第19話 旧ヘルマン邸二号館②

 雨も降っていないのに、首筋にポタリと水滴が落ちる。見上げると大きな樹木の葉から落ちてきたようだ。水滴は他の女の子にも落ちているのか「冷たい」とか「ひゃッ」という声が上がった。

 僕は声を上げなかったが、最も大きな声を上げた女の子が一人いた。

 それは、ここに来たことを最も後悔している人物・・

 伊澄瑠璃子の腰巾着の一人の白山あかねだった。

 まず最初、白山あかねは「ねえ、みどり、寒くない?」と言った。

 そう言われると、この辺りの温度が少し低いように感じられる。

 しかし、白山の「寒い」という言葉は、ただの寒いではなかった。

 その様子にいち早く気づいた腰巾着の片割れの黒崎みどりが。

「ちょっと、あかねっ、あんた、震えてない? もしかして、もう怖くなっているの?」と叱咤するように言った。

 僕たちはこの時点では「怖い」というよりも「きたない」ことの感覚が先立っていた。

 白山だけが、怖い・・そう思っているのだろうか?

「だ、大丈夫よ・・」白山あかねはそんな弱々しい声を出した。


 そう言えば、先日、黒崎と白山は口喧嘩をしていた。

 白山あかねに男友達が出来、黒崎みどりがそれを責め立てていた。

 片方に男が出来ることによって、二人の仲が壊れる・・そんな喧嘩に見えた。

 そう思っていると、

 最後尾の伊澄瑠璃子がこう言った。

「守るものがある人は・・怖くてしょうがないのね」

 それは、白山あかねの心情をあざ笑うような言い方だった。

 

 そういうことか・・

 何となくだが、伊澄瑠璃子の言葉の意味が理解できた。

 僕には彼女と呼べる女子はいない。おそらく神城や佐々木にも。

 だが、白山あかねは男とつき合い始めているらしい。よりによって、こんな日の前だ。

 白山あかねの頭の中は、いかに伊澄瑠璃子の付き添いとはいえ、こんな場所には来たくはなかったのだろう。それに彼氏ができたのだったら、そっちの予定が優先する。もし、こんなところで何かあったりしたら、彼氏に会えなくなる・・そんなことばかりを考えてしまうのかもしれない。


 伊澄瑠璃子に心を見透かされたような白山あかねは「大丈夫・・大丈夫」と自分に言い聞かせるように言葉を重ねた。

 いつも一緒にいる双子に見えた二人はどうやら、強気の黒崎みどりと弱気になっている怖がりの白山あかねに分かれてしまったようだ。


 茂みをかき分けて進むと、屋敷の玄関前に辿り着いた。

 神城は佐々木に「ねえ、奈々、このドアって、開くの?」と尋ねた。

 佐々木は「前に松村くんと来た時には、簡単に開きましたよ」と答えて、

「屑木くん・・ドアノブを回してください」と言った。

「僕かよ!」と思わず僕は大きな声を出した。

 佐々木は「男の子でしょ」と再度言った。

 佐々木に言われる通り、ドアノブを回すと、ドアはギイイッと軋む音を立てたが、簡単に開いた。鍵もかかっていない。

 こんな場所に学生が楽器を置いていたら盗まれるじゃないか、とも思う。

 

 伊澄瑠璃子のしもべの黒崎みどりが、「ここって、本当に大学生が出入りしているの?」と誰ともなしに言った。

 神城が「なんで?」と言った。「どうしてそんなことを訊くの?」という意味だろう。みんな言葉のセンテンスが短い。

「だって・・人が出入りしているわりには、ドアが汚いし、足元も人が大勢通った形跡はないわ」黒崎みどりはそう言った。

 確かに、ドアノブに触れた僕の手にはべったりと変な汚れが付いているし、靴もドロドロだ。足の踏み場も不安定だ。

 佐々木は「大学生が利用しているといってもほんの僅かな数の人達なんでしょね」と言った。

 怯えていると黒崎に指摘されている白山あかねは、「こんな所で逢引をする人なんて、頭がどうかしているわ」と言った。

 自分ならこんな野暮な所で彼氏と会わない・・そう言いたいのだろう。

 そう言った白山に黒崎みどりが、

「やっぱり、木田くんとつき合っているんでしょ」と個人的な話を持ち込む。

 そんな二人に委員長の神城が「ちょっと、今はそんな言い合いをしないでよ」と制した。

 

 そんな二人とは関係なく、ここに来たことのある佐々木奈々が「この廊下の先は、私は行ってないから、知らないんですよ」と言った。「だから、ここからは屑木くんが先頭になってくださいね」

 結局、僕が先頭か・・

 玄関口から細長い廊下に足を踏み入れると、ぎしいっと床が軋んだ。まさか床が抜けることはないだろうが、それを彷彿させる軋み方だ。

 どこからか差す明かりで、進む先と足元はほんのりと見えるが、それでも暗い。 白山あかねではないが、次第に怖くなってくる、

 僕の後ろで神城が「どうして、私、こんなところに行こうって屑木くんを誘ったのかなあ」と小さく言った。

「元々、松村の顔が気になって・・と言ってたじゃないか」と僕は軽く抗議した。 僕だってこんな所に自ら進んで来たくない。


 更にさっきからもっと怖がっている白山あかねが、

「わ、私、やっぱり、帰るわ」と言いだした。まだ中に入ったばかりだというのに。

 相方の黒崎みどりが「ちょっと、あかね・・私たち、伊澄さんの行くところには、どこでも行くって誓ったじゃないの!」と言った。

 こいつら、そんなことを言っていたのか。本当の腰巾着だな。

 すると、それまで黙って最後尾に徹していた伊澄瑠璃子が、

「私、別にあなたたちに来てくれとは頼んでいないわよ」

と冷たく言った。

「ごめんなさい、伊澄さん。あかねが帰るなんて言い出して・・」と黒崎が伊澄瑠璃子に丁寧に謝った。

「・・・」

 伊澄瑠璃子は無言だ。

 その顔を見ると、切れ長の瞳の奥が暗闇の中で光っているようにも見える。

 その不気味な顔が白山あかねに静かに向けられた。

「それで、白山あかねさん・・ここから一人で帰られるのかしら?」と伊澄瑠璃子は強く問うた。

 問われた白山あかねは、少し考えた後、ここから一人で戻ることはできないと判断したのか、

「い、行きます・・ついていきます」と弱く答えた。けっこう精神的に参っているように見えた。早くこんな所とはオサラバして、つき合い始めた彼氏に会いたいのだろう。

 佐々木が神城に「なんだか白山さん、可哀相ですね」と耳打ちした。

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