第3話

 シロイヒカリが亡くなる前に生んだラストクロップは、まきなが騎手として競馬界に身を投じた頃生まれた馬だった。競馬学校卒業から騎手デビューと忙しい中、実家に帰っては馬の出産を手伝っていたまきなも、その馬の出産に立ち会っていた。

 その時の様子を、彼女は後にこう語っている。

『まるで、満月が落ちてきたような感覚でした。その日は新月で、月なんてほとんど見えなかったのに。北極星がとにかく印象的な夜空に、流星が流れた時、陣痛が始まって。逆子だったんです。体の弱いシロイヒカリのことを考えたら、とねっこは殺してもよかった。でも、あの子の眼が、それを許してくれない。私があの母子の運命を握っていたんです。けど、ダメだった・・・』

 シロイヒカリは眼でまきなを制し、出産の介助を促したという。その眼はかのオグリキャップを連想させる強い意志が宿っていた。いつもの儚げで、病弱な小さい馬の眼ではない。その瞬間だけ、シロイヒカリは確かに名馬だった。四本の足で立ち続け、その後ろでまきなは必死に逆さに出た足を引っ張り続け、血まみれになるのも厭わず、出産の介助を続けた。

 そうして生まれたのは牡馬。桜牧場の方針にはそぐわぬ馬。そして、シロイヒカリは産褥死していた。しかし、かの馬は自らが世に出した仔馬を一目見て、非常に満足した眼をしていたという。

「ああ、満足したんだ、この子は」

 まきなは自らのしでかしたこと―――JRAにおいて重賞を制した馬すら輩出した大事な繁殖牝馬を自分の判断で死なせたことを一時だけ忘れ、生まれた仔馬が立ち上がるのを見守ろうとした。

 その時だった。

「お嬢!てぇへんだべ!当代が・・・」

 祖父の苛烈な芦毛狂いについて来てくれる、我慢強い牧夫の一人だ。彼はその中でも、とても落ち着いて祖父の評価も高い・・・

「哲三さん、どうしたの・・・?」

「・・・お嬢、これ」

 まきなは、滂沱の涙を流していた。哲三と呼ばれた牧夫は、自分が常に頭に巻いている手ぬぐいを差し出す。四十男の必死の抵抗、ハゲ隠しの大事な手ぬぐいだ。

「シロイヒカリ、頑張ったなあ。いいコッコだべ。生まれたてのくせに真っ白じゃねえか。こりゃあ、牡馬なら高く売れるべ」

「売っちゃダメ」

「え?」

「おじいちゃんの、最高傑作だよ」

 まきなは、手ぬぐいを哲三に投げ返して言った。


「私が乗るん。だから、売らんの」

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