第180話

 ジャパンカップの本馬場入場。返し馬は騎手にとって、騎乗馬の様子を観察できる最後の機会だ。18頭の選び抜かれた精鋭たちが1号馬から続々とターフの上に歩みを進める。

『良く晴れているわね』

 ジャンヌ・ルシェリットが見上げる府中の空、天気は快晴。去年は雨が降った後で馬場も重かった。ベイカーランに有利な馬場だったが、今年はパンパンとは言わずも良馬場なのは疑いようもない。

『アメリカの芝にも適応していたこの子なら・・・』

 アスタロトはアメリカにいたころからダートGⅠの常連ではあったが、その合間に出ていた芝重賞で5勝を挙げた。通常、日本の芝はアメリカや香港、ドバイのそれに近いとされる。GⅠの冠を獲たのはヨーロッパでの話だが、種牡馬入りを考えると多様な馬場に対応できるのは魅力の1つになる。市場規模の大きな日本の馬場での対応力を示すため、やって来た。

『空が青い』

 その青さは果たして、彼女と相棒を祝福するものなのか?


 シヴァンシカ・セスはインド競馬が久しぶりに極東まで送り出した期待の星だ。彼女が跨がるマハトマも同じ。

 シヴァンシカは東京競馬場ほど整備された競馬場を見たことがなかった。ドバイはマハトマの調整チームには参加していたが、メイダン競馬場の中には入らなかった。

『世界にはこんなところがあるんだ・・・』

 調教で間借りした美浦トレセン。蛇口を捻れば飲み水が出る。馬に清潔で新鮮な水を浴びせても気が引けない。なんて恵まれているのか。こんな土地で競馬に携われるなんて、一生にもう一度あるかどうか。

『ちゃんと、示さなきゃ』

 来年も来たい。そのためには、マハトマの、インド馬の力を示してわからせる必要がある。

『そのためには・・・』

 視線の先にはアメリカのアスタロト―――


『こら、ロト!』

『へぁっ!?』

 数十m向こうにいると思っていた馬の、鼻面が目の前にあった。マハトマの首に噛みついている。

『こら!ごめんなさい!』

 馬上の女の子は馬を叱るやら、シヴァンシカに謝るやら忙しそうだ。

『気にしないで。この子はのんびり屋だから』

 慰めでもない事実だ。猫やら狸、狼すら馬房で一緒に寝ていた。レースではほとんど最後方から。

『ごめんなさい、最近は落ち着いてたのに』

 事実、アスタロトには咬み癖注意の飾りが付けられていない。

『いいのいいの。それより、楽しみましょうね?』

 この幸せな国で競馬ができる機会を、この少女を付け狙うことで獲なければ。自分が一番の若造だと思っていたシヴァンシカ。少し、良心が痛むのだった。

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