昔はよかったね
やるべき事が山積みで尚志はうんざりしていた。
専門学校受験のための手続きと試験勉強。
無事に合格したら今度は学費の捻出と金策で駆け回る日々。
大好きな稽古をする暇もないほど忙殺されていた。
すでに蒼天会をやめることも皆に告げていた。
夜学なので、四月になれば蒼天会の稽古にはもう出られない。
結局は合気という摩訶不思議な術は身に付かなかった。
それでも就職浪人の尚志をあたたかく迎えてくれた。
汗と涙を流し、青春を捧げたかけがえのない場所。
未練はあるが、最後まで悔いのないように懸命に稽古をしようと心に決めていた。
しかし久しぶりに道場に出てみると稽古のシステムが変わっていて、尚志は戸惑った。
以前は好きな人の列に並べたのに、新しいシステムではそれができない。
弟子たちは稽古が始まると時計回りに列に並んで行く。
たまたま当たった列で一日ずっと稽古をするシステム。
一応は袴を履いている高弟だが、才川や黒田以外の列に当たると技術や気迫が雲泥の差なのは明らか。
才川の列に当たるよう願ったが、その日は才川もお休みらしく姿を見かけなかった。
黒田もいるにはいたが、彼の列には当たらなかった。
代わりに、普段から尚志が見下していた袴の列。
入門した時期が古いことだけが取り柄の、口だけは立派な哀れな古参の高弟。
当然、尚志は憤懣やるかたない。
貴重な時間とお金を費やして来ているのに、どこの列に並ぶかは運任せ。
納得の行かぬまま一般稽古は終了した。
「一言で説明すれば男の嫉妬ってやつだ」
地麦で黒田が蒼天会の現状を話してくれた。
まとめると内容は次の通り。
そもそも才川の実力は誰よりも抜きん出ていた。
だから合宿では多数の外国人から教えを請われていた。
尚志が稽古に来なかった間に、才川の列は大人気になった。常時、二十人は超えていた。
対して、才川より先輩の高弟たちの列は二~三人程度。
才川は気を使い、何人か他の列に行くように促した。
数人の弟子が従った。
列に並ぶ弟子たちのバランスは整ったが、先輩の高弟たちはそれで良しとしなかった。
才川に言われて並んだ弟子たちは明らかに古参の高弟たちを舐めていた。
プライドが傷つけられた高弟たちはより一層才川を恨んだ。
彼らは実力がなくても大岩鉄之進宗師の側近であり取り巻きでもある。
ある日のこと、ガラの悪いチンピラっぽいのが入門してきた。
一般稽古が終わるとそのチンピラはよせばいいのに才川のフリーに興味を示した。
「自分にも通用するか試してみたいので俺が怖くなければお手合わせを」と。
入門したばかりの素人が取るべき態度ではない。
当然ながら才川は断った。
「君はまだ受け身ができていないので怪我をするのがオチだ。責任は持てないので悪いが遠慮してくれ」
しかし血気盛んなチンピラは納得しない。
「お高く止まってんじゃねえ! このインチキ野郎!」
暴言を吐くと才川に殴りかかっていった。
どんなに粋がっていても所詮は素人。
本職の才川に不意打ちが通じるはずもない。
気がつけばチンピラは畳に転がって失神していた。
問題はこれからだった。
後日、
もちろんチンピラごときの恫喝に屈するような蒼天会ではない。
しかし日頃から才川の存在を疎ましく思っていた古参の高弟たちはこれを利用した。
「仮にも袴を許された高段者が素人に怪我をさせるとは言語道断。そんな未熟者は蒼天会に相応しくない」
と強く訴えた。
彼らは大岩に詰め寄り、一方で才川を責めた。
才川は責任を取ってここを去った。
言い訳を一切せずに。
彼を慕っていた堀内もやめた。
才川を追い出すことに成功した奴らは稽古システムの変革に手を付けた。
建前は、列に偏りがないように。色んな人の技を受けられるように。
本音は、人気がない自分たちの列にも弟子たちが強制的に並ぶように。
奴らの企ては成功した。
「そんな経緯があって今日のような稽古になってしまった。尚志がいなかった間の出来事だ」
黒田は言った。
あまりの事に尚志は口も聞けなかった。
混乱、呆然、怒り、悲しみ。
これらが一度に襲いかかってきてどうしたらいいかわからない。
「まあ、尚志はこれから学業に専念するから関係ないかもしれない。だが俺たちは違う。こんな状態には耐えられない。そこで日曜日に有志を募って自主稽古をすることにした。どこかの道場を借りてな。尚志も学校が落ち着いたら参加してくれ」
黒田が言った。
「はあ」
まだ混乱している尚志は気の抜けた返事をした。
「才川さんのことは残念だ。尚志も才川さんの秘蔵っ子と言われるくらい面倒を見てもらってたから気持ちはわかるつもりだ。もちろん俺も才川さんの味方になって弁護をした。大岩先生も取り巻き共の意見はキッパリと退けたんだ。しかしこうした騒ぎに嫌気が差したのか潔く身を引いてしまってな。俺自身も嫌気が差している。果たして今の蒼天会に籍を置く価値があるのかどうか……」
最後の言葉をつぶやくように黒田は言った。
それからどうやって帰ったか尚志は覚えていない。
いずれ専門学校に通うから皆と別れるのは確かだがこれは不意打ちだった。
せめて才川と堀内には挨拶をしたかった。
こんな別れ方は寂しすぎる。
尚志の居場所だった蒼天会はその輝きを失っていた。
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