day1

第2話 南条静乃

 記憶喪失でもないのに例の定型文が頭に浮かび上がる。

 ここはどこ、私はだれってね。

 まず、ここはどこという問いに対する答え。ただひたすら暗いから全くわからない。ただしどこかに寝かせられている、もしくは閉じ込められているのだけはわかる。足に力を入れているわけでもないのに竹串を刺された海老のようになっているからだ。

 いや、まあ少し気になったのだが、節足動物の足って何本あるのだろう。昆虫の足は六本、蜘蛛の足は八本、海老の足は――――わからん。意識して見たことなんてない。意識で思い出したのだが、私はどうやら生きているらしい。何でここにいるのかは全く覚えていないが、ここにいることだけは確かな事実である。


 とすると、私の上にあるこの暖かくてふわふわしたこの物体はなんだろう。鼻を近づけるとちょっぴり汗臭さを感じる。汗臭さ以外の匂いも混ざっていた気がするが、ここでは割愛させていただく。考えるうちに、これがバスタオルか布団かという究極の二択に体当たりしてしまう。どちらでも構わないが、個人的には毛布であってほしい。


 匂いからして、少なくとも私のものではない。実は私の汗がとても臭いという可能性も捨てきれないが、そうではない方にかけておこう。とすると、誰かが生活を営んでいる、もしくは営んでいたといった可能性が浮上してくる。であれば、誰かコミュニケーションがとれる人がいてもいいはずではないだろうか。


「誰かァ、誰かいませんかァ。」


 思っていたよりも大きな声が私の声帯から発せられる。残念ながら視界は全くきかない。普通であればそろそろ目が慣れてきてもおかしくない頃合いではあるが、全く光がない状態でそれを期待するのは野暮というものだろう。


 返事は、返ってこない。布団だと思われるそれに一粒の水滴が染み込んでいく。頬に残るのはそれが流れた跡だと思われる一筋の線だけ。


「だ、誰かいませんかァ。」


 途中でむせ込み、上手く声が出ない。腹の虫はまだまだ大丈夫そうだが、誰もいないという環境下で叫び続けることは空腹よりもずっと辛いことであった。


「わーわーぎゃーぎゃーやかましいワ。自分、ここがどこだかわーっててそれやっとるん? わかっててやってんならセーシンビョーイン行きや。」


 天井に光が灯される。光が反射し、私の瞳には中年の男性の像が結ばれる。


「南条さんの娘さんやろ、自分。名前、なんて言うんや。」


「南条?」


 初めて聞く音の響きであった。南条なんて名字を私は知らない。知らないから聞き返した。


「ちゃうわ。聞いてるんは下の名前。名字やないほう。」


 彼は似非関西弁で質問に質問を返してくる。そのイントネーションは関西弁に近いのだが、どこか標準語やら博多弁やらが混じった言葉は聞いていて飽きることはない。ただ、聞いていて楽しいというわけでもなかったが。本題の名前のほうだが、頭の中にヴェールがかかっているようで何故だか思い出すことができなかった。


「まァ、あんなことがあったら名前忘れることもあるやろ。」


 しばらくの沈黙の末に似非関西弁の人、エセ太さんは重い口を開いた。長いから勝手にあだ名をつけてしまった。私の中でそう呼ぶだけであって、恐らく本人には伝わらないであろう。


「アッ、あんなことってなんのことですか?」


「あれはあれやろ。」


 さっぱりわからん。てんでわからん。いっちょんわからん。頭の中を飛び交うクエスチョンマークの数が臨界を迎える。増えることはあっても減ることは無いもの、それは疑問なのではないだろうか。いや、そうにちがいない。


 沈黙はそのまま答えとして受け取られた。ただし、それに対する答えもまた沈黙であったが。


「あんなことがあった後に言うのもアレやけど、飯にせェへんか?」


 すでにどこの方言か全くわからない。むしろエセ太さん自身にすらわかっていないという線も捨てきれない。だが、それに突っ込みを入れてくれる人はここにはいない。


「夕飯、ですか?」


「何いってんねん、自分、時間の感覚までくるってもうたんか?」


 確かに言えることとして、ここのカーテンはしまっていて、この部屋は電気をつけるまで真っ暗だったこと、外からうめき声が聞こえることと……アレっ、うめき声?


 窓の方に向かっていく私の膝は、なぜだかひどく笑っているようだった。その正体を知りたい私と、それを止めようとする私がまるでそこで戦っているようでもあった。


 カーテンの下半分は何者かによって切り裂かれており、そこから覗いている色は夜の闇であろう。思いきってそれをバサリと開ける。銃撃を受けた後のようなヒビが、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、あァ、もう数えるのが面倒になってきた。むしろ、そのガラスにヒビが入っていないところなどなく、数えること自体が無意味なことなのであるが。


 夜の帳はおりてはいなかった。ただ無骨なシャッターがおりているだけであった。所々別の素材――薄いベニヤ板――が貼られていること以外はごく普通のシャッターであった。


「開けても、いいですか?」


 今すぐにでも日の光を一身に浴びたい。当たり前だが、私は普通の人間でしかない。当然の如く植物ではなく、体内にクロロフィルを保有しているわけではないから光合成なんてできっこない。だとしても、いやだからこそ太陽が発する紫外線、可視光線、赤外線のすべてを浴びていたい。


「おまっ、死にたいん?」


「えっ、なんのことですか?」


「えっ、なんのことですか、じゃないワ、外がどうなっとるかわーっててゆうとるんか?」


 外が、どうなってるかって?

 目覚めたばかりの私が知っているはずがない。


「あの、もし良ければ、教えていただけませんか?」


 エセ太さんは迷っているように天井を見る。もちろんその仕草に既視感などなく、ただ私を困らせるだけであった。


「猫や。ここは猫に支配されたんや。仲間もかなり死んだ。ある奴はあいつらの罠にかかって、またある奴はなぶり殺しにされたなァ。」


 猫による支配、当然だが想像することは出来ない。だが、シャッターに向かう手は自然と止まっていた。正確には止まってはおらず、小刻みに震えていた。


「そろそろ飯にせんか?」


 エセ太さんに気を遣わせてしまった。だが、そのお陰で指先の震えは止まっていた。

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