処方箋

「これは重大な決断ですから、次回までじっくり考えて来てください」

 そんな私の言葉に対して、彼女は少し微笑んだ気がする。

 もしかしたら、彼女の笑みを見るのは初めてかもしれない。彼女が笑うことはあるのだろうか、この数週間そんな疑念さえ浮かんだ。それほどまでに、彼女の表情はいつも暗かった。

「先生、それは前回にもおっしゃられました」

 そこまで言われて、はっとした。

 深くは考えず、慣れた定型句のつもりで吐いたセリフだった。

 無意識のうちに先延ばしにしようとしていたのかもしれない。

 彼女との時間、そして彼女自身の時間を。

 たとえそれが、彼女の苦痛を増すだけのことだとしても。


 不幸であるということがある種の病であるというのは、精神医学や脳科学の発展とともに認められてきた事実である。気分障害や不安障害は神経伝達物質の異常であり、認知療法や投薬治療の両面から様々な研究がなされてきた。それは同時に、限りなく主観的であった「不幸」が客観的に掘り起こされ、その不幸具合を客観的に評価することを可能にした。それまでははたから見れば幸せそうな人間でも、主観的には不幸である場合があった。それを神経伝達物質の増減や脳神経活性マッピング等の技術によりかなり客観的な評価ができるようになった。遺伝や環境によって身体的に獲得された、否応なしに訪れる不幸はほとんどのものが病気として診断できるものとなった。

 その一方で、主観的ではない不幸、いわば不運と呼ばれるような類のものも存在した。それは一種の確率論であり、統計的な側面を持つものである。だが、完全なランダムなわけではなく、誰しも平等なサイコロを振れるわけではない。金持ちの家庭に生まれればその後の人生の幸運度は高確率で大きい。生まれ持っての才能、能力、環境がその後の幸運を左右する。身もふたもない話だが、劣悪な環境に生まれ、遺伝的にも能力が高くない場合にはその後の人生がばら色になる可能性は低い。だが、思わぬ幸運が転がり込んでくる可能性がないわけではない。努力は実るとは限らないが、少なくともいくらか確率は上げる。とはいえ、その努力とて遺伝と環境に育まれる才能の一つなのだ。

 運というものを客観的に数値化、評価するすべなど存在しないと思われていた。だからこそ、目に見えての障害がない限り、人々は能力のないものを、実績の残せないものを簡単に切り捨てることができた。努力しなかったものが地獄へと転落していくことは当然のこととされた。

 この運という不可思議な存在を人間が扱えるようになる日が訪れるとは、誰も考えなかった。だが、それは訪れた。

 ただし、人間はその深淵を知る術はない。

 AIによって評価された数値と推移図が授けられ、人はただそれを鵜呑みにするのみである。


 AIの技術が飛躍的に発展したのはAIのおかげだった。限界に達しつつあった人間による産業をAIが代替できるようになった時点で、世界における生産性は飛躍的な増大を見せ、それがまたAIの発展に必要な計算リソースを拡大させた。

 いつの間にか、シンギュラリティはすでに起こっていた。人間はAIの原理、AIの提示する技術を理解するのが困難になっていった。それは今でも徐々に進行しているが、徐々にというのは見せかけだけで実際のAIは遥か遠くの地平に達してしまっているという見方もある。

 そんな人間が理解できない技術の一つにAIによる現在の幸福度、そして将来の幸福度の推移を測定する技術がある。


 AIによって受ける啓示をありがたく受け取るのは専門医だ。医師といってもほとんどの医療行為や診断がAIによってなされる現在ではエンジニアに近い職業である。専門的なパラメーターの操作と、最終的な診断を患者に告げる。最近では医師を置かずに、直接AIが診断を下すことも増えているようだが、AIに抵抗のある人間も多い。今のところは需要のある職業だ。

 不幸というものが病の一種であると認知されるようになった現代では、それに対する治療もまた医療行為とみなされる。適切な投薬とアドバイス、これによって不幸を取り除く治療行為を行う。不幸に対する処方箋を与えるのだ。

 たいていの場合は精神薬を処方することによって解決する場合が多いのだが、稀に改善しない場合がある。薬が効きにくい体質であるという場合もあるが、精神薬ではどうしようもないという場合もある。つまり、どうしようもなく不運なのだ。生まれてこの方、あるいはある時機からずっと不幸な出来事、不運な出来事にばかり遭遇する人間である。そういった人でも今後の人生でも不幸が続くとは限らないから、AIが授けてくれる推移図を見せて、今後の人生に訪れるであろう幸福、あるいは今よりもましになるかもしれないこと告げる。その見込みすら薄い予測データが算出された場合には、あるいは不運に見舞われても、主観的な不幸を抑える、あるいは主観的な幸福度を増やす薬を特例的に処方するのだ。

 だから、本当に不幸な人間は現代においてはほとんどいなくなっている。

 けれどもやはり、例外は存在する。


「先生、やっぱりお願いします」

 それは予測できた台詞であったし、当然の決断でもあった。

 心の準備はしていたつもりだったが、「わかりました」という言葉が喉につかえて出てこなかった。

 もう少し考えてみませんか?

 そんな言葉が代わりに出そうになるのを辛うじて堪える。

「わかりました」

 やっと、言葉が出た。言葉は出たが、わかったわけではなかった。受け入れられているわけではなかった。

「安楽死の処方箋を出しますので、手続きを進めてください」

 

 どうしようもなく不幸な人間というのは存在する。生まれてこなかったほうが良かったのではないかと思うほどに、生きていることに苦痛を感じてしまうような人間だ。ほとんどの精神症状が改善できる現代においても信仰や信念によって薬を拒否したり、体質的に効果が薄いという場合も稀に存在する。未来の不幸量をもとに算出した値が一定以上の場合、特別に処方されるのが安楽死だ。この制度に関しては当然反対の声も多かったが、世間のAIへの信頼が高まるにつれて次第に認められるようになっていった。なぜならそれは今後の人生が苦しみしかなく、改善する見込みもなく、努力は実らないのだ。不幸と苦痛しかない人生をずっと続けろというのは何の罪もないのに拷問を受け続けるようなものなのだから。

 もちろん、安楽死は本人が求めない限りは処方されない。それはある意味自殺の選択でもある。かつて自死というのはある種の賭けにも似ていた。自分の将来が不幸か否かを勘案し、不幸であるという方に命をかける。賭けに負ければ幸せな未来を失うが、賭けに勝てれば苦痛から逃れることができる。それが今や賭けではなくなっているのだ。結果が分かっているなら、死を選ぶものの方が多い。

 稀に家族のために生き続けることを望むものもいるが、たいていの場合は死を選ぶ。こういった不幸な人間というのは得てして、家族をも不幸に巻き込んでしまっている場合が多いからだ。倫理上患者に知らされることはないが、医者は患者が死を選ぶか否かによって周辺の人間の幸福量がどう変化するかも参考情報としてみることができる。何故その権限があるのかは不明だが、少なくともそれを見た医者は患者を生きるように説得することはしなくなる。

 主観的に死んだ方がよいという人間が認められた社会。

 そんな人間を生きたまま救済する方法は存在せず、AIによれば今後も存在しない。


 もしかしたら彼女の気が変わるかもしれない。そんな淡い期待は、自分勝手で無意味な妄想に過ぎない。

 もちろんAIの予測する可能性が覆る可能性はゼロではない。ゼロではないが、限りなくゼロに近い。

 明日突然、億万長者になっている可能性ぐらいはゼロに近い。

 彼女が生きている間に、新薬が開発される可能性も低いし、それが開発されるまでの時間を考えればその後の幸福の総量よりも苦痛の総量の方がはるかに大きい。

 彼女のために私が何かできることはないだろうかと、考えたこともあった。だが、、AIの出力は彼女に関わることによって私の幸福度も下がり、それどころか彼女がますます不幸になるという予測だった。

 結局、彼女は生きている限り苦痛がつきまとうのだ。

 死なない限り、不幸なのだ。

 きっと彼女は死ぬだろう。

 私が渡した処方箋によって。

 私は今不幸を噛みしめているが、少なくとも彼女は不幸に悩まされることはもうなくなる。

 苦しみから解放されるのだ。

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