第212話 それは「光」のような
◆それは「光」のような
加藤は、ぬるくなったコーヒーを飲み干すと、
「喫茶店でさっき買った本の話をしようと思ったけど、私が読んでからの方がいいよね」と小さく言った。
そして、
「鈴木、今日は悪かったね。鈴木を引っ張り回したみたいで」と謝るような表情をした。
「そんな・・」
違う、加藤を利用したのは僕の方だ。
だが加藤の言葉を肯定すると、この場がどんどん暗くなる。
「加藤・・ごめん」と僕は言った。
僕が「でも、今日は、楽しかった」と言うと、加藤はくすっと笑って、「だから、無理しなくていいんだって」
その時の加藤の声が、僕にはこんな風に聞こえた。
「もうこれ以上、無理しなくていいんだよ」と。
そんな僕の顔を見て、加藤は、「人の心が見える純子じゃないけど、私は鈴木の心くらいわかるよ」と言った。「鈴木は、わかりやすいもの」
「僕は、そんなにわかりやすいかな」
「だって、そうじゃん。私とデートの約束をした時だって、鈴木、ものすごい顔をしてたじゃない」
図書館のオープンテラスの向こうの席に石山純子が座った時のことだ。確かに、誰かがあの時の僕の顔を見たならば、僕の溢れんばかりの感情を理解したと思う。
そんな僕の顔を加藤は見ていた。
「あの女の子のこと、好きだったんでしょ」
僕は答えを用意していない。僕の中に何の回答もない。
「ひょっとして、鈴木の初恋の子だったりして」
「加藤には、わかるのか?」と訊くと、
加藤は笑って「純子みたいに人の心はわからないけれど、鈴木の顔・・あの時、ものすごい顔をしてたから」と言った。
「そんなにひどい顔をしてたんだ」
「うん。顔面蒼白。それに顔が痙攣してたし」
その例えに僕は笑った。
そんな僕の顔を見て加藤は「鈴木が笑った」と言った。
そう言えば、僕は全然笑っていなかった。
それが絶え間ない緊張によるものなのか、この場を楽しんでいないのか、それもわからない。
しばらく沈黙が続いた後、
「これって、デートじゃないよね」加藤は確認するように言った。
「え?」
「全然、デートって、雰囲気じゃないよね」
そう言って加藤は笑った。悲しげな笑顔だ。
僕は慌てて、
「デ、デートだよ。映画にも行ったし、こうして喫茶店にも来て、話をしている」
あまり、いい話じゃないけれど。
僕は続けて「さっき、小清水さんを追いかけたりしたけれど、こうして加藤の元に戻って来たし」と何かの言い訳のように言った。
すると、加藤は僕に尋ねた。
「だったら、鈴木は、この後、私をどこに連れて行く予定だったの?」
「え?」
考えていなかった。この後、どうするか。
一応、ぼんやりと考えることは考えていた。デートの候補地を。
神戸には観光地は山ほどある。三宮の北には異人館通り。それに六甲山や、摩耶山、いずれもロープウェイなどを使ってすぐに行ける。
けれど、僕はそんな場所に行くことはないだろうと、勝手に決めつけていた。
生まれて初めてのデートで映画という大行事を済ませれば、それでいい。
その時点でデートから逃れられる・・
そう、僕はそう思っていたのだ。
加藤、ごめん。
「ねえ、鈴木」
返事の出来ない僕に加藤は呼びかけた。そして、
「純子と、デートする時は、ちゃんと考えておくんだよ」
そう言った加藤の顔は笑っていなかった。
「水沢さんとデートなんて・・そんなこと」
僕は、そんなことは考えていない。
そう加藤に言おうと思った。
だって、今は、加藤と一緒にいるんだ。どうして、水沢さんとのありもしない仮定のデートの話をしなくちゃならないんだ。
僕がそう言おうとすると、まるで、僕の先回りをするように、
「鈴木、安心して」
「え」
一瞬、加藤の表情が暗くなった。同時に店内に流れる曲が変わった。
「私も鈴木のこと、好きじゃないから」
加藤はこの会話を締めくくるようにそう言った。
お終いだ。
これが、僕の初めての不器用なデートの結末だ。
「私も」と、言った加藤に、僕はどう答えればいい?
「僕は、加藤が好きなんだ」そんな気恥ずかしいことを言えるわけがないし、
「僕も加藤が好きじゃない」・・いや、それはもっと言えない気がする。
きっちりした返事が出来ない僕は、
「僕は、自分のことがわからないダメな男だ」と小さく言った。うまく言えなかったが、そんな自嘲的な意味のことを言った。
すると、加藤は、
「鈴木だけじゃないよ」と言った。
「……」
「鈴木だけじゃない。私も自分のことがわかんないよ」
加藤は小さくそう言った。
そんな加藤を見ながら僕は「髪、伸ばしているんだな」と言った。
「えっ、今頃、気づいたの?」加藤は髪をいじりながら言った。「もう短くする必要もないからね」
「それで?・・」加藤は次の言葉を促すように訊いた。
「それで、って?」
「似あう? 長いの」
僕はまだ不器用な声で「その方がいい。長い方が」と応えた。
すると加藤は、「じゃ、伸ばすよ」と言った。
「でも、僕が似合うと言ったからって」僕は慌てて言った。
「いいんだよ。鈴木がそう言ってくれたから」
そう言った加藤は少し微笑んでいたけれど、僕にはその顔が泣いているように見えた。
喫茶店を出ると、「私はここでいいよ、送らなくても」と、加藤は言って別れを告げた。「寄りたいところがあるし」
そして、別れ際、
「ねえ、鈴木、私がもし鈴木とまたデートしたいって言ったら、どうする?」
加藤は意地悪顔でそんな質問を投げかけた。
すごく困った質問だ。今日の加藤は僕が困ること、上手く返せないことばかり言う。
そんな僕の困り顔を見て、
「ごめんね。また鈴木をいじめているみたいだね」と言った。そして、
加藤は、先ほどまでの暗い顔とは打って変わり素敵な笑顔を見せ、
「もう言わないから、安心して」と言った。
加藤は「じゃあね。花火大会で、また」と友達にするように手を振り去っていった。
友達同士の別れ。やはり、これはデートではない。
けれど、僕は思っていた。加藤の存在を大きく感じていた。
加藤とのいろんな会話。
これは何か、人生の中に、突如現れる「光」のようなものではないだろうか、と。
そう感じていた。
それまで異性としてそれほど意識していなかった加藤の存在。
僕の心の中に占める多くの人の中の加藤の占める位置。
その割合が、大きく膨らみかけている。
これまで、何とも思わなかった加藤の顔が不思議と、魅力的に思えるようになっていた。
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