第102話 器(うつわ)①

◆器(うつわ)


 窓の向こう・・老婆たちの数が増えている。若い人間はいない。

 僕は窓と反対の玄関のドアの方を見た。物音はしていない。ドア側から逃げれば何とかなりそうだ。

 そんな脱出方法を考えている時、

 伊澄瑠璃子は、僕たちの心を呼び戻すようにこう言った。

「けれど・・レミ姉さんを完全な体にする為には、足りないものがあるのよ」

 足りないもの?

 いや、今はそんなことよりもここから脱出しないとダメだ。

 僕は「神城、君島さん、ドアの方から出るぞ!」と声をかけた。

 だが、僕の慌てぶりに比して、落ち着いている君島さんが、「足りないものって、何なのよ!」と強く訊いた。

 伊澄瑠璃子は君島さんの強い問いに答えた。

「それは・・器よ」

 うつわ?

「レミ姉さんを入れる美しい体が、欲しかったの」

「あれ」が大きくなるだけではダメなのか。姉のレミを完全体にするためには、その肉体を覆うものが必要になるのか。

 伊澄瑠璃子は話を続けた。

「最初は、さきほどのサヤカさんでもいいかと思っていたのよ。けれど、あの女の体は美しくなかったわねえ」

 僕はサヤカさんの元の体を見ていないから想像もできない。

 だったら、誰の体ならいいと言うのだ?

 その疑問に答えるように伊澄瑠璃子はこう言った。

「でも私は、ついにレミ姉さんの体に相応しい美しい人間を見つけたのよ」

 そう大きく言って意味ありげに微笑んだ。その対象の人間を見つけたことで満足気な表情だった。

 伊澄レミを入れるのに相応しい美しい体・・


その言葉が最後だった。

 話の続きを聞く間もなく、僕は神城に「行くぞ!」と再度号令をかけ、ドアに突進した。

 ドアの外には、老人たちはいなかったが、窓の外にいた老婆たちがこちら側に回ってきた。老人達は動きが速いが、僕と君島さんも負けずと速い。

 だが、問題は神城だ。神城は普通の人間だ。僕たちについていけない。

 僕が神城の手を引くと、その分、遅くなる。

「世話が焼けるわね」

 そう言ったのは君島さんだ。

 君島さんは、神城の手をグイと引き「しっかり私に掴まってなさいよ!」と発破をかけた。

 吸血人化している君島さんの俊足とパワーには目を見張るものがある。「きゃっ」と叫んだ神城の声を無視し、その手を引いたまま飛ぶように駆け出した。

 向こうも負けてはいない。それまでたむろしていた老人たちが立ち上がり、向かってきた。今までは、伊澄瑠璃子が抑え込んでいたのだろう。

 老人たちの中には、口から「あれ」がはみ出ている者が何人かいる。「おごっ」「あがっ」と意味不明の言葉を発しながら、追いかけてくる。

 神城が「この人達、最初から、こうだったの?」と訊いた。

「きっと伊澄さんが抑え込んでいたんだよ」その力には限界があるのかもしれない。要するに時間切れだ。

 そう言っている間に、平屋集落の出口まで来た。

 外は車の往来があるし、更にその先は通学路で、人通りも多い。助けを呼ぶことも可能だ。

 いくら足の速い吸血人でも所詮は老人だ。こっちの方に分があった。


 だが、集落を出ようと走り出した瞬間、

「いやああっ」

 その声の方を見ると、地面を這っている老婆が神城の足を掴んでいた。老婆の口から涎が溢れ出している。血を吸うことの興奮が全身に溢れんばかりだ。

 だが、神城の血は吸わせはしない。

「神城っ、そのままじっとしてろっ」

 僕は駆けより、老婆の腕を引き離そうとするよりも先に、

「本当に世話が焼けるんだからっ」

 と、君島さんが老婆の腕を蹴散らすように、強い蹴りを入れた。

 老婆の腕が離れる瞬間、「ごきっ」と鈍い音がした。多分、どこかの骨が折れたのだろう。簡単に折れるみたいだ。

 老婆が腕を抱えながら、うずくまった。君島さん、すごい。

 その様子を見た神城が、「あのお婆さん、大丈夫なの?」と訊いた。

「そんなことを気にするより、自分のことを気にしなさいよ!」君島律子がそう律した。

「ええっ、君島さん、でもあの人達、まだ人間よ。さっきの渡辺さんの妹のような状態じゃないわ」

 神城の言いたいことは十分わかる。

 けれど、神城があの老婆に血を吸われていたりしたら、そんな気持ちはどこかに吹っ飛ぶだろう。

 そんな神城に「現実を直視しろ」と言わんばかりに、前方を吸血鬼化した老人たちが立ち塞がる。

 二人の老婆が、集落の入り口付近で待ち伏せている。まるで死霊のような動きで向かってくる。その口から「あれ」がはみ出ているのが見える。

「神城、あんな婆さんたちに、人間としての意志があるように見えるか?」

 神城はその言葉には応えず、「でも、奈々があんな風になったら、私、どうしたらいいの?」と戸惑いの顔を見せた。

 そんな神城に君島さんはこう言った。

「神城さん、あの老婆の目を見なさいよ」

 見ると、向かってくる老婆の眼球が、その顔から零れ落ちようとしていた。正確には垂れ下がったまま、まだ落ちていないのだ。

 よく見ると、あのサヤカのように体のあちこちから液体が溢れ出ている。


 老婆たちは、かつて人間であった。

 しかし、この状態は、そこに意思があるのか、もはや理性が失われているのか、僕たちには判断のしようがない。

 だが、今の僕たちは、自分の命、そして、仲間の命を守る行動をしなければならない。


 だから、「神城・・」

 僕は目を伏せている神城に言った。「佐々木奈々の為にも、僕たちは戦わなくちゃいけないんだ」

 僕の言葉を聞いていた神城は静かに顔を上げた。

 そして、老婆の姿を見るや「ひっ」と声を上げ、その次の瞬間には、周囲に目を走らせた。そして、木材を積み上げている所へ駆け寄り、一本の手頃な大きさの角材を取り上げた。

 神城は、角材を木刀の素振りのように何度か振り、「おばあちゃん、ごめんなさい!」と念ずるように言った。

 そんな神城は、何かの覚悟を決めたように見えた。

 そして、僕と君島さんの前に進み出て、向かってきた老婆の肩を上から叩き潰すよう打ち込んだ。神城・・意外と力があるようだ。

 老婆は「んぐっ」と苦悶の声を上げたかと思うと、バランスを崩したように地面に突っ伏した。同時に、グチャッと何かが破裂するような音が聞こえた。倒れた老婆の周囲に異臭と液体が広がった。


「私、お婆さんを殺しちゃった・・」

 そう言った神城が後悔の念に襲われているのではないかと、その表情を伺ったが、なぜか「はあ、はあ」と息を荒げながらも、達成感に満ちているように見えた。

 君島さんが「神城さん、なかなかやるじゃない」と褒めた。

 すると、神城は「仕方ないじゃない」と返した。

 落ちつくのはまだ早い。


 神城が前方を見て「屑木くん、あの男に出口を塞がれているわよ」と言った。

 確かに平屋集落の門扉のような所に行く手を塞ぐように立っている男がいる。

 今度は、老人は老人でも、かなり背の高い大男だ。

 男は天を仰ぎ見、「んふおおおおっ」と狼のように吠えた。同時に口から泡のようなものを噴き出した。

 何やら怒り狂っているようだ。さっき倒れた老婆の知り合いだったのだろうか?

 この大男は、まだ人間としての理性や意志力があるようだ。その証拠に、さっきの老婆は視点が定まっていなかったが、この男は僕たちを睨みつけている。明らかに僕らに敵意を抱いている。

 更なる危険を感じた。

 神城が更に角材を拾い上げ「屑木くんも、これを使って!」と渡した。

 角材は意外と重い・・こんなものを神城は使ったのか。

「おい、神城、いいのか? あの男は、まだ人としての意思があるみたいだぞ」

 見た目だけで、理性があるかどうかの判別はできない。ただ、その様子が感情に訴えかけるかどうかだ。

「そうみたいね。でも、あの男、立ち塞がってて、退く気がなさそうだもの」

 神城の覚悟は本気のようだ。体が戦闘モードに変わったようだ。

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