午前零時の舞姫
不朽林檎
プロローグ
いつだって思い出すのは、雨と終わりかけた春の匂いだ。まだ、僕が僕を知る前の話。
彼女との旅も残り半分となったある日、空は灰の色を帯びて、僕らは雨に煙る静かな街を、部屋の窓から眺めていた。
ホテルの三階、木の枠にはめ込まれたガラスは綺麗に磨かれていて、曇りなくエキゾチックな景色を映していた。雨の音を除けば、ほとんど何も聞こえない。
「静かだね」
彼女は隣で伸びをしながら、少し掠れた声で言った。僕は無言で頷き、窓に背を向けた。
「せっかくの旅行なのに、残念ですね」
「そうだね。でもまあ、これはこれでアリじゃない?」
たしかに、濡れた石畳には風情を感じる。
「雨が弱まったら、すこし散歩でもしましょうか」
「うん」
彼女は上機嫌に答えると、ゆったりと歩き出す。そのままベッドに腰かけた彼女を眺めて、欠伸を漏らした。
「君のあだ名のせい?」
彼女は仰向けに倒れながら笑った。僕はゆるゆると首を振り、右手を頭の後ろへ遣った。
「これでも晴れ男なんです」
「へえ、意外」
「ヒナさんは、雨女ですか?」
「そうかもしれない。この二年くらいで、けっこう降られてる気がする」
「ああ、そういえば、ずぶ濡れになってたこと、ありましたっけ」
「あれは辛かったなあ。凛くんがいなかったら風邪ひいてた」
簡素な木製のテーブルから、クッキーをつまみ上げる。二日ほど前に近くの店で買ったものだ。包みをあけて歯を立てると、さくりと小気味よく鳴って口の中へほどけていく。シンプルに甘かった。
「それ、美味しいよね」
「ええ。ちょうどいい甘さです」
「凛くんは、甘いもの好きなんだっけ?」
「まあ、そうですね。食べると幸せな気分になりません?」
「あー、それは分かるなあ。気が抜けるっていうか」
「落ち着きますよね」
会話に深い意味はない。何らの深刻さも伴わない、ただ幸せなだけの言葉の遣り取り。
「ねえ」
「はい?」
「ずっとこうして居られたらいいのにね」
「…ええ、本当に」
クッキーの包みを丸めながら、自分の町を思い出した。それだけで、なんだか苦しくなる。
「…ほんとうに。ヒナさんとこうして居られたなら、何も要らないのに」
薄く煙る雨が止むまで、もう少しかかりそうだった。
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