第151話 手錠をかけられた少女①

◆手錠をかけられた少女


 その時、出会った女の子の顔は憶えていない。

 その時の僕は目に映るもの全てに興味が失せていた。当然、人の顔なんて覚える気すらなかった。

 線路の側道を歩いていると踏切が見えてきたので、その中に、この心を抱いたまま飛び込もう、そう思っていたくらいだ。

 けれど、そんな勇気すらない。かといって、正常な心も維持できない。

 月曜日からどんな顔をして登校すればいいのだろう。

 まさしくクラスの笑い者。

 僕の推測が正しければ、石山純子はまたあの東田英美に今日の電話のことを話すのだろう。そのことに怒りは感じない。落胆するだけだった。

 僕は東田奈々を恨んではいても、石山純子に対しては怒りを覚えていなかった。

 こんな目にあっても僕はまだ彼女を好きだったのだ。


 目を前にやると、

 夜道を向こうから男と少女が歩いてくる。どうもその様子が少しおかしい。

 男の方が何か大声で少女に怒鳴っているようだが、よく聞こえないし、その関係もわからない。おそらく酔った父親と娘だろう。関わらないでおこう。どうでもいいじゃないか。


 僕の目先、およそ10メートルほど、闇の中でその声は聞こえた。

「この化け物め」

 男の方がそう怒鳴った。間違いなく少女に対して言った言葉だ。少女を見た。髪がばらばらになって頬に降りかかってはいるが、とても化物には見えない。


 側道の街灯が二人の姿を照らした。

 男の顔がはっきり見えた。人相が悪いというのが正直な感想だ。目を合わせてはいけない。咄嗟にそう判断した。ああいう輩は何事につけても因縁をつけ絡んでくる。

 僕はすれ違いざま、二人を見ずに通り過ぎようとした。

 

 その時、こんな言葉が僕の耳に飛び込んできた。

「手錠で繋がれていたら、トウメイになっても逃げられんだろ」

 僕には目もくれない男は確かにそう言った。

 透明、そして、手錠、と。

 意味が掴めない。

 

 さっきまでどうでもいい、二人を見ないでおこうとした僕の目が、少女に注がれた。

 街灯の下、同時に少女も僕の顔を見た。目が合った。頬が腫れているのがわかった。

 彼女は口を動かしていたが、聞き取れない。

 聞き取れないが、僕にはこう聞こえた。

「おねがい、たすけて」と。

 その少女が確かにそう言ったのかどうかはわからない。そんな顔に見えただけかもしれない。

 けれど、僕の目は少女の顔の次にその手に移っていた。男が口にした手錠が少女の腕にかけられていた。男は手錠の片方を持ち、手錠ごと少女を引っ張っていたのだ。

 たぶん痛いはずだ。

 けれど、少女は泣いていない。泣くのを堪えているようにも見えた。

 不思議とその時の僕は、石山純子に見い出せなかった暖かい心が、その少女にあるような気がしていたのだ。


 その時の僕はやけになっていたのかもしれない。

 普段ならそんな得体のしれない人間には関わらないはずだった。

 しかし、男はこう言ったのだ。

「そんなに消えて無くなりたいのなら、そこの踏切に飛び込んでみろよ」


 消えてなくなる?

 それって、さっき男が言っていた「透明」のことか。

 男は勢いよく少女を引っ張りだし、近くの踏切に向かっていった。

「やめてくださいっ」少女は儚げな声で抵抗の声をあげた。

 同時に遮断機の音が鳴り始めた。


 いったい何なのだ。あの男は、そして、少女は・・

 さっきまで僕はこの世で一番不幸なのは僕だと思っていた。

 けれど、この光景はなんだ。あの子はあんなに痛々しい。それなのに泣いていない。

 そう思った瞬間、僕は通り過ぎた二人を追いかけていた。

 風が冷たかった。追いかけながら同時に足がすくむ。けれど、僕の心はあの少女をなんとかして助けたい、そう思っていた。

 今夜は降らないと思っていた雪が降り始めた。ぱらぱらと肩に雪が乗る。

 体が震える。それは決して雪のせいではない。


 危険を知らせる音がした。

 遮断機が降り、電車が近づいてくるのがわかった。 


「おいっ」

 僕は男を呼び止めた。男の体は大きい。腕力は中学生の僕では到底及ばないことはわかっている。わかっているけれど、男と少女を引き離すことくらいは可能なのではないだろうか。

 二人がどんな関係なのか知らない。親子かもしれないし、誘拐なのかもしれない。

 もし誘拐であるのなら、助けないといけない。

 そう思った時には、

「い、いやがっているじゃないか」と大きな声を出していた。

 同時にうなだれていた少女の顔が僕に向けられた。

 僕は少女に「助けてあげる」そう無言で言っていたのかもしれない。

声を出したのはいいが、その時の僕はもう後悔していた。

 男の顔が怖すぎる。

「なんだ、おまえは」予想通りの男の大きく威嚇する声。更に僕の足は震え、心臓の鼓動が激しく打つ。

 けれど、言ってしまったからには引き返すことはできない。

 やけになっていた・・自暴自棄、その時の感情を一言で表すのならその言葉しかない。


 その前に一つ確認することがある。

 僕は少女の顔に「親子・・この男はお父さんか」と尋ねた。返事は期待してない。返事はできない、そう思った。

 けれど、少女は首を横に振った。

 分かったよ。

 この男に言葉は通用しない。今の非力な僕ができること。

「うわああああっ」

 夜の中、僕の体は勝手に駆け出していた。

 どん、男の腹部めがけて体当たりした。

「てめえ」男の怒号が飛んだ。

 だが、無様な僕は体当たりすらできなかったのだ。

 男の肘鉄が僕の体を跳ね飛ばしていた。男はこんな攻め方には慣れていたのだろう。

 一瞬、空を飛んだ僕の目には夜の空から雪が降ってくるのが見えた。綺麗だった。

 そして、地面に仰向けになって倒れ込んだ。

 痛いっ!  

 心の痛さより、今は現実の痛さが身に染みた。

 けれど、男の脇にいる少女はもっと痛そうだ。体も心も傷ついている。


 僕は心の中で「ちくしょうっ」と叫んでいた。なぜ僕はこんなにもみっともなく非力なんだ。こんな男に石山純子が振り向くわけがない。

 僕の体は起き上って・・

 いや、僕は男に胸ぐらを掴まれ無理やりに起き上らせられていたのだ。

「やる気か、おら」

 こんな下劣な言葉を聞いたのは初めてだった。いかに僕が温室育ちなのかを思い知らされた。

 最初の一撃が僕の頬に直撃した。

 痛い、痛いなあ・・そうゆっくりと感じた。そして次の瞬間には猛烈な痛みが襲いかかってへたり込んでしまった。

 頭に降りかかっていた雪が散るのがわかった。

 こんな痛い目に合うのだったら、やっぱり二人に関わるんじゃなかった。やけになるんじゃなかった。こんな夜に外に出るんじゃなかった。

 石山純子に電話をするんじゃなかった。

 僕は大バカだ。

 ・・けれど、ここにいる少女は、こんな痛みを抱え込んで生きている。そんな少女の気持ちが頭をよぎった。


 そう思った時、少女の口から「にげてっ」という声が聞こえた。

「にげて」その意味が分かった時にはもう遅かった。男の蹴りが腹を直撃していた。

 これ、腹の中の物が全部飛び出すんじゃないか?

 痛みと同時にそんなことを思った。

 そんな僕の次の行動は腹を抱えながらのたうち回ることだった。苦しい、苦しいよ。

 早くこの場を脱しなければ、

 でも、どうすればいいんだよ。

 苦しい・・意識が遠くなるのと同時に、僕は消えたい、そう思った。


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