相撲で勝負
稽古システムが改悪され才川も去った蒼天会だが、尚志は相も変わらずに通っていた。
すでに月謝は払ってしまったし、一度身に付いた習慣は変え難い。
もはや、あの頃に感じた煌めきはなく惰性で稽古をしている有様。
どんな態度を取ろうとも、退会する日が確実に迫って来ていた。
尚志がいつものように稽古前にストレッチをしていたら道場の入口付近が騒がしくなった。
見れば、ある人物を中心に人の輪ができていた。
騒ぎの中心にいるのは袴姿の六十がらみの男。
体格は黒田を少しゴツくした感じ。
ニコニコしながら皆と話をしている姿からは強そうなオーラが全く無い。
しかし、袴を穿いているのならば高段者なのは間違いない。
三年近く会にいる尚志が初めて見る顔である。
果たして何者なのだろうか?
「
稽古前に大岩が弟子たちに告げたので名前はわかった。
推測するにどうやら長患いから復活したらしい。
稽古が始まると、葛西と尚志は同じ列になった。
気になる彼の腕前は、特に力むことなく飄々としていながらいつの間にか投げ飛ばすスタイル。
身ごなし、呼吸、技を受けた時の感触などの全てがなぜか伊勢と似ている。
「君は少し力み過ぎだね。それだけ体重があるなら力なんて要らないよ。もっと伸び伸びと楽しくやってごらん。ただし、俺だけに。他の人にやっては事故になってしまう」
葛西が尚志に耳打ちしてきた。
確かに、色々ありすぎて最近の尚志は技が荒れていた。
稽古中は常に般若の面のような表情をしていた。
<そうだ、初心に帰らねば>
アドバイスに従い葛西に伸び伸びと技をかけた。
<しまったッ!>
と思った時は遅かった。
"バンッ"
凄まじい音を立て、彼は道場の壁に激突した。
道場の皆が音のした方に注目するのも当然だった。
「葛西さんは病み上がりの身体なんです。その辺りをよく考えて下さい」
大岩がやってきて注意した。
いつもの微笑を浮かべずに。
「いや、実に素直でいいね。大岩先生はああ言ったけど気にしないでその調子で頼むよ」
クックックと笑いながら、楽しくってしょうがないという感じで葛西は言った。
大岩に注意されたばかりだが、もう退会するのだから関係ない。
尚志は思い切り伸び伸びと技をかけた。
今度は葛西も巧みに受けを取った。
一般稽古が終わると、葛西の周りには再び人の輪ができた。
「腎臓を一個取った割には元気そうだね。これからジャンジャンバリバリ稽古しよう」
黒田が言った。
「一応はずっと心配していたけど、心配しただけ損したな」
佐嶋が言った。
「顔色も動きも悪くない。今夜は地麦で快気祝いだな」
伊勢が言った。
皆の言葉から推測するに、葛西はどうやら地麦グループの一員だったらしい。
葛西は彼らの言葉をニコニコと聞いて、
「心配かけてすまなかったね。皆も元気そうで安心した。しばらく来ないと面子がずいぶんと変わるね。今日は才川さんはお休みかい?」
と言った。
瞬間、周りの空気が凍った。
「……才川さんの話は後で地麦で説明する。それより、さっきは派手に投げられていたじゃないか」
黒田が言った。
「ああ、道場で一番目立っていたよ。ズルい」
佐嶋が言った。
「そうだ、紹介せねば。この恵まれた体重の彼は地麦グループの期待の新人、
伊勢が言った。
「そうか……。せっかく知り合えたのに。そうだ、尚志くん。俺と相撲を取らないか。思い出づくりのために。後は俺がどれだけ回復したか知りたいから。なあ、いいだろう」
葛西は言った。
――いいじゃないか。
――面白そう。
――やれやれ。
――誰か行司を頼む。
道場のあちこちから無責任な声が聞こえてきた。
馬鹿らしいと思った尚志だが、馬鹿げた道場に相応しいと思い直した。
上の道着を脱ぎ捨て、四股を踏んだ。
「う~ん、今日は気合十分です。
と、佐嶋がアナウンスをすると周りの皆が”ドッ”と笑った。
改めて向かい合ってみると、両者の体格差はまるで大人と子供である。
まるで旧約聖書におけるゴリアテとダビデのよう。
お互いに呼吸を合わせてがっぷり四つに組み合う。
その直後に尚志は転がされ畳に寝ていた。
<え!? これはなにかの間違いでは!?>
気が付いたら倒されていたのだからそう思うのも無理はない。
ギャラリーからは歓声が上がった。
なにせ小兵が大兵を倒したのである。
こんな痛快な見世物はない。
「どうした? 遠慮はいらないよ。もっと本気を出して」
ニコニコしながら余裕の葛西。
「もう一番願います」
顔を真っ赤にしてムキになっている尚志。
再び組み合うが今度も尚志は倒された。
完全に頭に血が上った状態でぶちかましをするとヒョイといなされる。
葛西がヒョイと尚志の胸を押すと、数メートルも後ろに飛ばされた。
ギャラリーからは再び大きな歓声。
<ならば付け焼き刃だけど空気投げを決めてやる!>
尚志は葛西の
あたかも根が生えているが如く、巨大な岩の如く。
「クックック、相撲だと言ったのに。襟を掴むのは反則だね」
葛西がそう言うやいなや、尚志の巨体は宙に舞った。
完敗だった。
手も足も出なかった。
子供扱いされた。
才川のフリーとはまた違う強さを肌で感じた。
尚志は起き上がる気力もなく、畳に寝転がったまま。
いつしかギャラリーたちもどこかへ行ってしまった。
黒田たちを見るとすでに自主稽古を始めていた。
「まあ、最近の子供は相撲を取らないからね。俺がガキの時分には娯楽は相撲を取るくらいしかなかったんだ。その差が出ただけだから」
葛西が慰めた。
「いやいや、それだけじゃないはず。絶対に他に何かやっていたでしょう」
あれだけ完膚無きまでにやられて納得できるわけがなかった。
「あ、やっぱりわかっちゃう? 実は大東流の他にイケンを習っているんだ。意識の意に拳法の拳で
「知っています! どうりで同じ中国拳法使いの伊勢さんと少し身ごなしが似ていたんですね」
尚志は興奮した。
まさか憧れの拳法の名前がここで聞けるとは。
同時に葛西の強さの秘密が理解できた気がした。
「君はなかなか見込みがあるよ。どうだ、一緒に意拳をやってみないか? すぐに強くなれるよ。俺が保証する。毎週日曜の午前に練習しているんだ。もし気になるならよく考えて、次に会った時にでも返事を聞かせてくれ」
「今ここで返事をします。是非お願いします」
「よし決まった。なら今日は土曜だから明日から早速稽古だ」
こうして尚志は意拳に入門することになった。
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