その晩、私は放心状態だった。隣の部屋から歌声は聞こえない。前までは、ほとんど途切れることなく響いていたのに。私は、あの歌を聴くためにここにいたようなものだったから、歌が聞こえない日は全てを失ったような空虚感にさいなまれる。

 奏真の涙が気になっていた。彼はガラス細工のような雰囲気をまとっていたから、私はその繊細な彼の心を砕いてしまったようで、とても辛い。死んで成仏できない私が可哀想になって涙を流したのだろう。赤の他人の私のために。きっと彼は、とても優しいから。

 奏真のことを考えると、私はじっと座っていられなくなった。奏真のことが心配というのもあったし、もう私のところに来てくれないかもしれないと思うと不安だった。あの声が聞けないことも嫌だった。

 私は立ち上がって玄関へ行った。扉をすり抜ける時、ずずず、と嫌な感触が全身に鳥肌をたたせた。するりと抜けられるものだと思っていたから、気持ちが悪かった。今まで、何かに触れようとした時には何も感じなかったのに。

 だけど、そんなことを考えるのは後回しで、奏真に会うのが先だった。私はニ〇ニ号室の前に立った。だけど、中に入るのは躊躇ためらわれた。死人の部屋に誰かが入るのはともかく、生きている人の部屋に死人が入ってきたら嫌だろうから。扉を通り抜けて入ることは可能だろうけど。

 それに、なんとなく彼は部屋にはいない気がした。それは、中から歌声が聞こえないというだけで、何の根拠もないけれど、確信に近いものがあった。だから私は、階段を下りることにした。

「出ないで、って言ったのに」

 階段を下りた時、声がした。ぎょっとして階下を見ると、階段を折り返した先に、奏真が壁にもたれかかって立っていた。呆れたような視線が私の胸に突き刺さる。

「もう、しょうがないなあ」

 奏真は一つ息を吐いて、困ったように微笑んだ。私は何と言うことも出来ずに、奏真の顔を見ていた。

「な、何で外に出たら駄目なの?」

 やっと喉の奥から出てきた言葉は震えていて、私はぎゅっと下唇を噛んで俯いた。それ以上口を開くと何かが溢れてきそうだったし、続けられるような言葉を持ち合わせていないというのもあった。

 奏真が動く気配がしたから、私は顔を上げた。数秒間、奏真は何か言いたげな瞳で私を見ていたが、すっと目を逸らした。そして、階段を上がってきた。私は緊張したけれど、奏真は私の横をすっと通りすぎていく。追いかけていいのか分からず、その場に立ち竦んだ。奏真との間に大きな隔たりが出来たような気がして。離れていく背中を見ていることしかできなかった。

「そんなところに立ったままで、どうするの」

 奏真が振り返って、少し笑って手招きした。私は、おずおずと奏真の後ろについた。階段を上り、奏真は当たり前のように私の部屋に入っていった。私も後に続いた。

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