第213話 母
◆母
来る時は加藤と二人で乗った電車に、帰りは一人で乗る。
今回が僕の生まれて初めてのデートだったが、デートにしては、帰りの時間はおそらく早いのだろう。
デートの時間が長ければいいものでもないが、今回は強制的に途中終了した。そんな感じだ。
それにしても、疲れた。
吊り革を持つ手が重い。
そう感じた時。
しまった! 吊り革を持つ手がゼリー状になっている。
ずっと続いていた緊張から解放され、気がつくと眠くなっていたのだ。眠くなっても、電車の中だ。立ったまま寝るわけにもいかない。そう思っていたら、お約束通りの透明化だ。
隣の人が、ありえない光景を見た、という表情をしている。
それほど混んではいないが、僕の透明化に驚いた人は他にもいたことだろう。
だが、この中に知っている人がいるわけでもない。あと20分ほどで、自宅のある駅に着く。
特に問題もない。そう思うことにした。
ただ、座っていなくて良かったと思った。誰も座っていないと思われて、僕の上に誰かが座ったら大変だ。
そして、途中の駅、僕に近しい人が乗ってきた。だが、その人は安心だ。
僕の母だ。
母は、空いている席を探しているらしく左右に首を振った。そして、僕を見つけると、「あら、道雄じゃない」と言った。僕を苗字ではなく名前を呼ぶのは母くらいだ。
母は嬉しそうな顔をした。家でいつも会う顔なのに、そんな顔を見せた。
そう、母には、僕が透明化していても見える。それは最初からそうだ。
妹のように半透明状態で見えるわけでもなく、小清水さんのように、途中から半透明で見えるわけでもない。母は完全に分け隔てなく僕のことが見える。
母は、友人の家に遊びに行っていたらしい。その帰りということだ。服装も普段着ではなくよそ行きの格好だ。化粧もそれなりに濃いし、いつもより若く見える。
しかし、この状況はまずい。
母は何気なく僕に声をかけているが、僕は透明化したままだ。
母は、何もない空間に話しかけていることになる。周囲の人から見れば変人だ。
既に何人か、母のことをじろじろと見ている。
僕は、この場でできる唯一の対処方法として口元に人差し指を立て「しーっ」と言った。
車内なので静かに、という意味だが、母はすぐに理解したらしく「あら、私、そんなに声が大きかったかしら?」と言った。
ごめん、お母さん。悪いのは僕なんだ。
そんな状況は、次の降りる駅までだった。ごった返す改札の手前で透明化は終了していた。
そして、久々に母と自宅に向かうことになった。
「道雄、それで、デートはどうだったの?」
道すがら、母は車内で切りだせなかった話を持ち出して訊いた。
母は、妹のナミから「兄貴がデートするらしいよ」と報告を受けると、「道雄が、デートって、冗談でしょ」と笑っていた。
「上手くいったの? 相手の方に、ご迷惑はかけなかった?」
迷惑って・・母らしい言い方だ。何を心配しているんだか。
僕が「まあまあ」とあやふやに答えると、
「相手の方、道雄の本命さんだったのよね」と尋ねた。
本命・・
なんてことだ。僕は、母にもきちんと答えられない。
僕は「うん」と小さく答えるしかなかった。
「曖昧な返事ねえ・・声が小さいし」
「そうかな」
そんな僕の横顔を見て、母は何かを回顧するように、
「道雄は、いつもそうだったわねえ」と遠くを見るように言った。
「いつもって?」
「小さい時からよ。ずっと」
僕があやふやに答えることを言っているのか?
僕は、幼かった頃のことはよく憶えていない。それは誰もがそうだろう。産声を上げた時、初めて自分の力で歩けるようになった時。
そして、何かが欲しい、と親にねだったり、すねたり、怒ったり、泣いたり。
子供は憶えていなくても、親はきっちりと、いつまでも憶えている。
ただ、親は知らない。
僕がこれまでどんな女の子を好きになったか、知らないし、言ったりすることもない。
すると、母はこう言った。
「道雄はいつも遠くばっかり見ている」
「遠く?」
「そう、遠く」と母は自分の思いを確認するように言った。
話が抽象的でよくわからない。だが母の言葉だ。それなりに重い。僕の知らない部分を母は見続けてきたのだろう。
「道雄が幼かった頃、おもちゃ売り場に連れて行くと、手が届かない場所にある玩具ばかり欲しがるのよね。高いところに飾ってある物とか、すぐに見つけて『あれが欲しい』ってねだるのよね。近くにいい玩具がたくさんあるのに、それには目もくれないのよねえ」
そういうことかよ!
「遠く」って言うから、詩情溢れる言葉、文学的なことに聞こえたじゃないか。聞いてみればすごく現実的なことじゃないか。聞き入って損したよ。
僕は「要するに、僕は無い物ねだりだった、ってことだよな」と言った。
「そうとも言うわねえ」と母は笑って、
「それに比べて、ナミは道雄とは正反対ね。ナミは近くにある玩具を手当たり次第、『これが欲しい。あれも欲しい』って、遠くのものには全然目を光らせなかったわ」と更に笑った。
それはわかる。
ナミの男選びを見ていたら、もっとよくわかる。ナミは全て手近なところで済ませている。
母の話は卑近な例えだったが、その例えがそのまま僕のあやふやな心、優柔不断な性格に当てはまるような気がした。
けれど、恋は玩具ではない。そんな例えは、決して当てはまらない。
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