第237話 美術部部室②

 

 すると、ヒカルは顔を上げ、

「・・言わないでやってくれよな」と言った。

「何をだ?」

「沙希が教師に暴力を振るった、なんて思われたくないんだ」

 そういうことか。ヒカルが殴っても、それは、小清水さんの行為に思われても仕方ない。早川は小清水さんの多重人格のことまでは分からないだろう。


「僕が言わなくても、早川が言うかもしれない」

「あのスケベ男・・女に殴られたって言うのか? そりゃあないだろ」とヒカルは笑った。

「だが、方法を変えて、小清水さんに何かをするかもしれない」

 何をするか読めない男だ。だが・・

「ヒカル、僕に任せてくれ。あの男は何とかする」僕はそう言った。

 何ができるかわからない。だが、僕には透明化能力もあるし、青山先輩とその母親、青山麗華さんもいる。

 それよりも心配なのは・・

「小清水さん、憶えているんじゃないのか?」

 小清水さんが早川にキスされたと思っていたら、可哀相だ。そんなのやり切れない。

 もし本当にキスが初めてなのなら、ひどい話だ。


「なあ、鈴木、お願いだ。そんなことはなかった・・何もなかった。キスなんてされていない。そう言ってやってくれないか?」

 ヒカルは懇願するように言った。ヒカルは優しい子なんだな。口調は荒いが、多重人格のご主人である小清水さんに対して優しい。


 ヒカルの願いに僕は、「ああ、分かったよ。うまく説明しておくよ」と答えた。

 そして、「ヒカル、三つ編みがさまになってきたな」と冗談めかして言うと、

 ヒカルは頭に触れ「おっ、そうか?」と照れ臭そうに言った。

「けっこう、この頭、気に入っているんだ。沙希は当然だろうけど、ミズキの奴もな。みんな気に入っている」

 みんなって、一体何人いるんだ?

 ヒカルは笑った後、真顔になり、

「なあ、鈴木・・」と言った。

「なんだ?」

「これは、オレだけのお願いなんだけどさ」

「ヒカルのお願い?」

「ああ・・つまり、沙希でもなく、ミズキでもない。オレから鈴木へのお願いだ」

 ヒカルは言い澱んでいる。

「なんだよ、早く言えよ」僕はヒカルの言葉を促した。


「ファーストキスの相手になってやってくんないかな」

「ファーストキス?」

「ああ・・そうだよ。沙希のファーストキスの相手になってくんないかな」とヒカルは言った。

 僕が小清水さんのファーストキス・・どうして?

「わかるだろ?」

 ヒカルは強く言った。僕が答えずにいると、

「このままじゃ、沙希が可哀相だ。あいつ、ファーストキスの相手があの男だと思い込むかもしんない」

「いや、それは僕がうまく説明を・・」僕がそこまで言うとヒカルは僕の言葉を切り、

「そんなの言葉だけじゃダメなんだ。いったん疑い出すと、そう思っちまうよ。だから」

「・・だから、僕にそのことを忘れさすために、小清水さんにキスをしろと・・ヒカルはそう言いたいんだな?」

 僕がそう言うとヒカルはコクリと頷いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る