空っぽ
うまく生きていけない。
そんな感覚が、いつも肌から数センチのところにあった。
ずれていると思う。たぶん、大切なところを違えているのだ。至って普通の男子として育てられてきたはずだが、いつだって失敗しているような気がする。
劣等感、そんなものかもしれない。とにかく、自分の存在にさえ自信をもてない。
違和感があるのだ。特に、人と話している時。初対面の相手にさえ、何もかも見透かされているような錯覚を起こす。偽って繕うこともできず、一秒、また一秒と、相手が失望しているのではないかと疑ってしまう。そこに居てはいけないように思われて、何もかも投げ出したくなる。
母が死んだのは、僕が小学三年生の時だった。
もともと体が弱かった。今ならば理解できるが、僕を産んだことが致命的だったのだろう。それでも、僕が小学二年生の時までは元気だった。
両親はとても平易な言葉を用いて、母の永くないことを教えてくれた。だから子供ながらに、いつまでも幸せな生活が続くのではないと分かっていた。
そうは言ってもまだまだ幼い子供だった僕は、あえて母を遠ざけたりせず、むしろ過ぎ行く時間を惜しむようにして、たくさん甘えた。わがままも言わないようにした。思い上がりでなく、聞き分けの良い子供だったと思う。母と一緒に居ることが、僕にとっては一番のわがままだった。
だから、だろうか。小さな頃から、何事にも頓着できない
他人には理解されない感覚かもしれない。始まりの隣に、いつだって終わりを見ていた。もとより、悲観的な人間なのだろう。終わることが悲しくて、一つのものに拘ることができなかった。何かに執心することを罪悪のように感じることすら、ままあった。
母の死は唐突だった。僕は学校にいて、たしか昼休みだったと思う。文乃と居たことだけはきちんと憶えているけれど、それ以外のことは曖昧だ。とにかく、僕らは学校に居て、そこへ、父が血相を変えてやってきた。先生も一緒だった。
僕はすぐさま帰り支度をして、父に連れられて病院へ向かった。
数ヶ月前から、母は入院していた。まだそれなりに新しく、清潔感のある病院だった。病室も明るく過ごしやすそうで、母も気に入っていた。僕がそんなことを憶えているということは、彼女は気丈に振舞っていたのだろう。
もうすぐ死んでしまうことなんておくびにも出さずに。
父の運転する古い軽自動車に揺られて、窓の外を眺めていた。ほとんど何も話さなかった。病院に着くと、父が医師から説明を受けた。まもなく、僕らは病室へ通された。
意外なことに、そこには元気な母の姿があった。悪かったのは一時のことで、今は大丈夫だと言った。僕は母の手を握って、黙って泣いた。しゃくりあげようものなら母の総てを否定することになってしまいそうな、理屈ではなくそんな感じがして、静かに涙を流した。母もまた、黙って頭を撫でてくれた。見上げると、優しい笑顔があった。
その後、ひとまずは安心して家へ帰った。今すぐに別れることはないのだと思いこんでいた。
母はその晩に死んだ。
深夜のことだった。父にたたき起こされ、再び病院へ向かった。日付が変わろうとしていた。
僕らが到着した頃には、もう手遅れだった。しばらくの間、僕らは冷たく蒼白い廊下で待っていた。来客用の傷んだパイプ椅子に座って、俯き黙って。
やがて医師が現れて、父に何かを告げた。この時の記憶は奇妙だ。音がまったく無いのである。なのに、映像は鮮明に憶えている。父の青ざめた横顔も、医師の、感情の在り処が見当たらない立ち姿も。父が崩れ落ちる様も、医師が頭を下げる動作も。すべて憶えているのに、音だけが伴わない。父の慟哭でさえ、ただの映像となっている。
未だに、母を夢に見ることがある。不思議なことに、彼女は覚醒時よりもずっと鮮明な像となって現れる。起きている時には、最早これほどしっかりと思い出せないのに。
夢の内容は、いろいろだ。家族三人で遊んでいたり、父に抱きかかえられていたり。けれど、終わりは決まって同じだ。
僕らは部屋に居て、母はベッドに入るように言う。僕は素直に従って、ベッドに潜り込む。
「もう寝なさい」
そう言って、彼女は灯りを消す。真っ暗になった部屋で、僕はまだ目を開けて、天井を見つめている。ほとんど何も見えない。ただ、そこに母の気配があることだけは分かる。その気配はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「おやすみ」
母は僕の額に手を置いて、やさしく呟く。僕は目を閉じて眠りへと落ちていく。夢はここで終わる。
「母さん…」
ベッドの上で半身を起こした僕は、頭の後ろへ手を遣って呟いた。髪の毛をつかんで、しばらくそのままだった。
母の死が僕の精神にどんな影響を与えたのか、それは未だによく分からない。そもそも人間の精神などというものは複雑すぎて、考える気にもなれない。
ただ、母が教えてくれたのは『連続』だということ。
母が死んでからというもの、しばらく塞ぎ込んでいた。学校へは行っていたし、表面的な問題は無いに等しかった。口数ばかりが少なくなった。
文乃は、僕が塞ぎ込んでからも傍に居てくれた。ちっとも話さなくても、黙って隣に居てくれた。それに感謝しつつも、素直になれないでいた。母を差し置いて笑うことも、罪であるように思っていた。
そんなある日のことだった。
教室で算数の授業を受けていた。母の死から三ヶ月が経って、それなりに立ち直り、あるていど話せるようになっていた。確か、割り算の応用問題を解いていたはずだ。窓の外は快晴で、秋風が吹いていた。
いつだって母のことを考えていられる時間は、とうに終わってしまっていた。悲しいことだが、人間はそう簡単に何かに固執していられない。少なくとも僕にはできなかった。そんな自分がいやだった。母の不在に、いつまでも苦しんでいたかった。
苦しくなるのは、ふとした瞬間だった。それはベッドに潜り込んだ時だったり、文乃と話しているときだったり、またあるいは空を見上げた時だったりした。
陳腐な表現かもしれないが、真綿で首を絞められるというのは、あんな感触のことを言うのだろう。初めは、喉の下に圧迫感をおぼえ、続いて胸がずきりと痛んで、息が浅くなる。首へ手を遣っても治まらず、じわじわと窒息する。妙な汗まで出てきてしまう。
僕は書きかけの式をぼうっと眺めて、やはり母のことを想った。そして次の数字を書きかけた、まさにその時、魔手が僕の首元へ迫ったのである。
けれども、今度は少し違っていた。
息が詰まった。ほんとうに首を絞められているのかと思った。それは一瞬のことだった。次に息を吸い込んだ時、ふいっと、何かに思い当たった。たぶん気づいてはいけないことだった。
母の、あるいは人間の死の本質。在ったものが、失くなったということ。
連続。死ぬことは、生きていることのちょうど隣にあった。生命はつまるところ、存在なのだと知った。
この頃から、きっと僕は変わり者だった。多分、だけれど、普通の子供はそんなことを考えない。生きるとか死ぬとか、そんなことを延々と考え続けていると、初めてそれに思い当たる。
これをきっかけに、僕は死を、前よりもずっと近しく感じるようになった。少なくとも、今日明日にでも死ぬことをえらべるのだと知った。
ベッドから抜け出ると、ようやく落ち着いた。母の夢を見た朝は、いつもこうなってしまう。未だに受け入れられていないからか、それとも。
それから一時間ほどは、小説の続きを書いて過ごした。主人公はますます落ち込んでいく。彼は必死に生きようと奮闘しているのに、上手くいかない。もともと、精神的に貧弱なのだ。それでも懸命に生きようとするさまが、我ながらだに好きだった。
まるで、水槽に放り込まれた熱帯魚みたいだ。綺麗な姿を見せようと必死に泳いで、知らず知らずのうちに溺れている。
魚が溺れるだなんて、冗談みたいだけど。そんなことだって、あるのかもしれない。
彼は、そんな自分を愛しているだろうか。不幸な境遇にいる自分を、それでも大事に思っているのだろうか。
顔を上げた。時計の針は約束の時間へと進み続けている。もう少しだ。
ようやく、彼女に会える。
緊張しつつ念入りに身だしなみを整え、時間に余裕をもって出発する。公園に着いてみるとヒナさんはまだいなくて、土曜日の昼下がり、公園はひどく静かだった。ゆっくりとベンチへ歩き、腰掛けて空を見上げる。今日はあいにくの曇天だ。まだ降っていないが、念の為に折り畳み傘を持ってきた。彼女が濡れないといいけれど。
彼女が現れたのは、それから五分ほど経った時だった。入口のフェンスの陰から白いワンピースが覗き、僕は勢いよく立ち上がった。まもなく彼女は僕を認め、小さく片手を振った。僕も同じ動作を返す。
彼女は僕の三歩手前で立ち止まり、じっと僕の顔を見て、それから口もとを緩めて首を傾けた。
「こんにちは」
それだけ言って、ヒナさんは踵を返した。
「ついてきて」
「あ、はい」
彼女の隣に並ぶ。それからは特に言葉もなく、何を話せばいいのかも分からなくなってしまって、ただ彼女に従った。電車に乗って降りて、十五分ほど歩いただろうか。
そこは、はっきり言って寂れていた。周囲に民家が少なく、灯りにも乏しい。店などは見渡しても探せそうになかった。水田と、小さな橋の架かった小川ばかりが目立った。
僕の町も決して都会ではないけれど、近くにこんな田舎があるとは知らなかった。ヒナさんと出会わなければ、来ることもなかったかもしれない。
湿った風が吹き抜けて、青い稲をさわさわと揺らす。どこからとなく、土と草木の匂いが立ち上っている。彼女は慣れた足取りで、あちらこちらに泥が目立つコンクリートの農道を歩いていく。
なかでも、彼女の家は外れのほうにあった。名前の分からない草木がたくさん茂った小さな丘を、土がむき出しになった細い道に沿って登っていく。道はまもなく途切れ、開けた場所に出た。
真っ平らに整えられた、おそらく二百坪はあろうかという土地、その真ん中に小さな平屋が建っている。いっそ、小屋と言った方が正確かもしれない。どことなく西洋の雰囲気を感じさせる、その外壁は真っ白で、そこに至るまでの道は丁寧に舗装されている。両脇は赤いレンガで仕切られた花壇になっていて、たくさんの薔薇が植えられていた。色とりどりの花を、地面から腰くらいの高さまでにわたって咲かせている。ここからでも、玄関のドアは木製なのだと分かった。
彼女と共に家へ近づいてみると、薔薇が強く香って、ドアの色は深茶色だった。足元には、これは何という花であろうか、小さな桃色の花がプランターの内に群れ咲いていた。
まるでおとぎ話の絵本から飛び出してきたような佇まいだ。
「ここが、わたしの家だよ。入って」
ヒナさんがドアを開くと、微かに甘い香りがした。お菓子みたいな、人工的な甘さ。彼女に続いて入っていく。
そこで、僕は絶句した。靴を脱ぐことも忘れて、ただその景色を眺めた。
それは、ありふれた直方体の部屋だった。壁紙は真っ白。ただしそこには、何も無かった。
正確には、窓の下にベッドが一つ置いてある。しかし、それだけだった。衣服も、その他の小物も、何一つとして見当たらない。広さとしては十二畳ほどあるだろうか、あるいはもう少し狭いかもしれない。そこに、ベッドだけがぽつんとあった。
彼女は靴を脱いで上がると、立ち止まった僕のほうを返り見た。それから、困ったように眉を曲げる。
「びっくりした?なんにも無いでしょ?」
彼女は静かに言って、入室を促した。黙って従い、あらためて部屋を見回してみたが、やはりそこには、まっさらな空間が広がっているだけだった。
えも言われぬ恐怖。この部屋を見て、まず感じたものはそれだった。生活感が無い、そう言っても足りない。この部屋からは、ちっとも人の匂いがしない。家と言うからには、ヒナさんはここで暮らしているはずだ。しかしこの部屋は、ぜんぜん彼女を感じさせないのだ。
「どっか、座るところをすすめたいんだけど…ごめんね。見ての通りだから。ベッドに座って」
言われたとおり、僕はベッドに腰掛けた。スプリングがしっかり効いていて、まだ新しいものであるようだ。彼女は少しだけ間隔を空けて、同じように座った。ふっと隣に視線を遣って、枕元に無機質な時計を発見した。メーカー名は見当たらず、文字盤もきわめてシンプルだ。
「ね、この部屋見て、どう思った?」
彼女は上目遣いに僕を見て、低い声で問うた。そこからは何の感情も読み取れない。
苦慮の果てに、同じトーンで答えた。
「寂しい、です」
それが全てだった。怖いくらいに空っぽなのだ、この部屋は。ちっとも彼女を引き留めず、また主張することもない。微かに香ったお菓子のような匂いは、とうに消えてしまった。鼻が慣れてしまったのだろう。それだけが、彼女を感じさせるというのに。
「うん、そうだよね。わたしも、まあそう思う」
「…だから、家に居たくないんですか?」
ヒナさんは前を向いて、両脚を投げ出した。
「そ。息が詰まるでしょ?まあ、本くらいは読めるんだけどね」
「見当たらないですけど」
「あー、それはね、もうすぐ分かるよ」
彼女は枕元の時計をちらりと見た。その言葉の意味は分からないが、黙ってしまうことも怖くて、気づいたことを訊ねてみる。
「お風呂とかトイレは?見たところ、部屋はここだけみたいですけど」
「裏にあるよ。お風呂はまだいいけど、トイレくらいは中にしてほしいよねえ」
「冬とか、大変そうですね」
あまりにも突飛な状況に、笑った。もう笑うしかない。ヒナさんもつられたように笑って、天井を仰いだ。その視線を追うと、天井も真っ白だった。言い訳みたいに、蛍光灯が何本か備えられている。
「そうなの。お風呂上がりとか寒くてさ」
「…ヒナさんは、寂しくないですか?」
「寂しいよ。とっても。わたしは、ずっと寂しい」
その横顔は笑っていたけれど、どこか作り物めいていた。前を向いて、次の言葉を探す。
その時だった。唐突に、ドアが開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます