好きな本
言いかけて、空を仰いだ。今更に現実を思い出す。
なんと言い訳すれば良いのだろうか。考えたって分からなかったけれど、何とか、一つでもましな返答をしたくて必死に頭を使う。
「雨崎凛、といいます」
とりあえず、自分の名前を告げた。
薄い唇を小さく開いて僕の名前を復唱しながら、彼女はやおら起き上がった。微かにベンチが軋んで、彼女にも体重があるのだと知った。
「雨崎、凛くん」
いくら高校の制服を着ているとはいえ、見知らぬ、無防備な女性を観察するのは、おそらく褒められたことではない。そのくらいは僕にも分かっていた。それでも、心が浮き立つのを抑えられない。
いまこの瞬間、恋に落ちた。
それは自分でもはっきりと分かった。これまで、人を好きになったことなんて一度もない、だからその感覚すら本当は知らないけれど、本能が叫んでいた。さっきまで死んだように静かだった心臓が、意識したら急激に煩くなる。両手をぎゅっと握って息を深くしたが、あまり効果はなかった。
「あ、あなたは?」
自分の罪などすっかり忘れて、僕は問うた。声が震えていた。顔が引きつって、いつも以上に笑みが不格好になっている。見なくても分かる。
「わたしは、ヒナ。そう呼ばれてる」
彼女は柔らかに笑んで答えてくれた。不思議な言い回しだった。まるで自分のことがよく分かっていないみたいな。もちろん気になったけれど、今はそれどころではなかった。
どうにかして、彼女と親しくなりたい。それしか考えられなかった。初めてのことだ。自分の鬱屈とした人生も、世界のことも、一息にどうでもよくなった。彼女が目の前に居てくれれば、それでよかった。
不器用で人間関係のあれこれに疎い僕は、その後を何と続ければ良いのか見当つかなかった。とにかく何か言わないと。ただ焦って考えるけれど、つまらない追従も世間話も、何も浮かんでこない。
「ヒナさん」
ひとまず名前を呼んでみて、そこでようやく言いたい、もとい言わなければならないことを思い出した。
「ご、ごめんなさい!初対面なのにじろじろ見て、あの、えっと」
やっぱり声は震えていて、しどろもどろになりながら頭を下げた。彼女が視界から消えてしまうことは残念だったけれど、地面を見ていると少しは落ち着けた。
ややあって、彼女はくすくすと笑いだす。
「顔上げて。わたしは大丈夫だから」
そう言われ、素直に従った。おそるおそる覗いた顔は朗らかで、僕はようやく安心する。彼女は両脚を地面へ下ろし、隣に空席をつくった。そこをとんとんと手のひらで叩いて、首を傾げる。
「よかったらお話しましょう?」
予想だにしない展開に、頭は輪をかけて鈍くなる。ふらふらと気弱な足取りで彼女に近づくと、隣に腰掛けた。照れくさくて、本当はめいいっぱいに間隔を空けたかったのだけれど、当然のようにそんな度胸はなく、馴れ馴れしいと思われない程度に、堪えられる範囲で彼女に近づいた。
先ほどまで彼女が寝ていたから、木は温もりを感じさせた。どこからとなく甘い香りがして、気が気でない。
「さて、じゃあまずは…」
彼女は明後日の方向を見て、顎へ手を遣った。
「君は、何年生?見たところ、そこの高校に通ってるみたいだけど」
こちらに向き直り、小さな声で訊ねた。
「二年、です。今年で十七になります」
「高校二年生か」
彼女は再び虚空へ目を遣って、なんだか嬉しそうに呟いた。その意味が分からず、どんなふうに会話を展開すれば良いのかも分からず、ただ、次の言葉を待ってしまっていた。自分の不器用さを呪っていると、彼女が口をひらいた。
「凛くん」
「は、はい」
返事の声は明らかに上ずった。彼女は前を向いたままだった。
「突然だけど、わたし、人間にみえる?」
「え?」
出し抜けに、彼女はそんなことを訊いた。
まるで意図のわからない質問に硬直してしまう。どう答えれば正解なのだろうか。もちろん、彼女は人間にしかみえないし、それ以外の何かを思いつけない。
しかし、そんな馬鹿げた答を期待しているはずがない。何か、彼女が欲しがっている答を返してあげないと、でも焦れば焦るほど何も浮かばなくて、僕は舌の先を噛んだ。ぎこちなく笑ってみる。
「人間、だと思います」
結局、こんな答しか返せない。彼女は何も言わず、淡く微笑んだままで、僕の顔をじっと見つめていた。何かを試すように。
「あ、ご、ごめんなさい!何か、もっと、気の利いたことを言えたら…その」
ほとんど狂ったようになって、必死に言い訳をする。彼女に嫌われたくない一心で。
「えーと、ごめんなさい」
卑屈な人間の口癖は、たいてい謝罪の言葉だ。
『ごめんなさい』『すみません』『申し訳ありません』
それが自身の言葉のなかで、もっとも良い効き目を示すものだと知っているから。
つまるところ、人間が怖いのだろう。僕は、どこかで自分を人間と同じ土俵に立たせてやれなくて、だから人と向き合うと冷汗三斗、必死に繕って誤魔化して、何とか人間である振りをするのだろう。
ともかく、何らの愉快さも提供できなかった。まったく、下手もいいところだけれど、できないものは仕方がない。彼女は黙っていたが、ややあって、くすくすと笑った。
「なんで、そんなに謝るの。君は悪いことしてないのに」
「え、あ。…たしかに」
「悪いのは、へんなこと訊いたわたしだよ。ごめんね」
その言葉に、また焦る。どう応えれば良いのだろう。彼女を責めたくない。人を、自分の下に置きたくない。それがどれだけ些細なことであろうとも、恐ろしくていけない。謝られる立場なんて、ろくなものじゃないと思う。
困って黙っていると、彼女が続ける。
「そっか、人間か。ありがとう」
そっと盗み見た横顔は、名前のない形をしていた。喜怒哀楽のどれにも当てはまらないような。無理に当てずっぽうを言えば、何となく寂しそうだった。
「君は、善い人なのかもしれないね」
否定できるほどの気概もなく、けれどそれは、おそらく正しくはないので、なんだかバツが悪い。わざとらしい咳払いとともに、僕は座り直した。彼女はベンチについていた両手を膝の上で組み、俯く。
「さて、もっと楽しい話をしよう。好きな物の話とか」
次に展開されていくであろう会話を予想して、いくらか言葉を構えておく。ともかく、相手を緊張させてはいけないのだから、言葉はスムーズに紡がれなくてはならない。
「君の好きな人は誰?」
などと息巻いていた僕だが、その一言で構えておいた言葉が尽く意味を失った。噴き出しそうになるのをどうにか堪える。心臓がへんなふうに軋んで、顔が熱い。きっと今、僕は真っ赤になっている。
明らかな動揺は、彼女にも伝わってしまったらしい。
「わっ、赤くなって。かわいい。誰にも言わないから、お姉さんに言ってごらん?」
目の前に居る、と言いたいけれど、そんな度胸はなかった。気障にも程がある。答えあぐねて、そっぽを向いた。
「な、なんでいきなり、そんなこと」
それが、精一杯の反撃だった。
同時に風が吹き抜けて、いっときの静寂が訪れる。空気の動きが完全に止まってしまってから、彼女はふいっと目を逸らしてから答えた。
「好きなの。そういう話を聞くのが」
その声には確かな重さがあって、深刻に響いた。彼女は小さく空を仰ぎ、ぼんやりと遠く、視線を漂わせている。
その様は、何故か僕を冷静にした。驚くほどすんなりと。
今更に大切なことを思い出す。この人に、恋人は居るのだろうか。その答によっては、僕の努力も緊張も、全て無駄なものになる。
訊くならば、今しかないだろう。冷静さを取り戻した頭脳は、すんなりと嘘を捻り出す。こんな状況でも利己的なことばかりは忘れない自分に呆れつつも、声は震えなかった。
「…いませんよ。ヒナさんこそ、そういう人はいないんですか?」
きわめて軽く、何らの含みも持たせずに。それは困難を極めることだ。人は、言葉の裏にある真意を探ろうとするものだから。
裏に秘めた好意に気づかれないことを祈りつつ、聞きたいような聞きたくないような、微妙な気持ちで待っていると、思いのほか早く、あっさりとした答が返ってきた。
「いないよ。わたしには、なんにも無いの」
彼女はこちらを見ないままだった。その言葉はひどく乾いていた。受け取り方によっては深刻な言葉だけれど、全然重くなくて、却って焦ってしまう。
「あ、そうなんですね」
その焦りとは裏腹に、素っ気ない返事をしてしまった。にわかに後悔し始める僕を置いてけぼりにして、彼女は声のトーンを上げた。
「そっかそっか、いないのか。…嘘ついたでしょ?」歌うみたいに軽く。
意地悪な笑顔も素敵だった。十分ほど前に出会ったとは思えないほど、どうしようもないくらい、彼女を好きになっていた。一目惚れなんてチープで浅ましいと思っていたけれど、実際には抗えるものじゃなかった。
「う、そんなわけ」
「分かりやすいなあ。お姉さん、誰にも言わないよー?」
「い、今はダメです!」
思わず身を引くと、彼女は「ごめんごめん」と謝りながらも、不服そうに唇を尖らせてみせる。そんな仕草にもドキドキしてしまって、何だか口惜しい。
「…ところで、ヒナさんはお幾つなんですか?お姉さんってことは…」
僕は話題を変えたくて、強引に訊ねた。気になってはいた。直感的には、僕とあまり変わらないように思う。
「わたし?今年で二十歳だよ。…一応ね」
最後に加えた一言の意味は、いまひとつ分からない。しかし、やはり歳上だったらしい。
「あ、だからって畏まらなくていいよ。敬語も要らないし、呼び捨てでオッケーだから」
「いやあ、そんな」
今日会ったばかりだと言うのに、そのハードルは越えられない。彼女は両手を組んで前方へぐっと突き出し、体を伸ばした。
「好きな人は教えてくれないみたいだから、もっと話しやすいことにしようか。凛くん、趣味とかあるの?」
「実は、あんまりなくて。本は好きですけど」
「おー、小説?」
頷くと、彼女の表情がぱっと明るくなる。
「いいねいいね。わたしも好きなんだー」
そんな偶然があっていいものだろうか。けれど、実際にあったのだから仕方ない。
彼女の本好きに偽りはなく、会話は自然と弾んだ。なんとも都合の良いことに、彼女とは本の好みも合いそうだった。久しぶりに、何も考えずに人と話していた。時間も忘れて。
「あ、結構話し込んじゃった。ごめんね、夢中になると周り見えなくて」
「いえ、僕も楽しかったです。ほんとうに」
言ってみて、その嘘っぽさに呆れて、最後の一言を付け加えた。本人の意図に依らず、言葉はどうにも嘘っぽい。いつもそう感じる。誰かの謝罪も感謝も、表面だけでちっとも心に響かない。薄っぺらい。
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るよ。またね、凛くん」
「あ、はい」
彼女は立ち上がり、さっさと歩きだした。じっと、その後ろ姿を見つめる、すると彼女は公園の出口で振り返り、ちいさく手を振った。急いで立ち上がって振り返す。それから、今度こそ彼女が見えなくなる。
もう一度ベンチに腰掛けると、だらりと両腕を放り出し、背もたれに体重を預けた。ひどく疲れていた。人と話すだけでも疲れるというのに、彼女と長時間話すなんて、僕にとっては重労働だ。
しかし、僕はとても幸福だった。幸福なんて大仰な言葉を使うに相応しい。彼女の笑顔を思い出すだけで、胸が信じられないほど満たされた。隣には未だ温もりが残っていて、それだけで胸が騒いだ。
陽はすっかり低くなり、薄橙色の光が木陰を長く引き伸ばしていた。
入浴も済ませ、自室のベッドでうつ伏せに寝転がっている。
やはり、僕は間抜けなのだろう。ヒナさんの素性を一切知らないことに、帰路に至ってから気づいた。彼女が何者で、どこに住んでいるのか、まったく知らない。加えて連絡先も知らない。せめて連絡先くらいは訊いておくべきだったと反省するも時すでに遅し、僕は接触するために必要な手段を一つだって持っていなかった。
推理小説の百五十六ページ目を、もう三十分も読んでいる、もとい眺めている。全然あたまに入ってこない。文字は最早、ただの記号でしかなかった。
彼女のことを思い出していた。
真っ黒で長く、艶のある髪。細長い手足。華奢な肩と、服の上からでもそれと分かる豊かな胸。大きな瞳と白い肌、甘い香り。克明に、それらの一つ一つを思い出すことができた。
彼女に関する何もかもが、あの場における何もかもが、瞼の裏にじっとりと焼き付いて、離れてくれない。こんな表現はただの誇張で、現実的ではないと思っていたのだけれど。今、一度でもまばたきをすれば、僕の意識はたちどころに木陰のベンチへと奪い去られる。
つまるところ、浅ましい、動物的な感情なのだと思う。彼女の姿が、僕を惹きつけてやまない。それを、何となく後ろめたいと思わないではない。
考えてみて、独り自嘲する。
いつも感情に説明文を付け加えようとしている。それは無粋で、毒を飲むにも等しい行為だ。そう分かったのは、それがすっかり癖になってしまった後だった。
自分を客観視できることはひどく便利だけれど、ひたすらに人間を人生から遊離させる。
さておき、ヒナさんは美しかった。どうにかして親しくなりたい。このままでは、もうおさまりがつかない。奇妙な胸騒ぎは一向に治まってくれない。
なんにしろ、運次第なのだ。今日の出来事をきわめて客観的に観察してみて、それは非常に困難なことであったが、なんとか思い切る。間違っていないはずだ。これから彼女に会えるのか、関係を深めていけるのか。全ては、まあ正確には僕の言動にも依るけれど、とにかく運に任せるしかない。
スマートフォンを手に取って、『シンデレラ』と検索してみる。アニメ映画やらコスプレ衣装やら、たくさんのイメージ画像が表示された。ガラスの靴、豪奢なドレス、美しい姫。
ヒナさんは文豪の書いた本格的な文学からライトノベルまで、たくさんの本を知っていた。こだわりは肌に合うかどうか、ただその一点に尽きるらしく、特定のジャンルや作家にこだわっている様子はなかった。
そんな彼女の一番のお気に入り、それは『シンデレラ』だった。いまさら調べるまでもない、有名な童話だ。僕だって知っている。
それにしても意外だった。たくさんの物語に触れてきた彼女が、童話の名前をあえて挙げるとは思っていなかったから。理由を訊ねてみても、曖昧な答しかくれなかった。
「とっても幸せなお話でしょう?」
幸せ、なんだろうか。シンデレラは。
継母たちにいじめられ、不思議な力によって救われる。ストーリーはシンプルで、分かりやすい。悪いのは明らかに継母たちで、シンデレラはきっぱりと、誰にでも分かるかたちで救われる。
興味を持った僕は、少しだけ調べてみることにした。ネットを使うだけでたくさんの情報が得られる。それだけ有名なのだろう。よく似たかたちの物語や、シンデレラという名前の由来、あらすじなど、五分とかからず調べることができた。
シンデレラ。言語によっていくらか音が違うみたいだが、語源は灰にあるらしく、和名は『灰かぶり姫』となるらしい。なんだか悲惨な名前だ。日々、辛い目に遭っていた彼女にはぴったりな名前かもしれないけれど。
もう一度、ヒナさんの姿を思い浮かべた。その姿は決してみすぼらしくなかったけれど、どことなくシンデレラと重なる、ような気がした。
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