第39話 山手の廃墟洋館③
「でも、夢は長くは続かない・・私は幼い頃、そんなことを学んだわ」
「それって、一体速水さんがいくつの時だよ?」
速水さんはその質問には答えず、
「私の祖父がこの家を建てたのよ。祖父は貿易の事業で成功を収めた人だったの」
ここ、神戸には貿易関連の会社は多い。
「父は、今でいう二世だったのよ」
僕は屋敷を見上げた。三階建ての洋館。いくつもの出窓。建築様式はよくわからないが、かなり盛大にお金をつぎ込んだ・・そんな風に見える。
高校生の僕にはそれくらいのことしかわからない。
「私が中学に上がった頃、父の事業が傾き始めたの・・」
それが夢が続かない、ということか。
「力をなくしていく父、輝きを失っていく母・・家の中の全てが暗くなっていったわ」
速水さんは、
「母は、私の母は・・」
そこで声を詰まらせ、一呼吸置いて、
「私は、子供心にも、そんな時には、母が父をサポートするものだとばかり思っていたの」と言った。
それが夫婦だからな。
病める時も健やかなる時も、というやつだ。
いや、違う・・
今、速水さんは「・・するものだとばかり」と言ったのだ。
「母は、父の事業の先行きに不安を感じたのか、あるいは、見込みがないと判断したのか・・子供だった私にはわからなかったけれど・・とにかく、母は父から離れていった」
「離れていったって・・それってちょっと薄情じゃないのか」
速水さんにそう言っても仕方のないことだが、
僕は自分の両親をいつも見ている。とても仲がいい。こちらが恥ずかしくなる時もある。
そんな両親の元、僕と妹のナミは育った。
これまで何の問題もなく・・
「鈴木くん、人の人生っていうのはね」
「何だよ」
「何の問題もなく日々を過ごせる人と、そうではない人に分かれるのよ」
「そんなにきれいに分かれるもんじゃないだろ」
すると、速水さんがふいに立ち上がったのがわかった。歩きだしたのか、地面に速水さんのさくっさくっという靴音と靴跡が続いた。
僕を置いてどこかに行かないだろうな。
「では、訊くけど、鈴木くんのこれまでの人生で何か、問題はあった?」
どこからか声が聞こえる。まさか、また耳に息を吹きかけるんじゃないだろうな。
「それは・・」
考えてみると、そんなにないな。いや・・何もない・・
大きな病気もしていないし、事故もない。親族一同今のところ、トラブルも抱えていないし、元気だ。
恋・・これは、問題の部類には入らないな。
「それほど、大した問題はないような気がする」と僕は答えた。
いや、それより、僕は速水さんがどうして透明になることが出来るのかを訊きたいんだ。
何か、速水さんの人生、人生論を聞かされているような気がしてきたぞ。
僕は、
「それって、速水さんの透明化能力と関係があるのかよ」と訊いた。
速水さんの小さく笑う声が聞こえたような気がした。
「関係あるわ、おおありよ」と速水さんは少しおどけたように答えた。
「おおありって・・」
僕は「おおあり」の言葉で少し可笑しくなったが、速水さんの話の内容は深刻なもののように思えた。
「母はよく言っていたわ、世の中には成功する人と、しない人がいる・・沙織は人生で成功しなさいって」
「また、分かれるのか」さっきは「人生の問題の有る無しに分かれる話」だった。
「私は、別に成功なんて、大それたことは考えてなかった。私は、それこそ、問題なく家族と幸せに過ごせて、将来はお嫁さんになって・・その先は・・なんて、ありふれた夢を描いていただけだったもの」
速水さんもお嫁さんになりたかったのか・・ちょっとイメージは沸かないが・・当たり前か・・女の子だもんな。
速水さんには好きな人がいるのだろうか? もしかすると、もう誰かとつき合っていたりするのだろうか?
「ただ、母は・・母の人生における尺度は違っていたみたいね・・」
「どう違ったんだ?」
速水さんと母親の価値観の相違か?
「母は、外に男を作ったの」
浮気? 不倫か。
「相手の男は、父のライバル会社の男だった・・それも父の関連会社を次々と吸収していっていた・・そんな相手よ」
「何だよ、それ!」
僕と速水さんは、恋人同士でも、友達同士でもない。ただのサークル仲間だ。ただ、そんな話を聞いていると少し義憤に駆られてしまう。
速水さんのお母さんは成功する側についたというのか?
「別に、相手の男が悪いとか、そんなことはわからない。母とその男との間に、どんな出会いがあって、どんな素敵なエピソードがあって、優しい父を裏切るようになったのか、わからない」
速水さんはそう言って「そんなの知りたくもない・・」と小さく言った。
「いずれにせよ」
速水さんはそう言って、また目の前の椅子に座ったようだ。気配でわかった。
風が吹く・・そして、香りでわかる。
「父は、自分の事業にも失敗し、生涯の伴侶となるはずの妻にも裏切られたのよ」
間に立つ子供・・中学生の速水さんがどこまで知っていたのかはわからないが。辛かっただろうな。
そして、速水沙織はこう言った。
「父はこの洋館の地下室で、首をくくったのよ・・」
速水さんの言葉は最後まで言い切れなかったような気がする。最後は何か感情が込み上げてきたのか、言葉を詰まらせた。
僕も声が出なかった。
「父は・・寂しかったのだと思うわ・・」
こんな時、何を言ったらいい?
速水さんはさっき言っていた。
・・この家、普通の人は買わない、と。
「大事業家の事件だもの・・新聞にも大々的に載ったわ・・神戸、いえ、他の都市まで、知れ渡ってしまったわ」
僕の認識不足だ。知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます