第150話 夜の公衆電話②

 時間も選んだ。夜の9時。それより遅い時間は親が出た場合、彼女にまわらないこともある。

 僕は「コンビニに行ってくる」と母に言って町に出た。実際に新しく出来たコンビニが国道の角にある。

 公衆電話ボックスはコンビニの向かいの舗道にあった。

 風が冷たい。けれど雪が降るほどでもない。 

 見えてきた電話ボックスの灯りがなぜか眩しかった。

 その灯りの先に、電話の向こうに石山純子がいる。

 彼女の電話番号は覚えてある。間違えることはない。

 ボックスの中は少し暖かった。風俗関係の広告がベタベタと貼られてある。

 石山純子はこんな広告とは無縁の世界に位置している。

 その神聖な彼女と僕は会話をするためにここに来た。

 初めて、まともな会話をする、そう思った時、僕が彼女をこれほど好きな理由が分からなくなってきた。話をしたこともない相手のことをなぜこれほど好きになっているのか。

 そう思っていても彼女の番号を押す手は進んだ。

 プルル、数回の呼び出し音が永遠に感じた。周囲の車やバイクの音よりも大きく感じた。


「はい、石山です」これは母親の声だ。

 僕は声を上ずらせながら「同じクラスの鈴木と言います。夜分にすみません。あの、純子さんはおられますか」と言葉を一つ一つ確認しながら話す。

 しばらくして、

「はい、石山ですけど」と母親と同じような口調が聞こえた。

 石山純子の声だ。電話を通した彼女の声。初めての声はかたい。

「あ、あの、手紙は読んでくれたんですよね」と僕は訊きたかったことを言った。

 けれど、彼女は沈黙。

 まだ沈黙している。なぜだ。

 質問を切り替えた方がいいのか?

「あの・・石山さんは、ど、どこの大学を目指しているの?」これも僕が訊きたかったこと。単刀直入の質問。

 それでも石山純子は返事を返さない。何も話してくれない。

 息遣いも聞こえない。僕は何に向かって話しているのだろうか。

 公衆電話だから聞こえなかったのかもしれない。

 僕は声を大きくしてもう一度、同じ質問をした。

 すると、

「迷惑なんですけど」

 それは冷たい声だった。そんな氷のような声、聞くとも思わなかったトーンの声が撥ね返ってきた。

 迷惑。それでも僕は言葉を続けた。言い方が悪かったのかもしれない。

「僕は、君の行く大学を目指して、勉強を頑張りたいんだ」

 僕は自身が押し売りセールスのようになっているのにも関わらず、夢中でしゃべった。

 それは彼女にとっては何の関係もないこと。むしろ、言葉通り迷惑なことに気づかずに。


「もう一度、言います」

「え・・」

「め・い・わ・く・・」

 今度は彼女は区切りをつけて繰り返した。

 石山純子は聞き分けのない人間、要領を得ない人に語るように強く言った。

 僕の何が迷惑なのだろう。こんな時間に電話をかけたことだろうか。それなら謝らなければならない。


「ごめん。石山さん、こんな遅い時間に・・」と僕が言いかけると、

 受話器の向こうで息を吐く音が聞こえた。石山さんの大きな溜息だ。


 そして、溜息の次に聞こえたのは「そういうことじゃなくて」という言葉だった。

 もうわからない。深く考えるとよけいに気持ちが後退する。そんな気がした。


「・・だったら僕と友達になってくれませんか?」

 僕の選択肢になかったことを言った。ありふれた言葉。

 けれど、友達になれば、どこの大学が希望なのかを知ることができる。一瞬でそう判断した。

 しかし、

「もう切りますね」

 電話を切られる・・今この電話を切られたら、もう彼女と繋がる手段を失ってしまう。


 僕は「ま、待ってください」と慌てて、

「僕は・・ずっと君のことが好きだったんだ!」と大きな声で言った。

 ついに口に出した。しかし、この言葉は最終的な言葉、この後の言葉を僕は用意していない。この言葉が拒絶されたらその先はもうない。


 そう思った瞬間、受話器から聞こえてきたのは彼女の声ではなく、プーッ、プーッという電子音だった。

 電子音は、「迷惑」・・この一つの言葉を象徴しているように思えた。

 その言葉に特に難しい意味はない。

「関わりたくない」そういう意味だ。誰にでもわかるような押し売りセールスに対する拒絶の言葉だった。


「石山純子は冷たい」

 そう言った人が彼女の何を見てそう言ったのかは知らない。

 けれど、僕はその言葉通りのことを体感した。

 プールで彼女を見かけた時、岡部と小西は「あの子、冷たそうだな。声をかけても無視されそうな気がする」と言っていた。

 その通りだった。あの二人の言っていることは正しかった。


 石山純子という女の子は、どういう人だったんだ・・

 そして、彼女の目には僕はどう映っていたんだろうか。

 僕には初めて会った時の彼女の純真な少女のようなイメージと、たった今の「めいわく」と告げた生身の石山純子のイメージが繋がらなかった。


 しばらく僕は全身の力が抜けたような体を電話ボックスにもたれさせていた。

 夜のボックスの面が鏡のようになって僕の顔を映していた。

 暗い顔、間抜け面に見えた。

 これがひと時でも人生の輝きの全てを手に入れることができると勘違いしていた男の顔だった。ひどい顔だ。


 おそらく10分ほど、そこにいた気がする。やがて、電話をかけようとする学生らしき男が現れたのでボックスを出た。

 寒い。力がない。歩くのがやっとだ。このまま家に帰ることもできない。この状態では、僕の心はきっと母や妹に見抜かれ、質問責めに合う。それも格好悪い。


 僕は遠回りして帰ることにした。

 夜道を歩き出し、夜空を見上げると、星空が明るい。

 おそらくこの世で一番不幸なのは、この僕だ。そう思った。

 そう思うと、涙が次から次へと溢れてきた。涙はこんなにもあるんだ。今まで体の中に溜め込まれていたんだ。そう思った。


 気がつくと、僕は鉄道の線路の側道を歩いていた。

 すると道の向こうから二人の人間が向かってくるのが見えた。

 一人は中年男で、もう一人は少女のようだった。

 僕と同じ年くらいの女の子だった。

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