曇天
雨が降っている。朝からずっと曇り空で、昼頃からぽつぽつと降り始め、午後二時をまわった今、それは土砂降りに変わった。外が煙るのを、窓際の席から眺めていた。
雨は嫌いじゃない。インドアの趣味しかもたない僕にとって、天候は興味の外にあった。むしろ体育が楽になったりするから、好ましいと言ってもいい。ずっと降り続けられると気分が滅入ってしまうけれども。
「雨崎、どうしたんだよ。なんか疲れてるみたいだけど」
隣から聞こえた声に反射的な笑みをつくる。その速度でさえ、今は明らかに鈍い。
「いや、ちょっと寝不足でね」
「そうなのか」
少しだけトーンを落とした彼のほうを向きながらも、意識はずるずると内側へ向かっていく。ヒナさんの顔がちらつく。
あれから三日が経った。
彼女に会えることを期待して、公園へ行った。一時間くらい待ってみることもした。通学路にあるので、それ自体は大して苦痛ではなかった。
けれども僕の期待に反して、彼女が現れることはなかった。
この三日間、気づけば彼女のことばかり考えていた。それ以外はどうでもよかった。まるで取り憑かれたように、彼女の再来を待ち続けている。
放課後になっても、雨は降り続けていた。鞄をつかんで立ち上がり、教室を出ようと歩き出す。同時に、すぐ隣から声をかけられる。
「レイニー、かーえろ」
いつの間にやら近くにいた文乃は上機嫌に言って、僕の半歩先を行った。投げやりに頷いて、彼女のあとについて行く。
廊下の床は結露していて、ひどく不潔な印象を与える。雨の時期にはいつもこうなるものだから、建物の構造的な欠陥を疑いたくなる。まったく的外れかもしれないが。
「眠そう」
「文乃にも分かるんだ」
「幼なじみだからね」
ばらばらと歩いていく生徒たちを避けながら昇降口を目指した。階段を下りて少し進めば、だんだんと雨の音が目立ってくる。靴を履き替えて外に出た僕らは、互いの傘が触れ合わない程度に近い距離を保って歩いていた。雨が頭上で音を立て、濡れた路面に、曇天から漏れる薄陽が白く光る。
「なに、悩み事?」
「んー、まあ、そうだね」
文乃は僕の顔を覗き込んで眉根を寄せる。美しい黒髪は、雨の中ではひどく重たげだ。
「珍しいね。話くらいは聞くよ?」
「いやあ、なかなか言いづらい話でね…」
「なんだよー、私とレイニーの仲じゃん」
文乃はかるく頬を膨らませ、大袈裟に拗ねる。それが冗談めかした表情だとしても、ちくりと胸が痛む。信頼の証だと分かるから、余計に。
彼女と僕は、どこかで同じところに立てていないのだ。
「ごめんね」
僕は曖昧に笑って、また前を向いた。文乃は「無理しないでね」とだけ言い添え、それきり、ころりと話題を変えた。
いつもと変わらぬ通学路だった。空気はいつもより澄んでいて、肺に心地よかった。今ばかりは流石に彼女のことを忘れ、日常の風景を眺めていた。
だから、その存在に気づけたのはほとんど奇跡だった。こんな表現は使いたくないけれど、確かに匂いを感じたのである。春の匂い。それによって僕の意識は、一息に現実を離れる。
「文乃、ちょっとごめん。先に帰って」
「え?どうしたの?」
文乃は怪訝な表情を浮かべて立ち止まった。構わず駆け出す。
人通りもほとんどない、薄暗い路地。その奥へと駆けていく。右側のブロック塀に傘がぶつかった。何も考えていなかった。
「ヒナさん!」
叫んだのとヒナさんが振り返ったのは、ほとんど同時だった。すっかり濡れ鼠な彼女は僕の顔を見て、それでもにっこりと笑った。真っ黒な髪が頬に貼り付いている。
「凛くん」
「どうしたんですか?傘も持たずに」
ヒナさんに近づき、傘を差し出す。彼女は遠慮がちに僕の隣に並び、「ありがとう」と呟いた。
「お散歩してたんだ。外に出てから傘を忘れたことに気づいて。しばらく雨宿りしてたんだけど、止みそうになかったから」
そう続けてから、ヒナさんはちいさく身震いした。今日は決して寒くないが、曇天のためか、いつもより気温が低い。このままでは風邪をひきかねない。
「ヒナさんの家は遠いですか?」
「ここからだと、ちょっとね」
「なら、ひとまず僕の家に来ませんか?ここからすぐなので。そのままだと風邪ひきますよ」
ヒナさんは逡巡して、こくりと頷いた。それを確認してから、彼女に合わせてゆっくりと歩き出す。来た道を引き返し、いつもの通学路に出た。その頃には、雨も少し穏やかになっていた。
ちらと隣を窺う。半袖の白いシャツが彼女の肌にくっついている。髪もたっぷりと水を含み、ひどく不幸そうにみえる。うっすらと下着らしきものが透けて見えて、慌てて目を逸らした。このまま放っておいたら、風邪よりもっとまずいことになりかねない。見つけられて良かったと、この時ばかりは自分を褒めてやった。
成り行きとはいえ、ヒナさんと一つ傘の下、さらには家に招くことができている。これは思わぬ幸福だった。しかし、今更に緊張をおぼえる。意識すればするほど彼女の足音を近く感じ、そんなはずもないのに、吐息さえも感じられるような気がしてくる。
「寒くないですか?」
特に話題を思いつけなかったので、当たり障りのないことを訊いてみる。ヒナさんは一瞬だけこちらを見て、「へーきだよ」と微笑んだ。そのついでみたく、貼り付いていた髪の毛を払った。
「ごめんね、こんな」
「いえ。ヒナさんに会いたかったので。嬉しいです」
意図したつもりは全然ないけれど、考えてみれば恋心を匂わせる言い回しになっていた。あわてて何かつけ加えようとするも、うまく言葉が出てこない。
「あ、えっと、その。友達と、本の話とかできないので」
嘘ではないけれど、本心でもない。彼女は言葉を額面通りに受け取ったらしく、笑みを大きくして首を傾ける。
「ありがとう。やっぱり、君は優しいね」
僕はふいっと視線を外し、前を向いた。
「ところで、肩濡れてない?」
特別大きな傘でもないので、はんぶんこにすると狭い。ヒナさんのことばかり気遣って、ほとんど自分のことは考えていなかった。
「大丈夫です」
強がりではない。むしろ今は、雨に濡れるくらいがちょうどいい。
「散歩、好きなんですか?」
「ああ、うん。…家に居ると、気が滅入るから」
「…すみません、なんか、踏み入ったことを」
ヒナさんが答える、その横顔がなんだか悲しげにみえたので、ひとまず謝った。意味も分からず。それは反射的だ。
「ぜんぜん深刻じゃないよー」
打って変わって、彼女はからりと笑う。
「責めてるわけじゃないよ。ただ、君は、もうちょっとふてぶてしくなった方がいい」
「ふてぶてしく、ですか?」
「図太く、かな?まあどっちでもいいけど。気を遣いすぎてる」
「ご、ごめんなさい」
「ほら、謝らないの」
「あ」
思わず口元へ手を遣る。口癖と化した謝罪は、却って相手を刺激するのかもしれない。こちらがへりくだって、それで満足してくれる単純な人間ばかりだとは限らない。それを、妙な警戒とともに観察している者だって居るかもしれない。
ヒナさんはどちらの人間だろう?
いや、そもそもそんな考え方自体がひねくれているのだろう。
少しでも咎められたり、語勢を強められると、相手が怒っているのだと思い込む。それが事実であるか否かはさておき、そこで謝らなければ、そのうちに相手が怒り狂って僕を詰るのではないかと、実体のない幽霊みたいな恐怖感に苛まれる。
人の良心みたいなものを頭の片隅に期待しながらも、それの顕在をちっとも想定できない。
もう少し傲慢に生きられたなら楽なのかもしれない。人のことなど二の次に、自分のことを見つめ続けていられたなら。
「人が怖い?」
ヒナさんが声色を変えて発した一言に、背すじの凍る思いがした。
「…ええ、まあ」
はっきりと頷くのも気が引けて、歯切れの悪い返事をした。ほとんど初対面のヒナさんに卑屈の向こう側を見抜かれるなんて、僕はいい加減に下手な人間だ。
「あそこです」
ちょうどいいタイミングで、家が見えた。
僕は先に上がって、ヒナさんにタオルを渡した。彼女はそれを受け取って体を拭き、サンダルを脱いで上がった。目の遣り場に困った僕は、ずっと壁のほうを向いていた。
「とりあえず僕の部屋へ。こっちです」
階段をあがる。彼女は黙ってついてきた。
ドアを開けば、見慣れた景色が広がる。本棚と机、ベッド。僕の持ち物はひどく簡素だ。
「テキトーに座ってください」
やおら、彼女は椅子に座った。僕はベッドに腰掛ける。彼女は濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、じっと僕の顔を見つめた。
「な、なんですか?」
「んーん。いろいろありがとう」
「いえ。…そう言えばヒナさん、手ぶらなんですね」
三日前に会った時も、彼女は何も持っていなかった。
「ええ。鞄とか、持ち歩きたくないの。できるだけ、身軽でいたいから」
僕は頷く。今度は心底からの肯定だ。
「分かります。僕も嫌いで」
極力、鞄は使わないようにしている。外に出るとしても、財布とスマートフォンがあればいい。そのくらいならポケットにでも入れておけばいい。
ヒナさんはおもむろに頷いた。
「気が合いそうだね」
無意識に前髪を引っ張る。なんだか気恥ずかしい。
「あの、いくつか訊きたいんですけど」
「なあに?」
「ヒナさんは、大学生ですか?それともどこかで働いてたり?」
彼女は少し考えているらしかった。それから、落ち着いた声で答える。
「どっちでもないんだ。ちょっと、事情があってね」
「事情…」
思わず繰り返してしまったが、先の二の舞になってしまってはいけない。舌の先を噛んで、素早く続けた。
「じゃ、じゃあ、どの辺りに住んでるんですか?ちょっと遠いって言ってましたけど」
「んーと、ここから電車で十五分ってとこかな」
「一人暮らしですか?」
「うん。滅多に人も来ないから、退屈だよ」
きっと嘘は吐いていない。ヒナさんの声は真っ平らで、ぜんぜん淀みがなかった。
だからこそ、僕は困ってしまった。僕を厄介に思って、適当にあしらっているわけではないのだろう。それなのに、彼女の実生活というものが、まったく想像できない。所属が分からないだけで、人間はこんなにも遠く感じられるらしい。
「あの、えーっと」
言い淀んだ僕を見て、彼女は首を傾げてみせる。唇を緩やかにカーブさせて。
「…よかったら、連絡先を教えてくれませんか?」
意を決して言った。少し声が震えて、我ながら情けない限りだった。
ヒナさんは黙っていた。ややあって、静かに告げる。
「ごめん、連絡先とか無いんだ」
「無い?」
「うん。携帯も持ってないし、家にも電話は無い。コンピューターも使えない」
その言葉に、僕は唖然とした。それは考えていなかった。今の時代に、携帯電話はおろか固定電話も無いなんて、そんなことがあるだろうか。しかし本人がそう言うのだから、僕にはどうすることもできない。
「な、なるほど…」
すっかり言葉を失ってしまう。
「でも大丈夫。結構この辺りウロウロしてるから、また会えるよ」
「そんな…」
「それじゃ、だめ?」
僕は、人に対してダメだと言えない人間だ。だから、ヒナさんがそうしたいと言うなら、本来、逆らうはずはなかった。
それでも。
「…ヒナさんのこと、もっと知りたいんです」
普段なら決して出てこないような言葉が零れ落ちる。ありえないことだった。
彼女は目を見開く。
「知りたい?」
「はい。たしかに、僕はヒナさんに会ったばかりで、あなたのことをよく知りません。だから本当は、こんなこと言うのも失礼かもしれないけど」
そこで一度、言葉を切って、大きく息を吸い込んだ。
「…友達に、なりたいんです」
これまで一度も口にしたことのない台詞だ。思えば、人間関係はいつだって受け身だった。
「…そっか」
彼女は静かに頷いて、タオルを二つに折って膝に載せた。
「分かった。じゃあ、今週の土曜日、あの公園に来て。わたしの家に連れてってあげる」
僕は前のめりになって頷いた。
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