第64話 それぞれの能力①

◆それぞれの能力


 その時、僕は理解した。

「あれ」を体内に入れられると、吸血鬼願望が抑えられると思っていた。

 伊澄瑠璃子も「楽になるわよ」と言っていた。

 だがそれは、違う・・

 血を吸うことをためらわなくなってしまうのだ。

 それが伊澄瑠璃子の言う「楽になる」という意味だ。

 つまり、倫理観・・頭の中のモラルが欠如してしまうのだ。体内に完全に血が無くなると、もはやそれは人間ではない。

 しかし、僕には、まだある。血もあるし、モラルもある。

 目の前の惨劇を防ぎたい・・

 そう思った瞬間、僕の目の前には、背中の曲がっていた中年男の背中があった。

 いつのまに?

 疑問の解消は後だ! それよりも、

 僕は中年の頭を掴んだ。男の首は柔らかく、

 そのまま頭がクルリとこちらを向いた。その目が飛び出たようにひん剥かれている。

 そして、口からは「あれ」がヌメリと飛び出て、それは女の口腔と繋がっている。

 女の瞳孔は見開かれ「あ・あ・」と意味不明の声を発している。何かを言おうにも口尾が開き切っていて何も言えないのだ。

 僕は男の頭を掴んだまま、女の口から引き剥がすように引き下げた。

 すると、男の首は後へと直角に曲がった。それでも骨が柔らかいのか平気なようだ。

 男が平気でも女の方はそうはいかない。女は苦しんでいる。男の頭を引っ張っても、「あれ」が伸びるだけで抜けないのだ。このままだと血を吸われ続けるだけだ。

 ウェイトレスの顔を見た。年の頃は、30代後半くらいだろうか?

 彼女もこんなことをされるためにここにいたのではない・・その目が僕に助けを求めている。

 そう思った時には、僕は一瞬であることを決断していた。

 僕は「あれ」を手で掴んだのだ。ニュルッとする感触と同時に、手の中をすり抜けるような感触があった。ヌルヌルするし、突起物がいたるところにあり、上手く掴めない。おまけに小さな手のような物があり、それが、女の口から出ることを拒んでいる。

 ああ・・誰かもう一人・・加勢があれば・・

 首の曲がった中年男の頭が徐々に持ち上げられていく。このままでは、僕が男に吹き飛ばされる。

 これで終わりか・・と思った時、

「こんなものを触るなんて、夢にも思いませんでしたわ」

 その声がした。君島律子だ。かつての高嶺の花の白く細い手が、「あれ」の手の部分を掴み、そして、引き離した。

 今だ!

 君島さんが「あれ」の手の動きを封じている間に、勢いよく女の口から「あれ」を引き抜いた。

 ずぼっと、変な音を立て、女の口から「あれ」を引き出すことに成功した。

 ウェイトレスは、「あはあっ」と大きく息を吐きながら、その場にへなへなとへたり込んんだ。

 男は、自分のやっていることが理解できていないのか、「何をやっているんだ。俺は?」という風な顔だ。だが、何かを語ろうにも、その口から「あれ」がはみ出ているので話すこともできない。

 この男、体育の大崎のようなタイプなのか? あの屋敷の男女のように、吸血鬼に成りきっていないのか?


 僕の横で君島さんが「やだぁ・・手がヌメヌメですわ」と言って、ハンカチを取り出し拭っている。

 その時、

 これで終わりだと思っていた男が再び行動を開始した。標的を変えたようだった。君島さんの肩をむんずと掴み込んだ。

「えっ」と君島さんの驚きの表情を見た時には、僕は再び男の頭を掴んだ。

 掴んだのはいいが、男の口から這い出ている「あれ」が君島さんの口腔めがけて伸び出した。

「いやああっ!」君島さんの叫び声が店内に響き渡った。

 僕は君島さんの叫ぶ声を聞きながら思った。

「あれ」が男を操っている・・

 男の意思とは無関係に、「あれ」は動いている。

 君島さんの眼前を「あれ」の先端部分が、ヌルッ、ヌルッと顔のように左右に動いている。

 その後、君島さんのとった行動には度肝を抜かされた。

 君島さんは「もうっ、気持ち悪いっ!」と言いながら、「あれ」を左右の手で掴んだのだ。

 掴んだまま、目の前から消し去るように、ぶんと投げ捨てた。

 だが、「あれ」は男の体を宿にしているので、結果的に男と共に、君島さんに吹き飛ばされることになった。

 君島さん、すごい力だ。

 そういうことか・・運動神経がよくなったのは、僕だけではなかった。それは君島さんも同じだった。そのことに一番驚いていたのは君島律子当人だった。

「え・・なに? 今の・・私がしたの?」自分の両手を見ながら驚いている。

 僕は「そうだよ。君島さんがしたんだ」と言った。「ありがとう」

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