ノートルダムの奇跡


 神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。 ―― アヴェ・マリアの一節



 

 2019年4月15日、ノートルダム大聖堂が炎上、決死の消火作業で翌日には鎮火したものの、聖堂はほぼ全焼し、かつて荘厳華麗を誇った伽藍の跡地には黒く煤けた残骸だけが残った。

 当時、大聖堂が焼け落ちる様子を多くのフランス人が固唾をのんで見守り、そのあまりにも凶暴で残酷な劫火の勢いを前にして信徒たちは己の無力さに涙した。当時のことを知る人など今は残ってはいないが、残された映像や資料の豊富さがいかにそれが衝撃的な事件であったのかをうかがわせる。

 夕景の中で燃え盛る大聖堂、濛濛とした煙が天へと昇っていき、尖塔が崩れ落ちていく。多くの人が祈りを捧げる暗闇の中心で、煌々とした光の中を巨大な建物が崩れ落ちていくさまは、まるで聖人が昇天していくさまを見ているかのようだ。それはとても美しく、世の儚さを偲ばせる光景であった。

 それがまるで一つの奇跡であるかのように、人々は熱に浮かされ、再建のために集められた寄付金は予想を上回る額にのぼった。

 だが、得てして多くの奇跡が一時的な熱狂として終わってしまうのと同じように、この悲劇に対する大きな衝撃と深い悲しみもまた様々な諸問題の中に埋没していくこととなる。

 寺院焼亡後すぐに再建計画が進められ、基礎的な部分は迅速に着工されたものの、当時のフランスで発生していた大規模な暴動、それに続く欧州国家の混乱、さらにはいくつかの国を巻き込んだ数々の紛争がその順調な進行を妨げた。政権が変わるごとに再建計画は練りなおされ、多くの元首が再建を誓ったものの、現在に至るまでノートルダム大聖堂は廃墟のままである。


 だが、小国の国家予算を遥かに上回る膨大な寄付金の力は完全な停滞を許してはおかなかった。有象無象の大企業から奇々怪々たる新興企業、正体不明の研究機関に無知蒙昧たる有志団体。様々な人間やシステムがその巨大な力に吸い寄せられていった。

 実際の再建が上手く進まぬ中で、比較的スムーズに進行したのがデジタルアーカイブと再建の計画のシミュレーションだった。少なくともデジタル上ではノートルダム寺院はほぼ完全に再建された。だが、唯一のスムーズな金の流れはそれだけで止まることはなかった。


「鐘の音が聞こえます。荘厳な響き、とかいった簡単な表現ではとても言い表せません」

 映像の中で、男は言う。

「聖なる場所、本当にここは聖なるものに満ち満ちています」

 現在でも完全に再現されたノートルダム寺院をVR上で体験する事は可能だ。実際の建築物が未だ再建されていないが、VR空間の中では完全なノートルダム寺院を体感することができる。もちろんそれは映像だけという事ではない。音や壁の触感だけにとどまらず、匂いや空気、果てはそこで生じるとされる感情までもを味わうことができるのだ。味も再現されているというが、壁を舐めてみたという話はあまり聞いたことがない。

 デジタルノートルダム。

 データ、そして仮想空間の中に蘇ったノートルダム大聖堂である。

 だが、映像の男はVR空間の中にいるわけではない。ヘッドセットやチャンバーの設備はないし、この映像の当時はBMI技術が現在ほど進展していない。進展するのは、この直後の時代である。

 つまりこれは、ノートルダム症候群の患者の映像である。

 

 ノートルダム症候群。ノートルダム大聖堂の建造物や音、触感、そしてそれに付随する感傷を幻覚してしまう症状を共通する一連の症候群である。つまり、先ほどの映像の男性はVR上のノートルダム大聖堂を見ているわけではなく、脳の中で惹起された幻覚の中でノートルダムの鐘の音を聞き、その場の聖性に感じ入っているわけである。

 この病の厄介な所は、その信仰や信念とは全く関係なしに、ノートルダム寺院を聖なる場所と認め、その聖性に圧倒される点にある。それはナノマシンによって形成された神経ネットワークおよび良性腫瘍が原因だと理解はしていても、その神秘を感じている最中にはそれを否定することなどできないのだ。

 この症候群が発生した原因は、ある種の偶然の重なりであり、一種の奇跡が起こったのではなかろうかとすらみる宗教家もいるほどだ。この神の御業の発端は第五期のノートルダム再建計画の再に行われた実験的な再建作業にある。当時の世界的企業の子会社で建築用超小型自律機械を研究開発するベンチャーがその試作機を開発することに成功した。現在のナノマシン、マイクロマシンの先祖に当たる機械である。ビルや住宅の一部区画を建造できるだけの能力をもったその機械を世界に喧伝する機会として、ノートルダム大聖堂修復への参加であった。

 結果としては他の再建作業との競合などを起こし失敗となった。この機械はドレクスラー型アセンブラマシンともいうべきもので自己複製機能を有し、一時は大聖堂を覆うほどに増殖、当時はあわや人類滅亡の始まりかと騒がれたほどである。増殖したマシンは徹底的に「駆除」されたが、再建計画は他の要因も重なって頓挫、ベンチャー企業は自社の製品の喧伝どころか、マイクロマシン技術への不安感を煽り、その研究分野を停滞させるという散々な結果と相成った。

 このマシンの暴走の原因の一つとして、着々と完全再現に近づいていたデジタルノートルダムの担当区画以外のデータも取得していたことがあげられている。

 失敗の原因だったにもかかわらず、そのデータ取得機能は、失敗の原因だったにも関わらず、その後の後継機たちにも引き継がれていった。

 そして、医療用ナノマシンにまで、それは引き継がれたのである。

 さらに事態を悪化させたのが、エルサレム症候群の場に由来する一連の精神症状や側頭葉てんかんによる神秘体験の研究成果の応用技術をデジタルノートルダムにも試験的に採用する動きである。技術的側面や倫理的側面(当時の宗教はまだ無視できないほどの勢力だった)によって技術開発は頓挫したものの、その基本技術はオープンアクセスな状態で現在も保管されている。

 

 ドレクスラータイプナノマシンの暴走が起こった当時のことを記憶しているものは少ない。現代の最年長者群でもほとんどその頃幼児だったからだ。いくつかの医療事故と無意味な建造がなされて事態は収束したものの、現代でも未だ完全な「駆除」には至っていない。とはいえ現代に生き残った「野良ナノマシン」は無害か、ほとんど無害な代物で、何らかの病気が発症しても根治可能なものばかりである。

 そんなナノマシンの暴走により発生した病の一つに、ノートルダム症候群はある。症状は上でもふれたように、ノートルダム大寺院の幻覚を見る。それは突発的であり、規則性はみられない。まるで本当にノートルダム大聖堂を外から眺めている、あるいはその内部にいるような幻覚や感覚であり、その体験は強い現実感を伴っている。あまりにもリアルであるために、それが現実でない幻覚と理解していても、その理解が揺らぐほどである。さらに、神秘体験に近い聖性をその光景に感じ入ってしまう。これは先ほど述べた開発段階だった神秘体験技術によるものである。ナノマシンが脳の中に特異な神経パターンと良性腫瘍を作り出し、都度デジタルノートルダムにアクセスしてランダムに幻覚を見せる。致死的な害はないが、患者はその幻覚に悩まされることになる。

 治療法が開発されるまでそれほど時間はかからなかったが、その独特な症状や患者たちが各地にノートルダム寺院の建造を試みた事件など他のナノマシン疾病に比較して特異な部分が多いことからから現在でも比較的有名なナノマシン疾病となってる。

 

 現在では疾患としては取るに足らない偶発的な存在でしかないが、根絶には至っていない。それどころか、ここ火星においてはまたしても特異な亜種ともいうべき存在を生み出した。

 火星ザリガニは火星の環境に適応するように開発された食料種であるが、その一部が火星の養殖場から脱走、用水路や湿地などに住み着くようになった生物である。火星米を代表する農作物への被害の問題はさておいて、野生化した火星ザリガニの一部の個体群は本来持っていなかったはずの特異な習性を見せ始めている。石などの鉱物や植物、さらには人間の廃棄物を作って何らかの建築行為をするようになったのだ。初めそれは巣と思われていたが、火星ザリガニはその建築物に卵を産み付けることもなければ、異性へのアピールとして用いることもない。さらにそこに住み着くことすらしないのだ。多くの火星ザリガニは何かをきっかけにして、共同してその建築物の建造に励む。そして、徐々に出来上がっていく、歪なそれにまるで祈りを捧げるように、尾を高く上げて見せるのだ。

 最近になって、こうした行動を見せる火星ザリガニたちは、ノートルダム症候群を誘発するナノマシンに感染していることが判明した。具体的なことは何もわかっていないが、この甲殻類たちはあのノートルダム寺院を再建しようとしているのではないかと噂されている。

 火星ザリガニたちは今、何かの宗教を見ようとしているのだろうか。人間たちが現在ではほとんど失ってしまった信仰というものを、このザリガニたちが引き継いでくれたという事だろうか。

 私はひそかに、人間が再建することのなかったノートルダム大聖堂が、ザリガニたちの手によって火星の大地にそびえ立つことを密かに楽しみにしている。




神のみはは わが望み 今もいつも 守り給え   ―― あめのきさきの一節


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