第四章 合気道

道の為来たれ

 黒いダウンジャケット。

 洗いざらしのジーンズ。

 おニューのスニーカー。

 大きなズタ袋。

 尚志としては精一杯のお洒落をしてきたつもりだった。


 都心の一流ホテルのラウンジは祝日のせいか活気があった。

「やあ、ナミちゃん、こっちこっち」

 南郷尚志なみさとひさしをナミちゃんと呼ぶのは元蒼天会そうてんかいの堀内だけだ。

 七三分けでメガネでスーツ姿の堀内はそのエネルギッシュさも相まって、典型的な昭和の猛烈サラリーマンを思わせる。

 彼は尚志を見つけるとよく通る声で尚志を呼び、大きく手招いた。


「よく来てくれたね」

「そりゃ手紙に『今年は反撃の狼煙を上げる。道の為来たれ』なんてあったら来ないわけにはいきませんよ。しかし僕は内藤高治ないとうたかはるには値しませんって」

「いや、武張っているナミちゃんなら絶対に『道の為来たれ』に反応すると思った。内藤高治を知っているのも流石としか言いようがない!」

 堀内は大袈裟に尚志を褒めたが、この男は知り合った時からこんな調子なので尚志もスルーした。


 内藤高治という人物は戦前の有名な剣士である。

 優れた剣士の内藤は東京で自身の剣術道場を持ち、警視庁や学校で剣を教えていた。

 そんなある日、大日本武徳会創立に関わった楠正位から一通の電報が届く。

『ミチノタメキタレ』

 この一通の短い電報は内藤の魂を揺さぶった。

 東京での要職をすべて投げ捨てて京都の大日本武徳会に向かい奉職。後に剣道主任教授を勤めた、という出来事は尚志でも知っていた。


「しかし、お元気そうで安心しました。あの事件の後、才川さんに殉じて蒼天会を退会したと聞いていたのでもっと落ち込んでいるものかと」

 尚志は言った。

「ナミちゃん。そりゃ当時はどん底だった。彼奴等と刺し違えてやろうと思ったことも一度や二度じゃきかない。でも今の俺を見てどうだ? どん底に見えるか?」

 堀内は笑顔で言った。

「いえ、今までで一番輝いています」

 お世辞抜きで尚志は言った。

 事実、不思議なほど堀内はイキイキとしている。


「なぜだと思う?」

 堀内は笑顔で訊いてきた。

「う~ん、参禅されて悟りを開いたとか? でなければ宝くじが当たったとか?」

「アッハハハ、ナミちゃんは相変わらず面白いな。アハハハ」

 尚志としては一応は真面目に答えたつもりだが堀内に大いに笑われてしまった。

 

「ナミちゃんは才川さんを覚えているかな?」

「ええ、忘れようにも忘れられません」

 尚志は即答した。

 これまでに色んなタイプの達人や猛者と出会ってきた尚志だが、才川の合気は際立っていて別物だった。


「才川さんは実は合気会合気道あいきかいあいきどうの師範の資格をお持ちなんだ。だから才川師範のもとで新しく合気道の会を創ったのさ。俺はその手伝いをしていたんだ。いやあ、この数年は忙しかったなぁ」

「へ!?」

「俺が通っているヨガの道場で誘ったら二十人くらい弟子になってくれたよ。才川師範の技は本物だからな」

「へ!?」

「今までナミちゃんに連絡しなかったのは夜間の専門学校に通うと言っていたから遠慮していたんだ。でもそろそろ卒業する時期だろう」

「はあ」

「毎週、火・木・金の十九時から二十一時まで。決まった道場はないからその都度適当な施設を借りている。今日もこれから稽古だ。もちろんナミちゃんも一緒に来るよな」

「はあ」

「といってもまだ時間はたっぷりある。だからもっと話そう。ここまででなにか質問はあるかな?」

 

 ある、どころかあり過ぎる。

 予想外!

 急転直下!

 頭が追いついていない。 

 だからまず、コーヒーを飲んだ。

「うへぇ、ぬるくて苦い」

 思わず声に出した。

「ここのコーヒーはオススメなんだが冷めてしまっては、な。それは下げてもらってウィンナーコーヒーを頼もうか」

 堀内はウインナーコーヒーを二つ注文した。


「では早速質問です。今から才川さんに会えるんですか?」

 尚志は訊いた。

「ああ、会えるとも。それと入門したら”師範”か”先生”とお呼びしないと。そうだ、これを見せよう」

 堀内は名刺サイズのカードをテーブルに置いた。

 手に取って尚志が見てみた。


『会員証

   東京支部

 堀内善夫

 合気道無銘会

  本部:京都市  支部:東京、那覇 』

     

 しげしげと見つめて、

「……すでに支部が出来ているとは驚きました」

 確認してから尚志はウインナーコーヒーを啜った。

 しかしまだ頭が混乱していて味はよくわからない。

 口の周りについたクリームもそのままだった。


「ああ、我が無銘会むめいかいは動けば電光石火、疾風迅雷。今も京都では本部道場の新築工事が進められている。那覇支部は才川師範の沖縄唐手の師がいる関係で出来た。夏には沖縄合宿だ。そして我々は無銘会むめいかいの東京支部に属するんだ」

 堀内は誇らしげに胸を張った。


「会の名前は無銘会むめいかいというんですね。格好良くて素晴らしいです」

 尚志は本心から言った。

「そうだろうとも。本当は、蒼天已死そうてんすでにしす 黃天當立こうてんまさにたつべし、という三国志の故事に倣って黄天会こうてんかいにしようと俺は提案したんだよ。だが皆からは即反対された。蒼天会への当てつけが見え見えという理由で。そして根本的に黄巾賊のスローガンなんて縁起が悪いという理由で。そもそもなぜ無銘会になったかというと……」

 いよいよ堀内の熱を帯びたようなお喋りが止まらなくなった。

 だが尚志の頭には堀内の語る内容が入ってこない。

 <これから、いや今から才川先生にお会いできる>

 その事ばかり考えていたのだから。



 ホテルを出て駅に向かい電車で揺られること約三十分。

 改札を出て歩くこと約十五分。

 夕闇の中、目指すべき体育館が見えてきた。


「さあ、中に入ろう」

 堀内はズンズンと体育館の中に入って行った。

 尚志もそれに続いた。

 柔道場の入り口まで来たらあの人の姿が見えた。

 見間違いではない。夢幻ゆめまぼろしではない。

 白い道着と黒い袴姿。

 オールバックの髪型。 

 只者ではないプロの雰囲気。

 蒼天会の道場を追われても、己の実力と人脈で道場主に返り咲く不屈の男。

 すなわち、才川だ。


 才川はにこやかにこちらまで歩いてきた。

「おお、南郷くん。しばらく見ない内に少し引き締まったんじゃないか」

「……はい……」

「ようこそ無銘会へ。道の為来たれ!」

「……は、い……」


 感極まった尚志はまともに返事も出来なかった。

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