第158話

 火曜日から、霧生かなめは風間オーナーとの約束通り提供された、20頭近い所有馬に乗るためにいくつかの厩舎の調教に出張していた。2歳馬から6歳馬まで、いずれも勝ち負けまでは行ける見込みの、かなりの良馬質だ。

「今週は良いけど、来週は園田も呼ばれてるのよね」

 園田でも人気以上には走らせたことから、良い仕事をする騎手として評価されている。河野調教師からはビビッドバレンシアを重賞に出すから是非、と言われていた。JpnⅢ「兵庫ジュニアチャンピオン」はJRAと地方の交流重賞のため、立派な勲章だ。俄然やる気になるところだが。

 そんな皮算用を立てているかなめに、調教馬が不服を申し立てて暴れ出した。もっとこっちに集中しろということらしい。

「わ、ごめんごめん!暴れるな!」

 ギッタンバッタンと体を揺すって振り落とそうとしてくる相手に、馬上のかなめは為す術がない。落ち着くまで堪えるしかないかと思っていた。

「・・・?」

 かなり唐突にピタッと揺するのを止めた馬に、どうしたんだろうとかなめが顔を覗き込むと、その前に1人、女性騎手が立っている。

「暴れない、暴れない・・・」

 暴れている馬を暴れている傍から抑えるのは御蔵まきなの得意技だが、どうもまきなではない。

「ああ、かなめサン」

 馬の肩に手を置いていたのは昨日知り合ったばかりのフランス人ジョッキー、ジャンヌ・ルシェリットその人だった。普通、暴れている馬など危なくて近寄って良いものではないが、まきなと同じように彼女は宥められるらしい。

「ど、どうも・・・どうやったの?」

「話せば、わかります」

「そうなの・・・」

 馬乗りにとって至難の技たる技術をあっさり扱われ、劣等感で心折れそうになるかなめ。聞けば、ジャンヌは馬に触れて4,5年程度らしい。自分と変わらない。

「まあ、他の馬のこと考えてたら、へそ曲げられても仕方ないもんね」

「そうです」

 何を当たり前のことを、と言う顔をしている。

「うん、そうなんだけどね?こう、どうしても夢見心地でね・・・」

「ゆめ・・・こご・・・?」

「あ、わかんないか。なんて言うか、現実じゃない感じなんだよ」

「それは、危険です」

「うん、そうだけど・・・」

 ジャンヌは師匠の小室調教師に特に目をかけられて促成栽培された騎手だ。順調すぎて殊、馬事に関して挫折らしい挫折がない。かなめの気持ちなど一切わからない立場にいた。だから言えることもある。

「ちゃんと、馬を見る。見て、何を、言っているか。それが、勝利への、第一歩です」

 ユングフラウ・ドーベンがかなめを気にかけていることに理解を示したわけではないが、慕い尊敬する人が全力で戦いたいと願う相手だ。一般戦で躓かれても面白くない。彼女なりのアドバイスは、もっとしっかりしろと言う激励でもあった。

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