いいニュースと悪いニュース
蒼天会に入門して約三年。
明日はいよいよ黒帯昇段となる記念すべき日になる。
大東流合気柔術初段。
来月に控えている警視庁採用試験にはずみがつくことだろう。
全ては順調。
だが尚志は、
「ふう~」
と大きなため息をつくと頭を抱えた。
数十分前のこと。
尚志が家でくつろいでいると電話がかかってきた。
受話器を取ると、聞き覚えのある声。
「もしもし、南郷さんのお宅? 尚志くんはご在宅で? ああ、お前か。懐かしいな。オレだ。そうだ、
ほぼ一方的にまくしたてるとブツッと電話は切れた。
水戸光則という男は尚志にとって悪夢でしかなかった。
小学校のクラスのボスで悪ガキ。
当時から体も大きく、悪知恵もよく働き、子供たちから怖れられていた。
彼は病弱で気弱な尚志に目をつけた。
何かと言いがかりをつけては金を巻き上げ、プロレスごっこと称しては危険な技をかけていた。
幸い、中学校は学区が違うので別れることができたがその時に植え付けられた恐怖と屈辱は未だに尚志の中でくすぶっていた。
今回の電話によって昔を思い出し、呼吸が乱れ吐き気が襲いヒザが震えて尚志の気分は底なしに沈んだ。
多少、強くはなったがケンカしたら勝てるだろうか。
警察の採用試験を控えているのに事件になったら?
考えてみれば警察官志望がいじめっ子からの脅しで相談するのはおかしい。
それに奴は一応は勉強会という名目でお金を取ろうとしている。
だがあの地獄の日々がまた続くくらいなら、いっその事……。
散々思い悩み、尚志はとうとうケンカの覚悟を決めた。
しかし、勝ったとしても負けたとしても面倒なことに変わりはなかった。
――次の日。
「それでは尚志の初段獲得を祝って、カンパ~イ!!」
地麦ではいつものメンバーが尚志を祝福していた。
しかし、尚志の表情は暗いままである。
「どうした? こんなにめでたいのにシケた面して。さては失恋でもしたか」
見るに見かねて黒田が言った。
「いや、この渡された黒帯なんですが。よく見ると真ん中の辺りがほつれていて。一生の記念になるものが杜撰な作りなのでがっかりです」
尚志がそう言うと一拍置いて居酒屋の中に爆笑の嵐が巻き起こった。
「黒帯なんてボロければボロいほどいいんだぞ。おニューの黒帯なんて舐められるだけじゃないか。ワッハッハ」
と黒田が笑った。
「フフフ、俺たちの黒帯を見ているだろ。擦り切れて色が落ちてすでに灰色になっている。どれだけ黒帯を締めて稽古してきたかの証だ」
と才川が言った。
「真新しい黒帯はかっこ悪いから、わざわざ石でゴシゴシとこすりつけるのだって珍しくないのに。まったく尚志は。ヒヒヒヒ」
と佐嶋が言った。
そしてひとしきり皆で笑った後に、話題は高田とヒクソンのどちらが勝つかに移った。
皆が熱い予想を戦わせている中、一人暗い顔の尚志は目立つ。
「なあ尚志よ、本当は何に悩んでいるんだ? 力になってやりたいが言ってくれなきゃ始まらないな」
伊勢が言った。
「その……、近いうちに、僕はケンカするかも知れません……」
自分の苦悩を誰かに吐露したかったのは事実だが、イジメられていた過去は恥ずかしくて口に出せなかった。
「ふ~ん、でも相手を殺しちゃダメだよ」
「へッ!?」
意外過ぎる伊勢の言葉に尚志は素っ頓狂な声を上げた。
「いくら黒帯になったってまだまだ生兵法。この段階の強さの奴らは自分の強さを証明したくってしょうがないのと手加減できる余裕がないのとでついウッカリ殺しちゃうんだ。ちょうど尚志くらいのレベルが一番危ない」
「本当ですか? 僕が殺す? まだ技だって未熟なのに」
尚志は反論した。
自分に人を殺せる力があるとは夢にも思えなかった。
「いいや、尚志の体格なら技なんか要らないはず。踏みつけるだけで死んじまうさ。毎回、尚志とやり合っている俺が言うんだから間違いないって。蒼天会から殺人犯が出るのもまた一興。とにかくケンカが済んだら結果を教えてくれ。勝つにせよ負けるにせよ楽しみだ、へっへっへ」
心底楽しそうに伊勢は笑った。
――三日後の正午。
子供の頃の遊び場だった
一人は南郷尚志。
身長177cm、体重111kg。
大東流合気柔術蒼天会初段。
この物語の主人公。
もう一人は水戸光則。
子供の頃はいじめっ子。
特徴のある三白眼をサングラスで隠している。
身長はおそらく173cm、体重は約70kgというところか。
右の前腕にこれ見よがしのタトゥー。
スカジャンの袖をまくってアピールしている。
「ずいぶんとデブになっちまったな、アアン。で、会費は持ってきたか? オレ様の指導はちっとばかり荒いから動けるうちにさっさと渡せ」
水戸は巻き舌で尚志を脅した。
<アレ、コイツからまったく怖さを感じない>
久しぶりに会った水戸の印象は雑魚のチンピラ。
尚志が蒼天会で成長したからだろうか、それとも水戸が弱くなったのだろうか。
<コイツなら楽勝>
尚志ははじめから水戸を完全に飲んでいた。
なので水戸の脅しに対し、
「フンッ」
と鼻で笑ってしまった。
「おっ、オレ様に対してそんな態度を取って後悔するなよ」
水戸は吠えた。
尚志は才川がフリーでよくやるように、クイクイと指を動かして挑発した。
「野郎~!」
激昂して突っかかって来る水戸に対し、尚志は自然体の構えをとった。
何かを感じたのか、途端に水戸の動きが止まった。
<さて、どう料理してくれよう。
佐嶋さんのような
もはや、技の実験台でしかない水戸は恐怖の対象ではない。
尚志は目を半眼にし、すり足でゆっくり水戸に近づいていく。
「クッ。ちょっと体がでかくなったからっていい気になるなよ」
そう捨て台詞を吐くと、水戸は一目散に逃げ出してしまった。
一人残された尚志は予想外の展開に戸惑うばかりであった。
数日後、このケンカの顛末を地麦で話したら大受けだった。
「それは
黒田は我が事のように喜んだ。
「俺たちが南郷くんに教えた技は危険すぎるから素人に使わないほうがいい。今回のは
才川は尚志を諭した。
「僕を置いてあまり強くなっちゃダメだよ。イッヒッヒ」
佐嶋がおどけて言った。
「その時のやり取りを今度また俺を相手に再現してくれ。尚志の位詰め、ぜひ味わってみたい」
伊勢が興味津々で頼んできた。
その夜の酒はいつもよりも格段に旨く飲むことができた。
イジメられていた過去と決別できたのだ。
「マスター、大生をもう一丁」
尚志の大きな声が店内に響いた。
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