同族

 現れたのは、スーツを着た男性だった。顔は仮面で覆われている。仮面と言っても、目の部分に細工をしてあるらしく、こちらからは何も見えない。まるでのっぺらぼうだ。手には何やら物が入った袋を提げている。

 予想だにしない来客に硬直する。ノックもなしに入って来た彼は、ほとんど音を立てずにこちらへ歩み寄った。そしてフローリングの床に袋を置くと、何も言わずに背を向けて、そのまま退室した。

 ドアが閉まる音さえなんだか遠くて、まるで彼など居なかったかのように袋だけが残された。ヒナさんはそれを手に取り、なかを確認する。

「うん、大丈夫だね。あ、これ飲んで」

 彼女は缶コーヒーを二本取り出した。一本を受け取ってプルタブを引き上げる。ベッドへ袋を投げてから、彼女も同じようにした。

 苦いものが苦手なのだとはとても言い出せず、意を決して口をつけた。思っていたほど苦くはなかったけれど、思わず顔を顰めた、その瞬間を見られてしまった。

「あ、もしかして苦いのダメ?」

「…恥ずかしながら。でも、このくらいならなんとか」

「ごめんね、知らなくてさ」

 言ってから、彼女も缶に口をつけた。苦さのおかげで少し冷静さを取り戻す。

 今は、それよりも訊きたいことがたくさんだった。

「さっきの人が、必要なものを持って来てくれるんですか?」

「そう。まあ、名前も知らないし、声だって一度も聞いたことないけど。他にも何人かいるよ」

「あの、ヒナさんは一体何者なんですか?とても、普通の人とは思えないんですけど」

 ヒナさんは缶から口を離すと、細長くため息を吐いた。そこに否定の意図を感じ取った僕は取り乱し、いつも通りの弁解を始めようとする。

「あ、ごめんなさい。その、無遠慮に、こんなことを」

 こちらを向いてから、彼女はゆるゆるとかぶりを振った。

「んーん、大丈夫。でも、えーと。そうだなあ。まだ踏み込んだことは、ちょっと」

「…ならせめて、どうしてここに住んでいるのかだけでも、教えてくれませんか?言える範囲でいいので」

 彼女は顎に手を遣ってしばらく考えた後、二の足を踏んで、おもむろに口をひらいた。

「それはね、複雑な事情があるんだ。でも、何も教えないのは悪いから」

 そこで言葉が切れる。

 固唾を飲んで、次の言葉を待った。

「わたし自身のことを、すこし話すね。えっと、わたしは、シンデレラが好き、って、それは知ってるか」

「ええ、まあ」

「できることなら、彼女のようになりたい。それから、甘いものも好きだよ。本も好き。普段は寝てるか、本を読んでるか。あとは大抵、お散歩してるかな」

 そこまで言って、彼女は突然黙り込む。それから顎を引いて、嘲笑わらった。それはひどく哀しげな微笑だった。

「ああ、わたし、話すことが無いんだ」

「え?」

「なんでもない。ねえ、凛くんは、シンデレラに必要なものって何だと思う?」

 シンデレラに必要なもの。求められている答が分からないので、ひとまずは愚直に受け止める。

「ガラスの靴、かな?」

「王道だね。でもガラスの靴ってさ、よく考えてみると怖くない?あれって割れたりしないのかな?」

 ヒナさんが真剣な横顔で言ったものだから、思わず噴き出してしまう。

「そこですか?」

「だって、危ないじゃない」

 確かにその通りだ。それにしても、分かりやすいアイテムだと思う。どうしてガラスの靴なんだろう。どこまでも良く出来上がったヒロインである。

「だから、落っことしちゃったんですかね?」

「かもね。でも、あれは確信犯だよね。慌てて靴が脱げたのも気にせずに帰るなんて」

「確かに。裸足で走るにしても、拾って行きそうなものですよね」

「それも現代人の感覚なのかな。でも、きっとわざとだと思う。彼女は悪くないから、確信犯なんておかしいけどね」

 シンデレラは、わざと靴を落として行った。それは新鮮で、なかなか愉快な発想だ。もしそうだとするならば、彼女は、誰かに気づいて欲しかったということになる。

 つまり、助けを求めていた。

「シンデレラは、救われたかったんでしょうか?」

「もちろん。王子様が気づいてくれることを知っていたのかもしれない」

「なんか、そう聞くと悪人みたいです」

「でも、彼女は悲劇のヒロインだよ?」

「…そうですね」

 シンデレラが計算高く利己的な女性だとしても、それは彼女の本質を揺るがすものではない。なのに僕は、彼女を初めから清廉潔白なものだと決めつけていた。そのイメージは、一体どこからやって来たのか。

 そもそもシンデレラだって、苦しみの中では人間らしい汚さを見せていたはずだ。

「どうしてヒナさんは、シンデレラに憧れてるんですか?」

「んー」

 彼女は唸り、そっぽを向いた。

「彼女は、とても幸せそうだから」

 ややあって返ってきたのは、シンプルな答だった。以前も似たようなことを言っていた。

「悲劇のヒロインなのに?」

「ええ。よく考えてみると、とても幸せなんだと思う」

 よく分からない。確かに最後には救われて、めでたしめでたしで終わるけれど、物語の前半部分、彼女は確実に不幸だった。

「それに、お姫様だしね」

 ヒナさんはからりと笑って言った。その表情に翳は無かった。

「わたしだって女の子だから」

「それは、そうですよね」

 その笑顔に胸を射抜かれ、やかましく暴れる心臓を鎮めようと、僕は密かに呼吸を深くした。彼女は僕のことなど何処吹く風で、雪みたいに白くてすべらかな脚をぱたぱたと動かした。

「あーあ、王子様が迎えに来てくれたらいいのに」

「それじゃ、シンデレラになりませんよ」

 少し声が上ずったのは気にしないことにした。

「だよねー」

 シンデレラは苦しい生活に耐え続け、ようやく王子様と踊ることができた。けれどその時でさえ、こちらから出向かなければならなかった。魔法の力を借りてまで、舞踏会へ行ったのだ。

 ただ、救いを求めて。

「…ねえ、凛くん」

 言いながら、仰向きに倒れる。ベッドが揺れた。

「次は君のことを教えて欲しいな」

 彼女は天井に向かって伸ばした腕を、自身の両脇へ投げ出した。僕は目を逸らして、言うべき何かを考える。

 面白いくらい、何も浮かんでこない。僕という人間の、どこを取り出せばいいのか分からない。

「僕は、空っぽなんです」

 言うに事欠いて、ぼそりと呟いた。ヒナさんは何も言わなかった。その沈黙が先を促しているのだと察して、腹をくくった。

 こんなことを話すつもりは、毛頭なかった。にも関わらず話す気になったのは、彼女の内に同族の気配を感じたからだ。

 きっと、誰かに理解されたがっている。あさましいことに。

「死のうと思っていました。もう一年以上、ずっとです」

 無個性な人間、それを良しとして十数年生きてきた結果、出来上がったもの。それが僕だった。無個性そのものが悪いのではない。問題は、あまりに生きる気力に乏しいことだった。

 客観視。それこそが毒だった。

 肺が凍ったかと思った、あの瞬間を境に、僕は自分の行動をどこかで客観的に見るようになった。それは、良いことでもあった。冷静さを失いにくく、大きな失敗はしなくなった。子供から、少しずつ大人になっていく段階で、得て然るべきものなのだろう。今ではなんとなく分かる。

 けれども同時に、あらゆるものが陳腐でつまらなくなった。心の底から笑うことが、極端に減った。自身の感情を相対的にしか評価できなくなった。

 そのうちに思うようになった。この先に、いったい何があるのだろうかと。

 一介の人間として生きて、もしかしたら結婚くらいはできるかもしれないけれど、その程度の人生、しかもそれを否定することは、人間を否定することだと分かっていた。

 それでも僕は、考えずにはいられなかった。

 その思想はやがて、僕の奥底に潜む劣等感と溶け合って、自殺願望へと変わった。

 人間を否定してはいけない。

 人間の中には素晴らしい才覚を持ち、偉大な業績を残せる者が、少なからず居るから。またあるいは、何らの才を持ち合わせずとも自身の幸福を追求し、幸せに生きている者が居るから。

 彼らは須らく、存在の美徳を示していた。善悪とか倫理道徳とか、哲学よりもずっと前に認めるべきものを。

 生きていることは、つまり存在していることである。明日、僕が死ねばそれで終わりだ。意識の喪失は、総ての喪失なのだ。だからこそ、存在はただそれだけで美しい。

 生きていることが一で、死んでいることが零だ。零には、あくまで個人としてしか生きられぬ人間にとって、何らの価値もない。

 だから、その美徳を認められない自分こそが悪、もとい出来損ないなのだと、そう考えるようになった。自己憐憫が手伝って、その思想はすっと僕に馴染んでいった。

 悪いのは僕だ。

「生きていけないんです。どうにも不器用で、それを補う気概も無くて」

「…それで、どうして踏みとどまったの?」

 ヒナさんの声は変わらなかった。彼女のほうを見ないままで答える。

「単純に死ねなかったからです。怖いじゃないですか」

「…そうだね」

「僕はきっと、変わらなくてはならなかった」

 死ねばよかったのだ。思って、簡単にそうしてしまえたら楽だった。

 何度も死ぬことを考えて、自分の動物らしさに呆れた。肉体的に健康で、廃人には至らぬ人間にとって、自殺は至難の業だ。いくら覚悟を決めても、胸の内にぽっかりと空いた穴が気になってしまって、踏み切ることができなかった。

 哀しかったのだと思う。醜い自己憐憫だと笑いたくば笑え。何者にも成れず、ただ外れ者として消えていくだけの命は、客観視するとこの上なく虚しく、哀しい。

 だから、変わらなくてはならなかった。それは徹底した自己否定に他ならない。それほどに、僕の自殺願望は深いところから滲み出していた。

「そんな時、ヒナさんに出会いました。自分でもわけが分からないくらい、惹かれました」

 先ほどまでの緊張はどこへやら、僕は淀みなく話した。まずいと思ったけれど、いまさら訂正する気にもなれなかった。

 思えば、僕が彼女に話しかけたのは、あれは、最後の抵抗だったのかもしれない。人格の檻を破壊するための、第一歩だったのかもしれない。

「どうして、わたしなんかに?」

「それは、僕にも分かりません。だからあの時、ヒナさんを見つめていたのも、ほとんど無意識というか、つよい衝動からでした」

 美しいと思った。今でもそう思う。彼女の外見は、僕を魅了してやまない。

 だが、彼女に惹かれる理由は、それだけだろうか。初対面の時にはそうだったのかもしれないが、今は、本当にそれだけなんだろうか。とにかく分かること、それは、彼女が美しいということだ。

「綺麗だと、思いました」

 その一言で目が醒めて、顔が火照った。下手な告白だ。

 ヒナさんはくすくすと笑って、おもむろに起き上がる。

「ありがとう」

「あ、い、いえ」

「今でも死にたいと思う?」

 ようやくヒナさんのほうを見た。彼女の大きな瞳は、どこまでも透明だった。

 言葉を探している。その瞳から目を逸らせぬまま、本心ばかりが炙り出されていく。

「…思います。でも、ヒナさんが一緒に居てくれるなら、もう少し、生きていようと思えます」

 答えると、彼女はにわかに笑んだ。顔をくしゃっとさせたような、初めて見る種類の笑顔だった。

「女の子に、簡単にそんなこと言っちゃいけないよ?」

「ご、ごめんなさい」

 彼女は右手を櫛にしながら、しばらく黙った。今まで聞こえもしなかった秒針が、不意に鳴った。

「おもしろい人だね、君は」

「あ、ありがとうございます」

「次は、いつ会える?」

 心臓が思い出したように大きく鳴る。

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