は良いものの、夏の海辺は蒸し暑く、散歩には向かない。

「だねえ。どっか涼しいところ探そう」

「この辺りだと…」

 ひとまず道路脇の木陰に逃げ込んで、周囲の情報をスマートフォンで調べてみる。ヒナさんは僕の手元を覗き込んだ。

「へー、便利だね」

「ええ、ほんとに。…あ、ここに図書館がありますね」

「なるほど、図書館か。よし、行ってみよ」

 図書館は歩いて十分ほどのところにあった。外観は思いのほか新しく、屋根付きの駐輪場にカラフルな自転車の群れがあった。

 自動ドアがひらいて、全身に冷気を浴びる。

「涼しー」

「ですね」

 一階は本棚をすこし置いてあるだけで、あとは机と椅子が並べられていた。人の姿もまばらで、しんと静まり返っている。

 階段を上がってみると、今度こそ沢山の本棚が整列していた。小説から各学問の専門書まで、幅広く取り扱っているらしい。こちらにも閲覧スペースが設けられていたが、既に先客の姿が見受けられた。

 顔を見合わせて少し考え、一階の机を使わせてもらうことにする。

「ヒナさん、なんか持っていきます?」

 僕は小声で訊ねた。

「んー、あ、そうだ」

 ヒナさんはおもむろに本棚の間へ歩いていき、一冊の本を抜き取った。そのまま本を胸の前に抱き、表紙をこちらに向けた。

「シンデレラ、ですか」

「ええ。一緒に読も?」

 絵本を携え、一階に戻る。陽の当たらない、小声で話しても許されそうな隅っこの机を確保して、僕らは向かい合った。

 彼女がページを捲る。

 いまさら読むまでもなく、ストーリーは明らかだった。それでも、僕らは一ページ目から丁寧に読み進めていく。

「…めでたしめでたし」

 彼女は小声で呟いて、本を閉じた。

「やっぱり、幸せな話だね」

「そう、ですか?」

「うん。だって彼女には、救いしかないんだもの」

 たしかに、その部分だけ抜き出せば幸福な話だ。最後には救われるから、多少の不幸には目を瞑れる、そんなふうに言えないではない。

「たとえ、初めが不幸でも、ですか?」

 ヒナさんは目を伏せて、しばらく黙った。

「わたしは、ね。絶対的な幸せなんて、無いんだと思う」

「絶対的な幸せ…」

「そ。こうだったら幸せだとか、そんなことは、たぶんありえないんだよ」

 彼女の言葉は、一般的なイメージと大きく異なる。僕は首を傾げた。

「じゃあ、幸せって何でしょう?」

「難しいね。でもわたしは、落差なんだと思う」

「落差」

「ええ。人間は、傲慢だからね」

 曖昧なイメージだけれど、思い当たる節があった。たとえば、自身の感情でさえも、相対的にしか評価できないこと。

「たしかに、そうかもしれませんね」

「そう考えれば、優しい話でしょう?」

 待っているだけで救われる。それまでがいくら辛くとも、最後には万人の認める救いが、向こうからやってくる。

「完璧なヒロインですね」

 彼女は頬を緩める。

「ま、現実にはありえないようなことだけどね。救いを待っているだけだなんて、怒られちゃうでしょう?」

「…でも、考えてみれば僕らも、そういう所があるんじゃないでしょうか」

「うん。みんな、そうなんだと思う。叶うことなら誰だって、王子様の迎えを待っていたいんだ。幸福が向こうからやってくるのを、ただじっと」

「状況を完璧な言い訳にして」

「その通り。まるでシンデレラみたいに」

 それは、たしかに幸福な状態だろう。

 待っている。

 あるいはそのひたむきな姿勢こそが、幸福を受容する準備段階なのかもしれない。たとえ怠惰だと罵られようと、先の見えない不安に苛まれようと。

 考えてみて、切なくなってしまう。

「自分を否定することは、つらいですからね」

 明らかな飛躍だったけれど、ヒナさんは顎を引いて、目だけで頷いてくれた。

 救われないのなら、あるいは幸福がやってくるのを信じられないのなら、動き出すしかないのだ。それがどれだけ深く、自身を破壊することに繋がるとしても。

「…時々、人格の檻、ということを考えます」

「人格の檻?」

 僕は頷く。

「人はみんな、自分自身を定義する檻の中で生活しているのではないかと」

「…なるほど、面白い発想だね」

 アイデンティティ。一般的な言葉に言い換えればそうなるのだろう。

「檻は強固ですが、もちろん、拡張することはできます。無理矢理に、自分を傷つけて」

「ひどい話」

「…ごめんなさい。暗くなってしまって」

 彼女は笑ってかぶりを振った。


 それから僕らは、夕方まで陽を避けて行動した。小さな書店で文庫本を買ったり、路地裏で寝ていた猫をからかったりしているうちに、陽は低くなっていった。

 多少は涼しくなったので、僕らは海岸へ向かった。堤防を越えて、砂浜を歩く。

「せっかくだから、水遊びもしとく?」

「え、でも水着なんて」

「ちょっと入るだけだよ」

 言いながら、彼女はサンダルを脱いで、僕の手を取った。

「行こ?」

 僕は片手を取られたままで乱暴に裸足になって、彼女とともに駆け出した。昼間にたっぷりと熱された砂は未だに熱く、水を散らしながら急いで海へ入る。波打ち際は、膝下くらいまでの深さだった。

「わー、ぬるい。びみょーだね」

「嘘でも楽しんでくださいよ」

 ヒナさんは悪戯っぽく相好を崩し、その場でくるりと回ってみせる。スカートの裾がふわりと膨らんだ。

 波は優しくふくらはぎを撫でて、形をころころと変えながら薄い水の膜となって海へ帰る。見上げた空はくすんだオレンジ色で、遠くのほうは既に藍の色を帯び始めていた。

 夕刻の浜辺に二人きり。見渡せども、誰の姿もない。

「凛くん」

「なんですか?」

 彼女は僕の目を覗き込んだ。その瞳に、西日が幽かに反射している。

「もし、もしもだよ?」

「はい」

「わたしが、助けてほしいって言ったら、どうする?」

 言葉を失う。彼女は、ただじっと僕を見つめていた。

「…どういう、意味ですか?」

「別に、深い意味はないよ。正直に答えてほしいけど」

 声のトーンも雰囲気も、返事を待つ時に小さく首を傾ける仕草でさえも、普段通りだ。けれども、これは何か、彼女の核心に触れる重大なことなのだと、はっきりと分かっていた。

 数十秒、僕は彼女から目をそらさずに思いを巡らせ、ようやく言葉を作り上げる。

 限りなく誠実で、まっすぐに届くような言葉を、能う限りで。

「できることならば、何だってします。ヒナさんが望むなら、どこへだって駆けつけます」

 そこで言葉を切り、大きく息を吸い込む。

「僕は、あなたと一緒にいたいから。それだけです」

 口を閉ざすと、辺りには波の音ばかりが残される。規則的に、穏やかに繰り返される音の中、僕らは無言で見つめ合った。やがてヒナさんはふいっと目を逸らした。

「そっか。…信じていいの?」

「はい」

「わたしが、普通じゃなくても?」

「なんだって、いいんです。あなたが僕の知っているヒナさんである限り」

 ヒナさんが与えてくれる安らぎは、既に無くてはならないものだ。

 その感情は浅ましくもある。つまりは彼女に、自分という存在を押し付ける行為だ。

 依存欲、とでも言うのか、とにかく、何かに寄りかかって居たかったのかもしれない。それは父でも、文乃でも、立川くんでも駄目だった。理路整然と説明することはできない。ただ、彼女でないと駄目なのだ。もはや恋愛感情とさえ呼べない何かが、そこには在る。

 だから、彼女と共に居るためなら何だってする。それが僕の本心だった。

「…ありがとう」

 彼女は莞爾として笑むと、両手を広げて空を仰いだ。

「わたしね」

「はい」

「いま、とっても幸せ」

「なら、僕も幸せです」

 僕らは笑いあって、ゆっくりと砂浜を歩き、バス停へ向かった。


 ヒナさんが唐突な提案をして僕の度肝を抜いたのは、帰りのバスが走り始めて五分ほど経った時だった。

「凛くん、今日、泊まりに来ない?」

 何の前触れもなく、にこにこと笑いながら彼女は言った。

「え、あ、それは、嬉しいですけど…」

「けど?」

「ヒナさん、一人暮らしでしょう?」

 彼女は躊躇いなく頷いた。

「それは、なんかマズいんじゃないですか?」

 右折に伴って、窓外に夕日が見えた。僕は思わず目を細める。

 我ながら俗な発想だと思う。けれど、世間一般のモラルに従って言ったわけではない。そんなことで僕らの関係を汚したくなかったのだ。

「何が?」

「何って、いちおう男ですよ?」

「あー、なるほど。…何かする気なの?」

 彼女は意地悪に唇を歪ませて、首を傾けてみせる。

「いや、そんなことは」

「ならいいでしょ」

「…まあ、ヒナさんがいいなら」

「よし、決まりね」

 夕陽を背負った彼女の美しさに、口を噤んだ。不思議なくらい、彼女には夕焼けが似合う。あるいは葉桜とか、寂れた公園のベンチとか。

「それにしても、なんで急に?」

「んー、そう言われると」

 彼女はそこで言葉を切って、俯いた。

 焦りを感じた、けれども、口を噤んでいた。彼女でなければ、すぐさま謝罪を並べ立て、なんとか相手に笑ってもらおうと慌てふためくところであろうが、このごろ、僕は考え方を変え始めていた。そんな対応は、決して誠実ではないのだと。誠実に向き合いたいのであればこそ、僕は、いっとき黙って冷静な言葉を探すべきだ。

「ちょっとね、話したいことがあるの。別に急いでるわけじゃないけど…駄目かな?」

 ややあって、ヒナさんはやおら顔をあげた。

「いや、そういうわけでは。もちろん僕は、何だっていいんですよ」

「ありがとう」

 何となく目を逸らした。


 夕食の後、いちど帰って着替えを持ってくるつもりが、ヒナさんに引き止められてしまい、そのまま彼女の家に向かった。父に電話を入れると、細かいことは何も聞かずに外泊を許可してくれた。

 こんなことを言ったのは、初めてのことだった。

 父なら許してくれる、それも、放任主義からの許可ではなく、僕の身を案じた上で許してくれる、そう確信して電話をかけた。そして想像どおりの返事をもらった。

 ときおり、父の優しさに泣きそうになる。しかしそんな時には、対照的に全てを滅茶苦茶に壊してしまいたくなる。家族も友達も、何もかも、遠くに追いやって、拙い幻想のような何かを夢想していたくなる。

 我ながらよく分からない衝動だ。いや、分かりたくないだけかもしれない。

 とにかく、僕らは電車に揺られ、土と草が匂いたつ田舎へやってきた。以前から気づいていたが、この辺りは夜になると真っ暗だ。街灯の一本だって見当たらず、あちらこちらから虫の鳴き声が聞こえてくる。

「真っ暗ですね」

「ほんと。寂しいところだよね」

 ヒナさんは他人事のように言う。空を仰ぐと、星が綺麗だった。空気はしとりと温く、ときおり夜風が吹き抜けていく。

「でも、ほんとに良かったんですか?着替えも何も持たずに」

「大丈夫。これくらいのわがままは聞いてくれるはずだから」

 答になっていなかったけれど、詳細は訊かないことにした。

「凛くん」

「なんですか?」

「わがままを聞いてくれて、ありがとう」

「いえ、むしろ嬉しいです」

「わたしね、ほんとに感謝してるの。君が誠実な人で、良かった」

 何と応えていいのか分からず、曖昧に肯定しておいた。

 丘を登り、薔薇のあいだをゆっくりと歩いていく。彼女がドアを引き開けると既に灯りがともっていて、透明な袋が二つ、それに布団が一組用意されていた。

「これは…」

 僕が呟くと、ヒナさんはさっさと袋を持ち上げて、片方を寄越した。

「それ、あげるよ。返さなくていいし、要らなかったら捨てて」

 見ると、男性用の衣服が一式入っていた。下着にシンプルな白いシャツ、ハーフパンツ。さらにはシャンプーやボディソープまであった。

「今晩はそれを使って」

「え、いいんですか?」

「言ったでしょ、大丈夫だって」

 彼女は笑って、自分のぶんをベッドに置いた。

「さて、まずはお風呂にしよっか。先に入っていい?」

「あ、はい」

 袋からいくらか物を取り出すと、彼女はそのまま部屋を出ていく、その前に僕のほうを振り返って、人差し指を立ててみせた。

「覗いちゃダメだよ?」

「僕にそんな度胸あると思います?」

「ないかー」

 彼女は上機嫌に返して、今度こそ部屋を出ていった。

 一人残された僕は、あらためて部屋を見回した。怖いくらいに静かで、空っぽな部屋。彼女は毎日、ここで寝泊まりしているのだろう。独りきりで。

 壁のほうへ歩いて行って、そのままずるずると座り込む。

 いったい、それはどれほど孤独なことなのだろう。想像することもかなわない。

 夕刻の浜辺で言ったことは、決して嘘ではない。僕は、僕のために、彼女の孤独に寄り添いたい。

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