糸屑の海
濡れた服を乾かすため、僕のジャージを着てもらうことにした。嫌がられるかもしれないと躊躇ったのだが、意外にもすんなり受け取ってくれた。
ヒナさんが着替えているあいだ、一階へ下りてコーヒーを淹れた。味は保証しないけれど、このくらいならできる。自分のぶんには砂糖をたっぷりと溶かし、再び自室へ戻った。
「ヒナさん、もう大丈夫ですか?」
ドアの前から声をかけると、まもなく彼女が現れる。
「おまたせ。あ、コーヒー」
「味は保証しませんけど」
「ありがとう」
彼女は一方のカップを受け取り、部屋に引っ込む。僕もあとに続いた。
ベッドに腰掛けて、ずいぶん飲みやすくなったコーヒーを啜る。椅子に座ったヒナさんは、両手で包むようにしてカップを持ち上げた。身長差があるので、サイズが合っていない。手をほとんど袖の中に隠してしまって、全体的に布がたるんでいる。
「寒かったら言ってくださいね」
「大丈夫だよ。ありがとう。そう言えば、家の人は?二人ともお仕事?」
カップを腹の前で持って、ちいさく頷いた。
「父は仕事です。母は、ずっと前に死にました」
彼女の表情がさっと曇る、それを見た途端、彼女より先に付け加える。
「あ、気にしないでください。もう、何年も前のことですし」
慣れたことだった。僕の境遇を聞けば、大抵の人が同じ顔を見せる。
「…そう」
ヒナさんは控えめに呟くと、カップを机に置いた。
「寂しく、ない?」
「もちろん最初は寂しかったですけど。今は、もう平気です」
平気なんだろうか、僕は。もはや、自分でもよく分からない。
「そっか。君は強いね」
ヒナさんはうすく笑う。僕はなんと言えばいいか分からず、ただ曖昧に頷いた。
「…ヒナさんは?家族の方は、どこで暮らしてるんですか?」
何気ない質問だった。自分が訊かれたことだから、相手に訊いても構わないだろうと、そんな雑な当てずっぽうをしてみたのである。しかし、ヒナさんから返ってきた答は想定外のものだった。
「わたしに家族はいないよ。それらしい人は知ってるけど、今はどこに居るのやら」
どうにも、不思議な人だ。こちらからまるで正体が見えない。
大抵の人間には、その人物を裏付ける環境なり過去なり、そんなものが言葉の端々で見え隠れするものだけれど、彼女の場合、それが一切無いのだ。加えて嘘である感じも、やはり全くしない。
咄嗟に謝りかけて、何とか踏みとどまり、天井をちいさく仰ぎ見た。今のところ頼みの綱は、共通の趣味だけであるようだ。そちらへ話題を変えてしまおうと、頭の中であれこれと言葉を練ってみる。
「ねえ、君にとって、幸せって何?」
ほとんど惚けていた僕に、突然、彼女は声色を変えた。透明で、ぼうっとしていると聞き流してしまいそうな、存在感のない声だった。僕は戸惑った。そんなことを訊かれても、上手く答えられるだけの頭脳は持ち合わせていない。
幸せとは何だろうか。
訊かれてみて気づく。僕はその正確な定義を知らない。幸福な状態。不幸のない状態。イヤだと思わないこと。果たして、それをどうやって言葉で言い表したものだろうか。失望されたくない僕は、顎に手を遣って考えてみる。
そもそも、幸福は不幸の対義語なんだろうか。
「…よく分かりません。僕は、自分にとっての幸せの定義を持ちませんから」
長考した挙句、なんとも凡庸でつまらない答を返してしまった。
「なるほど。つまり君は、曖昧に幸せを感じるわけだ」
そんな意図は毛頭なかったけれど、言われてみればそんなふうにも取れる発言であった。曖昧に。確かにその通りかもしれない。
「そうですね。何がとか、どんなふうにとか、よく分からないです」
「そう、だよね。…ごめんね、変なこと訊いて」
「いえ」
ヒナさんは肩をすくめると、再びカップを持ち上げた。部屋中にコーヒーの良い香りが漂っている。
「あ、前に訊きそびれたんだけど。凛くんの好きな本って、何?」
それきり、彼女はすんなりと話題を変えた。僕の頭は疑問だらけだったけれど、これは好都合だ。
「えっと、そうですね…」
僕が挙げた作品名に、彼女は八の字を寄せる。とても有名な文豪の作品なのだが。
「あの、暗い話が?」
「ええ、確かに暗いんですけど。こう、上手く言えないけど、それだけじゃないような気がして」
「…うん、そういう面白さはあるかもね」
彼女は納得したように何度か頷いた。
カップを持ち上げて一口含む。どす黒い液体は、早くもぬるみ始めていた。
「おはよー」
背後から声をかけられて、歩行速度を落とす。文乃に対しては、立ち止まって振り返るような気遣いは必要ない。代わりに、頭上の蒼葉を見上げた。葉桜は、これはこれで風情がある。花の雲よりはどこか現実的で、もっと人に寄り添っているような感じがある。
「おはよ」
隣へ並んできた文乃に挨拶を返す。水気を存分にはらんだ空気に、彼女の匂いがした。まるで変質者のようだけれど、僕は彼女の匂いを覚えている。ほんの微かなものであっても、それだと分かる、本能レベルの感覚だ。
「暑いね」
文乃が髪をかき上げた。彼女の髪は季節を問わず長い。鬱陶しくないのだろうか。
「だね」
昨日の曇天など忘れたように、真っ青な快晴だった。雨の季節にはまだ少し早いが、それらしい空気が感じられるようになってきた。真夏の焼けるような炎天とは違って、ひたすらに蒸し暑い。起きた瞬間にその気配を感じ、閉口してしまった。これほど学校へ行きたくないと思う朝も、あまり無いような気がする。
きわめて平凡な、アスファルトで塗り固められた歩道を、ふたり、歩調を合わせて歩く。道沿いに、ツツジが美しく花開いていた。真っ白な蝶々が十歩先を横切って、赤紫の瀟洒な花にとまった。すぐ隣を幾台もの自動車が走りぬけ、緑の葉を揺らした。
「ねえ、昨日の女の人、誰?」
文乃は静かに訊いた。僕は頭をひねり、平静を装って答える。
「ちょっと、知り合いだよ。ついこの前会ってね」
「それにしては、ずいぶん必死だったけど」
分かっていた。文乃には、粗末な言い訳は通じない。交差点の赤信号で立ち止まると、彼女を一瞥する。上目遣いに見られて、また前を向き、信号機の少し上を見ながら口をひらく。
「実はね、趣味が合うんだよ。小説、僕が好きなの知ってるでしょう?」
依然、前を向いたままだったから、文乃の表情は分からない。けれども、聞こえてきた声は間違いなく不機嫌だった。
「あ、そうなんだ」
理由なんて僕にも分からない。ただ、何となくそんな予感はあった。
文乃はヒナさんのことを良く思わない。
中学の時もそうだった。彼女は僕の交友関係に辛辣なところがある。立川くんは構わないらしいが、男女問わず、僕に近づいてくる人を毛嫌いすることが少なくない。
「怒ってる?」
「別に。怒ってないよ」
相変わらず感情を隠すのが下手な文乃に、僕は苦く笑む。こうなったら、しばらく機嫌を直してくれない。かと言って、神妙に謝るのは逆効果だ。
「帰り、なんか奢るよ」
「…パフェがいい」
「はいはい」
信号が青に変わる。僕らは並んで歩き出した。
「ほー、それで木立の機嫌が悪かったわけだ」
放課後の教室で窓辺に腰掛け、立川くんはキーホルダーに人差し指を引っ掛けて、くるくると弄んでいる。家の鍵らしきものがついている。机に頬杖をつきながら、それがきらりと西日を弾いたのを眺めて、僕は今朝のことを思い出していた。
「うん。ほんと、そこだけは変わらないんだよね」
一日、文乃はいつも通りに振舞っているようにみえたが、彼の目には奇妙に映ったらしい。流石の観察力と言える。こういう器用さが、彼を人気者たらしめているのだろう。
「雨崎さ、あいつのこと、どう思ってるわけ?」
「もちろん、友達だと思ってるよ」
「恋愛感情は?」
「いまのところ、ないかな」
立川くんは大袈裟にため息を吐いた。言いたいことは分かる。文乃が僕の交友関係にうるさい理由。まっとうに考えれば、彼女が僕を好きだから、ということに、まず最初に思い当たるはずだ。
けれども、はっきりと否定したい。まず第一に、文乃の敵対感情、とでも言えばいいのか、とにかくその許容範囲に、性別による差は無い。男女問わず気に入らなければ突っぱねてしまう。
さらには、もっと確実な傍証もある。文乃は恋多き女性だ。実際に交際までに至ることは珍しいものの、僕はこれまでに、そんな話を幾度も聞いてきた。何度か、恋人だと名乗る男の子と歩いている姿も見た。もっとも最近ではあまり聞かなくなったけれど、事実は事実だ。
立川くんにこれを話したら、彼は苦笑し、黙って頷いた。その意図はいまひとつ分からなかったが、まあいい。とにかく、僕らがそんな関係になるとは考えにくい、ということだけ伝われば、それで。
「ところで、その木立は何してるんだ?待たされてるんだろ?」
文乃は放課後すぐに、呼び出されたと言ってどこかへ去っていった。教室で待つようにと睨まれながら命令され、今に至る。
「さあ。教えてくれなかったよ」
「ふうん」
自分から訊いたくせに、彼はひどくつまらなそうな返事をする。二人きりの教室が静まった、その時、見計らったように文乃が入ってきた。
「おまたせ。あれ、立川くんも居たんだ」
「おう、暇だったからな」
音を立てて椅子を引いた。つられたように立川くんが歩き出す。
「レイニー。忘れてないよね?」
「もちろん」
僕は首を竦めた。
「おー、ここか。こっちは滅多に来ないから、知らなかった」
結局、立川くんも同行することになった。三人で入店すると、早乙女さんはいつも通りの挨拶をくれる。それから少しだけ間をとって訊ねた。
「そちらは、お友達?」
「初めまして。クラスメイトの立川です」
立川くんが答えると、早乙女さんは柔らかに笑んで頷いた。
「早乙女さん、わたしコーヒーとパフェ」
文乃が立ったままで告げた。
「僕はミルクティーで」
「じゃあ、俺はアイスコーヒーをお願いします」
言いながら、いつもの席へ向かう。
「これ、使って」
見ると、早乙女さんが椅子を運んでくれていた。
「ありがとうございます」
立川くんの声に彼は笑顔で応え、カウンターの奥へ引っ込んでいった。
「ビビった。話には聞いてたが、すげえ男前だな」
「でしょ?あの落ち着いた感じが良いよね」
「ああ。只者じゃないっていうか…」
「たしかに。僕らもよく来るけど、早乙女さんのことはあんまり知らないね」
いつも笑顔で優しいとか、声が中性的だとか、そんなことなら知っているけれど、彼の、深いところには触れたことがない。
「いいの。早乙女さんはミステリアスで」
「まあ、そうだね」
知らないからこそ、素晴らしく感じられるものがあるのかもしれない。人間はその一例だろう。表面を取り繕うことはほとんどの人間がしている事だから、その上っ面ばかりを眺めている方が、よほど幸せなのかもしれない。そう思って、ふっと彼女の顔が脳裏を過ぎった。
彼女もまた、何かを隠して、取り繕っているのだろうか。僕が疎いだけで、いくつも嘘を吐いていて、ちっともその本性みたいなものを見せてくれないのだろうか。
そこで思考を放棄する。考えたくないことだった。僕には、そのあたりのことがよく分からないのだ。
人間は、平然と他人に嘘を吐き、欺き、時には自分さえ偽って生きている。その行為自体は理解できる。善悪に関わらず、自己を守るための嘘が、この世界には当たり前のように溢れている。
それにしても人間は、どうやってそのバランスを取っているのだろう。僕も他人の真似事をしてみるけれど、どうにも上手くいっている気がしない。誰もが偽って生きているのなら、いったい何を基準にして、どんなふうに嘘を吐けば良いのか分からなくなってしまう。自分の無様な演技に意味なんて無いんじゃないかと疑いたくなる。結果、僕はどちらにも転べず、ただ不器用に笑う。
もっと傲慢に、人を欺いているのだと信じられれば良いのだろう。互いに何も知らせないままに、それでも相手に不都合な側面を見せていないのだと、心底からの自負があったなら、もっと上手く話せるのかもしれない。つまるところ、作り物の人間関係を築き、その生ぬるい不信が充満した、さながら糸屑の海のような居心地の悪い場所で、それでも自己を確信できる、そんな強さこそが、僕の欠いているものなのだ。
出来損なっている。僕は、このままでは生きていかれない。そんな予感が、確かにあった。
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