それから数日間、彼は私の部屋を訪れなかった。大家は、ピアノを一人では持ち出せないと思ったのか、中年の男女を連れて何度か来ていた。しかし、ピアノは扉につっかえて持ち出すことは出来ず、大家は溜息を吐き、男女は困ったように首を傾げて帰っていった。扉より大きいピアノは、初めどうやってこの部屋に入れられたのだろう、と私は不思議に思った。とにかく、ピアノは今も私の目の前にある。

 どうせ埃をかぶるだけなら早く誰かが持ち出してくれればいいと思っていた。けれど今は、彼にもらって欲しいと思う。彼は、とても優しくピアノに触れていたから。もちろんそれは気のせいかもしれない。彼はおそらく、金が欲しいだけのただの泥棒なのだ。傷をつけると高く売れないからそっと触っただけなのかもしれない。それでも私は、ピアノを大切にする人は好きだ。多分、私自身、ピアノがとても好きだったのだろうと思う。

 私は、久しぶりに立ち上がった。数日ぶりに立ったとはいえ、身体に負担がかかることはない。今は背後の壁から歌声も聞こえず、部屋は静かだ。遠くでカラスが鳴いている。

 私はピアノの前に立った。しばらく触っていないピアノは、薄くほこりに覆われていて、誰かが触れた部分だけ指のあとがいたずらのように残っていた。

 ピアノの腕は落ちているだろうが、まだ弾けると思う。頭の中に音楽が流れて、自然と指が動く。壁際に座っている時もふと気が付くと、指が勝手に動いていることがある。何の曲を弾いているのか、自分でもわからないけれど。

 蓋を開けようとして、私はピアノに触れられないということに気付いた。鍵盤けんばんを押すことももう出来ないということを、今更思い知った。なんだか馬鹿馬鹿しくなって、私は壁際に戻った。あの歌声も今は聞こえない。しん、と静まり返った中にいると、一人虚空を彷徨さまよっているような、頼りない気持ちになった。

 コンコン。

 その音で私は現実に戻された。誰かが扉をノックしているらしい。私が死んでから、一番の不思議かもしれない。誰もいない部屋に訪れて、インターフォンがあるにも関わらずノックをしている人がいるなんて。

 コンコン。

 もう一度軽い音が響いた。鍵は開いたままだというのに、入ってくる気配がない。私は立ち上がり、扉のほうに近づいた。しかし、ノブに触れることが出来ないから、その誰かを招きいれることもできない。ノックは一定間隔をおいて続く。諦めて帰る気配はない。誰かがいることを確信しているかのようだ。

 私は玄関に立って、困惑した。開けてあげたいのはやまやまだが、どうすることも出来ない。

「開いていますよ」

 扉に向かって小さく呟いた。しかし、外にいる人物は扉を開けようとはしない。当たり前か。

「どうぞ入ってください」

 今度は少し声を大きくした。とは言っても、私の基準でしかないが。

 ノックが止んだ。少し間を置いて、ノブがゆっくりと下がっていった。動いていないはずの鼓動が早くなった気がした。開いた扉の向こうに、この前の青年が微笑を浮かべて立っていた。彼の目は確かに私の姿を捉えていた。

「開けてよかったんだね」

 彼は、握手を求めるように自然に手を差し出した。

「僕は奏真そうま。二〇二号室――ここの隣に住んでいる。この間は挨拶もなしに勝手に部屋に上がってごめんね」

 私が驚いているのが悔しいくらいに彼が落ち着いていたから、私も握手に応じようと手を出した。しかし私の手は、彼の手をするりと通り抜けた。彼は何事もなかったかのように手を下げたから、私もそれにならって手を下ろした。

「私のことが見えるの?」

「うん」

「この前も、見えてた?」

「うん」

「なんだ……それじゃあ、声を掛けてくれれば良かったのに」

 身体に力が入っていたわけはないが、緊張がほぐれたような気持ちがした。久しぶりの『会話』に、驚きよりも喜びが勝っていた。

「とりあえず中へどうぞ」

「失礼します」

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