第238話 ヒカルと沙希①

◆ヒカルと沙希


 静かな時間が流れた。二人の息遣いと校庭の運動部の声だけが聞こえた。

 そして、その静寂を僕は破った。

「それは、ダメだ」僕はキッパリと言った。

「えっ、どうして?」

 ヒカルの疑問に僕はこう答えた。


「まず第一に、小清水さんの気持ちも考えずに、そんなお願いを聞くわけにはいかない」

 僕がそう言うと、ヒカルは「それは分かっているんだけどなあ・・沙希はあんたのことが好きみたいなんだけどなあ」とブツブツ言った。

「でも、それはヒカルの考えだ・・それに・・」

「それに、なんだよ」

 ヒカルは問い詰めるように訊いた。

 その質問に僕はこう答えた。

「僕には、好きな人がいる・・」

 ヒカルは暫く沈思した後、

「そうなのかよ・・でも、ミズキの話じゃ、鈴木は誰が好きなのか、迷っているっていうことだったぜ」

 ヒカルは悲しそうな顔をした。

 だが、ヒカルが悲しんでいても、それだけは受け入れられない。

「確かに、あの時は、そうだった・・でも今は違うんだ」


「だったら、別にいいよ」ヒカルはそう言った。

 納得してくれたのか?

 と思っていると、ヒカルは顔を上げ、僕を真顔で見つめた。

 そして、ぐいぐいと詰め寄ってきた。

「な、なんだよ?」僕が尋ねると、ヒカルは、

「だったら、オレとキスしてくれよ」と言った。

 ヒカルとキス?

「同じじゃないか?」

 小清水さんとキスするのとヒカルにキスするのは同じだ。同じ唇だ。

「オレとも、ダメなのか?」とヒカルは訊いた。

「ああ、ダメだ。同じだから」

 僕には多重人格のことはわからない。だが、僕から見れば、小清水さんもヒカルも同じ人間だ。第一、もし二人の人格がまるっきし異なっていても、ヒカルとキスする理由が見当たらない。


「そっか・・」

 ヒカルは「そっか」と言ったが、その表情を見るに、まだ諦め切っていない様子だ。

 すると、ヒカルは、

「オレ、まだキスとかしたことないんだよ」と言った。

 ヒカルの言っていることがよくわからない。小清水さんがまだなんだから、ヒカルもまだなんだろ。違うのか?

 僕がそう言うと、

「オレ、時々、沙希の体を借りて、街をぶらついたりするんだけどさ」と話し始めた。

 僕は出会っている。素行のよくない男子と街を闊歩しているヒカルと。

 そんなヒカルとゲームセンターで会った和田くんは、彼女に恋をした。小清水さんではないヒカルに恋をした。

「ああ、一度、街を歩いているのを見たことがあるよ」

 僕がそう言うとヒカルは「見られてたか」と笑って、

「でも、なんか違うんだよなあ」と宙を見上げた。

 そして、

「やっぱり、オレも沙希と同じで、あんたのことが・・」

 ヒカルは、そう言いかけ、言葉の最後を切った。


 そして、話を変えるように、

「あんた、最初に会った透明の時より、ずいぶんとしっかりしてきたじゃんか」と言った。

「そうかあ?」

 そうは思わない。僕はいつまでも優柔不断な男だ。

 けれど、ヒカルは「ああ、そうだよ」と言って笑った。

 そして、

「オレはさ、時々、こうやって、沙希の代わりに出てきたりするけど・・」

「けど?」

「けれど、沙希のように恋をすることはできないんだよ。だから、鈴木や、沙希の気持ちもあんまりわからないんだ」

 ヒカルは自分の気持ちを正直に語った。

 それはそうだろうけど・・それも不憫な気がする。

 ヒカルは小さな声で僕に訊いた。

「なあ、オレってさ・・沙希の役に立っているのかな?」

「ああ、十分だ。小清水さんの役に立っている。今日だって・・」

 僕がそう言うと、

「そっか、それならいい」と納得したように言った。

 夏の午後の光がヒカルの頬を優しく照らしていた。そのままヒカルがどこかに消えてしまいそうに見えた。

「鈴木、オレ、そろそろ行くよ。沙希が戻りたがってる」ヒカルは小さく言った。

「そうか・・」

 ヒカルはその体を小清水さんに返すということだ。

 そして、次の瞬間、ヒカルの体が二度三度、痙攣のようなものを起こした。

 元の人格、小清水さんに戻る兆候だ。

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