平常運転

 窓の外は春空、霞のような陽光は街並みをぼんやりと浮かべ、透過するもの全てを美しく照らした。春の陽射しを見つめる度に思うのだが、これは光と言うより糸だ。細い細い幾億もの糸が、あらゆるものを均等に貫いている。それは解けて部屋全体を曖昧に明るくしたり、窓際に蟠って陽だまりをつくったりする。

 ベッドの上に半身だけを起こしていた。枕元には文庫本が一冊。机上のシャープペンシルがぎらりと光った。目を細めながら、欠伸を噛み殺す。朝は苦手だ。

 ゆっくりとベッドから抜け出て、大きく伸びをする。時計を確認すると、午前八時だった。もう少し眠っていても良いのだけれど、せっかく目が覚めたので何かしよう、そう思って、スマートフォンに手を伸ばした。メッセージが一件。トークアプリをひらいて確認する。

『お昼にそっち行っていい?暇なの』

 少しだけ躊躇って、返信する。

『いいよ』

 そのままスマートフォンをベッドへ投げ置き、部屋を出た。階下からコーヒーの匂いを感じつつ、階段をゆっくりと下りて、父の姿を探すも、見当たらない。どうやら出かけたらしい。

 キッチンでトーストとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませると、ふたたび自室へ引きあげる。土曜日の朝はとても静かだった。

 僕は机に向かって黒のボールペンを握り、コピー用紙を一枚取り出す。五百枚ほど入って数百円の、ごく一般的なA4サイズの紙だ。真っ白で、とても正しい形をしている。

 文字を入れ始めたら、ほとんど何も考えない。手は勝手に動く。好きなように、自由に、不格好な黒い文字が連なっていく。十、二十、百。改行を重ねつつ、それは文章に成っていく。

 そのまま二時間ほど作業を続け、二枚の紙を使った。すっきりとした晴れやかな気分で椅子から立ち上がる。書いた内容に反して僕には何らの憂いもなく、ようやく一日が始まったのだと思える。

 いつからだったか、それは僕の救いになった。日記をつけるつもりで書き始めたそれは、いつの間にか小説の真似事になっていた。卑屈で、絶望的な内容だ。紙を汚す。

 そうすれば、少しは生きていようと思えた。ただ、それだけの事だ。だから、小説としての巧拙など心底からどうでもよかったし、誰かに読ませるつもりもない。

 窓を開けると、柔らかな風が頬を撫でた。この季節は嫌いじゃないけれど、何故か寂しくなってしまう。ふわふわと意識が浮き立って、どこかへ落ちて行ってしまいそうな、そんな感覚に襲われる。桜が散ってしまうからだろうか。

 それからは、ひたすら小説を読んで時間を潰した。唯一の趣味である読書を未だにどれだけ愛しているのか、僕自身にも分からない。小さい頃から本は好きだったけれど、あの頃と同じ気持ちで向き合えているのかと問われれば、口を閉ざさざるを得ない。

 全てが色を失う瞬間を、この目でしかと見てしまったから。

 それは突然だった。高校一年生の時、つまりは一年前のこと。噎せるような夏の気配はじりじりと窓を焼いて揺らし、冷房の効いた部屋で、無気力に文庫本のページを捲っていた。

 百三十八ページ目を読んでいたことを、自分でも可笑しいと思うくらいはっきり憶えている。主人公が何と言っていたのか、誰が登場したのか、ちっとも思い出せないけれど、ページ数だけは確かに記憶している。

 ふいっと、ページから目を逸らした瞬間だった。

 あれが全ての始まりだった。僕は一瞬だけ息を止めて、またすぐに吐き出した。肺が凍ったのかと思うくらい寒かった。もちろんそんな筈はなかったけれども。


 安っぽい通知音に顔を上げた。ベッドから起き上がって本を閉じたのと、窓の外を見たのはほとんど同時だった。

 ここからでは姿は見えないけれど、そこに彼女がいるのだと分かった。身支度は済ませてあったので、スマートフォンだけをポケットにねじ込むと、さっさと外へ出た。

 庭先に、少女が一人立っている。正午過ぎ、彼女はほの淡い陽光に白い肌を晒し、こちらを向いて佇んでいた。ほとんど両足の真下に潰れた影をくたりと落とし、唇は緩やかに弧を描いて引き結ばれている。白いブラウスに水色のフレアスカート、その裾が柔らかな春風に揺れる。つられたように長い髪も揺れて、彼女は煩わしそうにそれを押さえる。

 僕はそっと彼女へ近づいていく。

「やあ」

「はろー」

 まったく抑揚のない声で挨拶を返し、彼女はふらりと向きを変える。僕が隣に並ぶと同時に歩き出した。門を抜けて右に折れ、まっすぐに歩いていく。

「いつものとこ?」

「うん。お昼食べた?」

「まだだよ」

 意識せずとも、彼女の歩幅に合わせて歩くことは難しくない。彼女のほんの少し後ろに体を持ってくるイメージ。コツは、歩幅を三等分した、そのうちの二つ分くらいを一歩とすることだ。

 文乃とは、もう随分永い付き合いになる。小学生の頃から互いを知っていて、中学、高校へと進んでも関係性は変わらなかった。

「文乃、課題やった?」

「え、全然」

 即答される。僕は前を向いたままで笑う。

「平常運転だねえ」

「そう言うレイニーはどうなの?」

「君の解答をアテにしていた」

 真昼の歩道は暖かく、歩いていても眠くなる。街路樹が影を落とし始めた。ちらちらと陽射しを浴びながら、五分ほど歩いたところで立ち止まった。

 古いビルと空き地の間に、小さな喫茶店がある。

 木を基調とした建物で、陽の当たりにくい壁に、細い蔦がくねくねと這い上がっている。下手にすれば廃屋を想わせるそれは、しかしこの店にとても似合う。階段、と言うよりは段差と言った方が正しいようなものを上った先にドアがあって、手前には大きな樽が二つ、並べて置いてある。その上にホワイトボードが立てかけられ、簡単にメニューが紹介されていた。

 文乃がドアを引き開けた。頭上で鐘が鈍く鳴って、蝶番が軋んだ音をたてる。それに気づいたらしい、カウンターの前に立っていた早乙女さんが、こちらへ向き直った。

「いらっしゃい。どうぞ、好きなとこ座って」

 彼は丁寧にお辞儀して、それとは対照的にフランクな言葉遣いをした。いつもこんな調子だ。二十代半ばで、美形の男性である。文乃の間延びした返事に、僕も続く。

 好きなところと言われても、この店には二人用のテーブル席が四つ、カウンター席が三つあるだけで、選ぶ余地はあまりない。僕らの席はいつも同じだった。右手に窓のある、一番明るい場所。年季を感じさせる焦げ茶色のテーブルに触れる。それから椅子を引いて、腰掛けた。

「ブレンドくださーい」

「僕もいつも通りで」

 いつの間にかこちらへ来ていた早乙女さんに告げると、彼は再び丁寧なお辞儀を見せて、カウンターの奥へ引っ込んでいった。

 この店に初めて来たのは、たしか中学二年生の時だ。文乃と遊び疲れて、ふらふら歩いているうちに見つけた。家の近くであるにも関わらず、僕らはこの店の存在を知らなかった。

 以来、僕らはここへ通うようになった。まず、店内の静かさが素晴らしい。この店が賑わっているところを見たことがない。店としてはまったく不本意なところであろうが、僕らはそれを気に入っていた。

 そして何より、値段が手頃なところ。高校生でも十分手が出せる。その割には美味しいように思う。繊細な味の良し悪しなんて分からないけれど、ともかく満足している。

 今だって、他に客の姿は無い。ありがたい限りだが、果たしてこの店は儲かっているのだろうか。

 ややあって、早乙女さんは注文の品を運んできた。僕の前にはミルクティーのカップとフレンチトーストの皿が並ぶ。この店のフレンチトーストは甘さに容赦がなくて好きだ。

「子供舌、直んないねえ」

「まあね」

 僕の味覚は小学生のまま成長を止めてしまったみたいで、未だに単純な味付けのものが好きだ。コーヒーだってそのままでは飲めない。砂糖をたっぷりと溶かし、さらにミルクを混ぜて、ほとんどカフェオレのような味になってから、ようやく含むことができる。

「あんまり甘いもの食べてると、体に悪いよ?」

「我慢して長生きするよりは、我慢せず早死にしたい」

 甘いものは幸福の象徴だと思うのは、僕だけだろうか。文乃は呆れたように笑って、念入りにコーヒーを冷まし始めた。持ち上げたカップに、細い息を何度も吹き込んでいる。彼女は猫舌なのだ。

「罰当たりな」

 呟いてから、ようやくカップに口をつける。それでも顔を顰めている。冷たいものを頼めばいいのに、彼女はいつも熱いコーヒーを注文する。冷たいものを飲むのは真夏だけだ。

「人生の価値は長さじゃないと思ってる」

「でも、早死には嫌でしょう?」

 文乃のカップが音を立てた。僕はトーストを口へ運び、ゆっくりと味わってから飲み下す。

「構わないよ、僕は。明日にでも」

「またそんなこと言って」

 僕のこんな態度はいつもの事なので、文乃はちっとも動じない。それは嬉しいことでもあったけれど、少し、寂しいことでもあった。声には出さずに自嘲して、ミルクティーを含んだ。まろやかな甘さと同時に、紅茶の香りが鼻に抜ける。

「レイニーは、夢とか目標とか、ないの?」

「今のところはないね。これからもないと思う」

「枯れてるなあ」

 実際、僕には取り立てて望みがない。むしろ、どうしたら前向きに生きていけるのか、さっぱり分からない。自分の将来なんて考えたくもなかった。

「文乃は?これからどうするの?」

 彼女はしばらく考えてから、ちいさく首を振った。

「私は、テキトーな大学に入って、それから考えようかなって、思ってる」

「なんだ、似たようなものじゃんか」

「私はレイニーほど卑屈じゃありませんー」

 言ってから、文乃はわざとらしく舌を出す。僕は苦笑して、「たしかに」と頷いた。

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