第167話 初老の紳士・石坂氏の過去①

◆初老の紳士・石坂氏の過去


 青山先輩は話を元に戻すように、

「それで、石坂の若い頃・・何かあったのか?」と続きを促した。

 すると石坂さんは、

「私は、灯里さまがこの世にお出でになる前から、青山家で運転手をしております。もちろん、運転手以外にも、私のご主人である灯里さまのお父上の海外出張などに備え、語学も勉強しましたし、ある程度の交渉術も身に付けました。ボディガードの役割もできるよう武道も習いました。そんな私を青山さまは高く評価してくれました」

 と詳しく説明する石坂さんに青山先輩は、

「いや、そんな青年の頃の話ではなく、石坂の思春期の頃のことだよ」

 石坂さんは「そうでしたね」と笑って、

「私の家は満足に進学もできないほど、貧しかったのですよ」と切り出した。

「そうだったらしいな」

 そう受け答えする青山先輩は僕を見ない。

 その目は前方のルームミラーに注がれている。

 石坂さんがどうしてこんな話を続けているのかわからないが、少し助かっている。


「貧しかった家のせいか、よく、苛められもしました。額の傷は、石を投げつけられた時に出来たものです」

 なるほど、ミラーに映る石坂さんの額には、数か所縫ったような跡が認められた。

「それも父から聞いている」そう青山先輩は言った。

 石坂さんは「そうでしたね」とまた笑って、

「イジメられたのは。子供である私だけではありませんでした。私の両親も同様です。といっても大人ですから正確にはイジメではなく、借金取りに追われていた・・そういうことです」と言った。

「それは初耳だな」そう青山先輩は言った。「父はそのことは知っているんだろう?」

「ええ、もちろんです」と石坂さんは言って、

「私の思春期は、そんな頃ですよ。鈴木さんのような年の頃、私には、何一つ良いことはありませんでした」

 石坂さんの言葉を受けて青山先輩は、

「そうは言っても、彼・・鈴木くんだって色々あるかもしれないじゃないか」と言った。

 青山先輩はそう言って「そうだろ、鈴木くん」と確認するように言いながら僕の方に向き直った。

 まずい!

 青山先輩は目を擦りながら「やっぱり、見え方がおかしい・・」と小さく言った。

「そうですね・・失礼しました。鈴木さまにも色々とあるかもしれないですね」

「そうだよ。彼に失礼だ」青山先輩は石坂さんに強く言った。

 そんなやり取りで、主従関係がありながらも互いに信頼し合っている様子が見て取れた。


「それで・・石坂はいったい何を言いたいんだ?」と青山先輩は話を元に戻す。

 青山先輩の顔が僕から再びルームミラーに移った。

「あ、そうでしたね。私の思春期の頃のことでしたね。灯里さまにお叱りを頂戴しましたので忘れておりました」

「別に、叱ってなどいない」

 青山先輩は強く訂正し、

「石坂は、そんな不幸続きで、世を憂いて・・ひねくれ者になったとでも言いたいのか?」と尋ねた。

「ま、そんなところです」

 石坂さんは自嘲するように言って、

「けれど、灯里さま。そんな私でも、この世に生を受けたことが素晴らしい、と思ったこともあります。けれど、その逆に、私などこの世界から消えればいい・・そう考えたこともあります」

 ドキリとした。この世界から消えればいい・・

「しかし、現実には、体が消えることはありません。死ぬこと以外には、この世界から体が消えることはありません。そんなことは起きないのです」


 やはり、そうなんだな・・現実には体の透明化など起こりえない。透明化できるのは僕と速水さんだけだ。


「石坂・・そう思ったのは、私も同じだよ。子供の頃から、私はそう思っていた。周囲の人間はちやほやするが、誰も本気の声で私と話していない。私に積極的に話しかけてくるのは、青山家と利害関係がある者たちばかりだった・・それがわかると、そんな人たちからは、私の方から遠のくことにした。こんな世界に私はいたくない・・そう思った」

「でしたね。灯里さま。唯一の話相手であるはずのお父上、青山様は、ほとんど不在ですから」と石坂さんが相槌を打つ。

 そう答えた石坂さんは、

「私も一応、利害関係のある存在ですが・・」と笑った。

 その言葉に青山先輩は、

「これでも私は人を見る目があるつもりだ。石坂は、時折変なことを言うが、誠実な人間に思えるし、私の目を真っ直ぐに見て、向き合ってくれる数少ない人間だ」と言った。

 石坂さん、青山先輩にすごく買われてるんだな。

 石坂さんはそんな称賛には慣れているのか、青山先輩の賛辞には触れず、

「いずれにせよ・・私はこの世界で存在感がなくなった。いつも私を見てくれているのは石坂だけだよ」と青山先輩は笑った。

 青山先輩、それ、絶対に違いますからね。

 けれど、青山先輩はそう確信しているようだ。


「まさか、石坂は自分も、この私のように存在感がなかった・・そう言いたいのか?」

 石坂さんは少し考えて、

「それに近いですね・・私の場合は、石を投げつけられていましかたら、一応、私の存在は皆には見えていたようです」

「当たり前だろ」と青山先輩は強く言った。

「しかし」と静かに石坂さんは切り出した。

「しかし、何だ?」と青山先輩は石坂さんを話を促す。

「人間の視界というものは、実に都合よく出来ているようです・・見たくない時には見ない・・見たいときにだけ見る」

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