『何か』

 不器用。それが僕の哀しい性質だった。

 低く砂埃が舞うグラウンド、並ぶハードル。僕は息を切らしながら走っている。

 まったく、できない奴はどこまでもできない。運にすら見放されている。隣を走るのは、学年でもトップクラスの俊足の持ち主だった。小柄で、非常に温厚な少年である。彼のことは嫌いじゃないが、隣を走ってほしくはなかった。これでは、あんまりにも僕が惨めだ。

 必死に腕を振って加速しようと試みるも、やはり僕は鈍足だった。彼は既にラストスパートに入っている。速すぎる。

 などと、まるで競走でもしているみたいだけれど、これは断じて競走などではない。ただ、効率を上げるために、二人ずつ走っているだけだ。

 だから走っていれば、誰も文句は言わないのだろう。彼に比べて、僕がひどく不格好に見えるだけで。

 そう割り切ってしまえたら、どんなに楽だったろうか。

 なんだか、間違った方向に自意識を成長させてしまったような気がする。いつだって人の目を気にしている。少しでも人とぶつかりそうになったら、全力で回避しようとする。それは当然、自分の抹殺につながる。僕はいっそ、空気になりたかった。下手なことをして、人に睨まれるのが怖かった。

 そもそも人のことがよく分からなかった。

 つまらないことを考えているうちに、ゴールは目前まで迫っていた。とにかく必死に足を動かし、たくさん失敗しながらようやく走り終える。ストップウォッチを持った男性教師がタイムを告げる。

 やれやれ、これで一息つける。今日のぶんは終わった、そう思って踵を返した時だった。

「おい、雨崎」

「はい」

 僕は大袈裟な笑みを浮かべながら振り返った。

「もしかして、足痛いのか?」

「いえ。これでも全力なんです」

 眉ひとつ動かさずに答える。慣れているから、平気だ。見下されるのも、憐れまれるのも。

「おう、そうか。ならいい」

 彼はそう言うと、顎をしゃくった。今度こそ列のほうへ向かって駆け出す。

 列の最後尾に戻り、ようやく胸を撫で下ろす。今日も良い天気だ。今は雲ひとつない快晴。錆びたフェンスの向こう側に、黄色い花が揺れている。遠く、自動車の走る音が聞こえて、俯いた。

 群れからはぐれたのだろうか、蟻が数匹、足元を這いまわっていた。心細く、どこを目指すわけでもなく。僕は不自然な笑みを浮かべる。すっかり癖になってしまっていけない。

 あーあ、体育なんてなくなればいいのに。

 多くの男子たちから反感を買いそうな本音は胸の奥底に沈め、いわゆる『普通』の少年たちの疾走を眺めていた。みんな、僕よりもずっと速い。ハードルを跳ぶ姿だって、ずいぶん様になっている。

「雨崎。おつかれ」

 しばらくぼうっとしていると、前方から声をかけられた。見ると、立川くんがこちらに向かって歩いて来ていた。額に浮いた汗を爽やかに拭っている。

「おつかれ」

 僕は同じ言葉を返し、笑いかける。全身に力が入るのを感じて、舌の先を噛んだ。彼は悪い人ではなさそうだが、そういう問題ではない。

「立川くん、速いね」

 お世辞ではなく、心からの賞賛だった。話題を思いつけなくて、とりあえず褒めてみた、ということは否定しないけれど。

「お、サンキューな。これくらいしか取り柄ねーからよ」

 彼はそう答え、右の拳で胸を叩いてみせた。まだ出会ってひと月そこらだから、詳しいことは知らないけれど、けっこう器用な人らしい。人当たりもよく、サバサバした性格でみんなに好かれている。しかし不思議なことに、特定の友達を作ろうとしない。例外は僕だけだと思われる。

 正反対のキャラクターをもつ彼が話しかけてくる理由は、僕も知らない。他に適した人はいくらでも居るはずだ。

 今では教室の座席も隣り合わせになってしまい、さらに話す機会が増えた。あながち、嫌だと言い切ってしまうこともできない。ただ、なかなか慣れない。彼と話すと緊張してしまう、というのは間違いなく本音だ。それどころか、彼と話していると引け目すら感じてくる。僕のような人間が彼と並んでいいものだろうかと、本気で疑問に思う。

「でも、あいつには敵わねえな」

 立川くんの視線を追ってみると、そこには僕の隣を走った彼が居る。いつの間にか教師に呼ばれたようだ。何やら、グラウンドの隅で話している。

「安達くんか。速いよね」

「ああ。さすがだな」

「僕から見たらどっちも速いけど」

「雨崎はもっと、自信もてよ」

 彼は二カリと笑む。適度に焼けた肌に、白い歯が映えて素敵だ。いかにも女の子からの人気が高そうである。

「そう言われてもなあ。実際、運動音痴なんだよ」

「ま、人には得手不得手ってもんがあるからな。でも、お前はちょっと卑屈すぎだ」

 まるで旧知の仲であるかのように言い当ててみせる。僕は曖昧に笑いかけた。誰から見ても、そんなふうに映るのだろう。少し話しただけで誰もに卑屈さを看破されるというのは、想像してみるといい気がしなかった。つまりは、すぐにボロを出してしまうということだ。


「レイニー、と、立川くん」

 食堂で昼食を摂っていると、文乃がやって来た。体育があったからだろうか、いつもはそのままにしている髪の毛を、後ろで一つにまとめている。彼女の髪はすごく綺麗だ。長いあいだ一緒にいたからこそ知っている。本人はあまり自覚していないらしい。

「よう、木立」

「二人ともおつかれ。レイニーは、体育だいじょうぶだった?」

 彼女は僕の運動音痴を知っている。

「駄目だね。走るのは特に駄目だ」

「やっぱり」

 文乃は笑いながら首を傾け、手元を見ずに弁当を広げた。彼女の手作りらしい。こういうところは、本当に尊敬している。

「こう、勢いでいかないと」

 立川くんがカレーを頬張った。僕もうどんを持ち上げる。

 能力の如何に依らず、僕はスポーツに向いていないのかもしれない。

「駄目なんだよ。やっぱり下手で」

 眉尻を下げてみせて、うどんを啜る。素朴で、味が薄い。食堂のメニューではこれがお気に入りだ。文乃と違って猫舌ではないので、息を吹きかけて冷ますようなことはしない。そもそもこのうどんは、最初からぬるい。

「まあ、俺は雨崎のそういうところ、好きだけどな」

「ありがと」

「あ、そうだ。明日、どっか行こうぜ。木立も」

「いいよー、レイニーは?」

 文乃の瞳の色はちっとも変わらないのに、その内側に毒のような何かの気配を感じる。錯覚だ、分かっている、分かっているのに、どうしても考えずにはいられない。

「うん、僕も行くよ」

 僕は笑った。悪癖だと思う。この感情を人に説明するのはとても難しい。

 誰かに近づくと、嬉しさが半分、嫌悪感が半分、それが綯い交ぜになったわけの分からない感覚に襲われる。

 恐れているのだと思う。

 人が嫌いなわけではないのに、人を上手く受け入れられない。ずっとそうだ。文乃に対してさえも、何らかのポーズをとっている。意味のない強がりだ。

「よっしゃ、じゃあ…」

 立川くんが上機嫌な声を出し、明日の予定がさらさらと決まっていく。この感覚は嫌いじゃない。何かを決められると苛立ちを覚えることも少なくないが、それはある種の快感を伴っている。僕は明日について、何も考える必要が無い。彼らと遊ぶ約束をしてしまったのだから。

 自由を放棄することで得られる自由もあるのだろう。


「ごめん、レイニー。ちょっと呼び出されてさ。先に帰って」

 そんなわけで僕は一人、通学路を家に向かって歩いていた。文乃は誰に、何の用で呼び出されたのだろう、なんて考えているうちに、我が家が近づいてきた。僕と彼女の家は、ほど近いところにある。さらに僕らの家から高校までは、徒歩十五分といったところだ。これは嬉しい。早起きの必要が無いから。

 慣れない運動で体力を使ったからだろうか、なんだか眠い。春の陽射しに、つい欠伸をもらした。桜の花もすっかり散ってしまって、代わりに緑の葉を茂らせている。今日は早めに寝てしまおう。

 そう思って、十歩も歩かないうちに立ち止まった。公園の入口だった。小さな、寂れた公園だ。最近の子供たちは他の場所で遊ぶらしく、あまり姿を見ることはない。その影響か知らないが、遊具にも乏しく、あるのは砂場とブランコだけだ。最奥の壁際には何本か桜を植えてあって、その下にベンチが三つ置いてある。

 真ん中のベンチに、白い何かが横たわっている。何か、なんて言わずとも、それは明らかに人だった。けれど僕は、何かだと思った。それは、僕の本能に何かを訴えかけていた。時計の針が一瞬だけ止まる。

 気づくと、取り憑かれたように、そちらへ足を運び始めていた。ゆっくりと、しかし確実に、ベンチのほうへと歩み寄る。徐々に何かの輪郭が明らかになってきた。女性だ。白いワンピースを着て、ベンチに寝そべっている。

 足元には名前の分からない植物がひょろひょろと顔を覗かせ、ベンチの一部には苔が産していた。木と錆びた金属で造られたそれは、この空間でたった一つ、選ばれたようにして多くの陽を集める。

 陽は、さながら彼女を照らすために在った。澄んだ大きな瞳は長い睫毛の下から、緑の葉群れを見つめていた。真っ黒な髪は無造作に投げ出され、金属の肘掛けからふわりと垂れ下がる。華奢な手指を胸の下できっちりと組み、細く長い脚を反対側の肘掛けへ投げている。真っ白なワンピースに負けぬ白い肌が陽光のなかで柔らかだ。

 美しさそのものみたいな何かが、そこに横たわっている。

 僕はじっと、彼女に見蕩れていた。呼吸すら忘れていた。その一瞬に、彼女が消えて無くなってしまいそうで、まばたきを堪える。いまはただ、彼女の姿を見ていたかった。ただそれだけで、僕は恐ろしく幸福だった。

 彼女もまた、動かなかった。身動ぎ一つ見せることなく、葉ばかりになった桜の木を、じっと見上げている。あまりに美しいから、死んでいるのだと思った。けれども豊かな胸は緩やかに上下していた。

 やがて彼女は目だけを動かし、僕を捉えた。風がゆるゆると吹き抜けていき、木漏れ日が曖昧に形を変える。彼女はゆっくりと、とても自然な速度で口の端を持ち上げた。その様を、つぶさに観察していた。笑った、と思ったら視界が揺れた。心臓が怖いくらい静かだった。

「こんにちは」

 薄い唇がありきたりな挨拶を紡ぎ出す、その奇跡的な瞬間に息を呑んだ。女性にしては低い、落ち着いた声だった。忘れていた呼吸を今更に感じて、その拍子に、僕も笑った。

 一瞬だけ躊躇って、同じ言葉を返した。

「こんにちは」

「あなたは、誰?」

「僕は」

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