奏真が何を考えているのか、全く分からなかった。冷たい表情をしたり、困ったり、笑ったり、急に涙を流したり。予想のつかないところで、予想のつかない反応をするから、私は一人置いていかれている気がして。聞きたいことがあるのに聞けないような。もっと知りたいと強く思うのに、怖くて声が出なくなる。

 いつの間にか、私の中で奏真の存在が大きくなっていた。ただ歌声を聴いていただけなのに。ほんの少し、一緒にいただけなのに。離れたくなくて、胸が苦しくなっていく。それは、名前をつけることができない、大切なもの。何かは分からないけれど、心のどこかがずっとそれを訴えかけてきている気がする。

「ピアノ、弾いてよ」

 私は、はっと顔を上げた。考えに没頭し過ぎていた。奏真はピアノ椅子に座って微笑んでいた。何故か、ここがアパートの一部屋だというのを忘れるくらいに絵になっていた。

「無理だよ。触れないもん」

 もしかしたら、と思いピアノに触れようとした私の手は、やっぱり違和感をともないながら鍵盤をすり抜けた。奏真は、どこかほっとした表情で、

「じゃあ、歌ってよ」

 と言った。え? と訊き返した時には、奏真はもうピアノを弾き始めていた。初めからそのつもりで座っていたみたいに。

「いや、無理だよ。私は奏真みたいには歌えない……」

 私は困って奏真に訴えるが、奏真は何も聞こえていないみたいにピアノを弾き続けていた。柔らかい旋律が、部屋に少しずつ流れ出し、何故だか温度を伴っているように私たちを包む。奏真とピアノは、本来あるべき形に戻ったようにしっくりしていて、私は何を言いたかったのかを忘れるほどに見入っていた。

 そして、気が付くと私は歌い出していた。最初は鼻歌のように、そこから少しずつ歌詞をつけて。その曲はどこか懐かしく、続きは何も考えなくても口から勝手に出てきた。

「そうそう!」

 奏真は嬉しそうに笑った。私も奏真に向けて笑った。ピアノの音色も笑っているように明るかった。夢中で演奏し続ける奏真の音に合わせて、私はただ歌い続けた。

「未練があったのは、僕のほうかもしれない」

 近くにいるはずなのにどこか遠くで、奏真が呟いた。だけど私は歌うことをやめなかった。いや、奏真のピアノの旋律が心地良すぎてとめられなかった。奏真も私が歌い続けることを願っている気がした。私たちは音楽という柔らかく暖かい光に照らされた場所で、ふわふわと空を漂っているような気分だった。

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