第38話 山手の廃墟洋館②

 これって、まさしく不法侵入だろ!

 けれど、そんな世事の言葉は今は不要のようにも思えた。

 それほど、速水さんの行動はすごく自然で・・ひょっとしたら、速水さんは毎日こうして中に入っているのでは? とも思った。

 文芸サークルの終わった後、速水さんはよく「もう少し部室に残っているわ」と言っていたが、あれはここに来るためではなかったのだろうか?

 ここは速水沙織の居場所・・

 では、なぜ、速水さんは水族館のある須磨にいたのだろう?


 目の前には大きな庭・・

 いや、これは庭園だ。

 ある程度、雑草は刈られ、手入れがなされている。不動産会社の人が定期的に清掃しているということだ。


「さすがに建物の中に入ることはできないけれど、こうして庭を散策することぐらいはできるのよ」

 いや、それが違法だぞ!

「でも、誰かに見られたらどうするんだよ」

「あら、鈴木くん、私を誰だと思っているの?」

「誰って・・」

 あっ! と僕は声に出しそうになった。

「私は透明人間よ・・」

 そう言って速水沙織は微笑んだ。

 その通りだ。

 確かに透明化していれば、他人に見つからないでいることができる。

 速水さんの透明化は自由自在のようだ。

 なるほど、と納得した。


 庭の中央に出ると、かつては噴水だったと思える低い円形の瓦礫がある。その奥には朽廃した藤棚のようなものがあり、その手前に丸テーブルと椅子のセットがある。

 家に住む人がいないと、こうも朽廃が進むのか。


 速水さんの言う通り、屋敷の扉の取っ手には鎖が巻いてあって、誰も中には入れないようになっている。この庭だけが速水さんに開放されているということか。


「この家・・いや、この大豪邸を買う人はいないのか?」

 僕の素朴な質問に、

「いるはず・・ないわね・・普通の人間だったら、買わないわ」と速水沙織は答えた。

 こんなすごい建物を買う人がいない・・

 そんなに高いのか・・想像もつかない。


 ある程度予想はしていたが、丸テーブルの周りに並べられている椅子のいくつかは汚れというものがない。

 ここは速水さんなりの手入れがされている場所なのだと理解した。


「よくここに来ているのか?」

「たまにね」速水さんはそう言った。


 速水さんは椅子の上にハンカチを敷いて腰かけた。

「どうぞ、鈴木くんも」向かいの席に速水さんは別のハンカチを敷いた。

 速水さんの指示通り、僕も腰をかけると、

「ようこそ、速水邸に!」と速水さんは言った。


 僕の知りたいのは速水さんの透明化能力についてなのに、速水沙織自身のことをもっと知りたくなっている自分に気づく。


「鈴木くん、今は眠くならないのね」

 こんな場所で何を言い出すんだよ。ならないよ。

「いや、この状況では眠くなんて、とても・・」

「なんだ、つまらない・・鈴木くんと一緒に透明になろうと思ったのに」

「僕が透明になっても、速水さんには見えるだろ」


 そう・・僕が透明になっても、速水さんには僕が見える。

 逆に速水さんが透明になったら、僕には速水さんを見ることができない。

 そんな当たり前のような、不自然のようなことが、

 僕にはとても寂しいことのように思えた。


「悪いけど、今から私だけ透明にならせてもらうわ」

 えっ・・速水さんだけ透明に?


 僕が理由を訊ねようとする前に、速水さんは一人何かを呟き、

 あっという間にその姿が見えなくなった。

「速水さん?」

 僕が声をかけると、

「鈴木くん、私はここにいるわ・・座ったままよ」

 透明な方が声が綺麗に聞こえるから不思議だ。

 そして、この状況・・この前とは違う。

 水族館の時は周囲に人がいたが、今は誰もいない。

 そうは思っても、これはおかしな状況だ。

 立ち入り禁止の豪邸の庭に僕は一人で腰かけている。

 時折さえずる小鳥の声、緩やかに吹く風・・それらが無ければ、ここは無音の世界だ。


 すごく居づらいな・・こんなところを誰かに見られたら、どうするんだよ。

 速水さんを置いて帰ろうかな・・

 そう思っていると、

「鈴木くん、居づらいでしょうけど、そのまま、そこに座っていてちょうだい」

 いつものきつい声が聞こえた。

「別にかまわないけど、僕、ばかみたいだぞ」

「うふっ・・ちょっと鈴木くんをからかう意味もあったのだけど」

「おい!」


「でも、鈴木くんは女の子を一人置いて帰るのも、できない人よね」

 どうやら、見透かされている・・勝手に退散するのは無理のようだ。

 仕方ない。ここは速水さんの言う通りにするか。


 速水さんは透明になったまま語り始めた。

「この家はね、アヴェマリア・・カッチーニのアヴェマリアが、毎日のように流れている家だったのよ」

「・・レコードか?」

 たぶん高級なステレオ装置なのだろう。見たこともないような。

「ええ・・父がクラシックが好きだったの。家にはバロック音楽や、オペラがよく流れていたわ」

 姿は見えないが、速水さんの昔を懐かしむ表情が見えるようだった。

「私は、物心ついた時から、この家で、いろんなクラシック音楽を聴いていたの」

 僕の家とは全然違うな・・

「夢のような日々だったわ」

 その声は、過去を振り返る喜び・・その中に悲しみの色が影を落とす、そんな声だ。

「優しい父と綺麗な母に囲まれて、私は幸せだった」

 三人の親子がこの庭で戯れている光景が容易に想像できた。


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