第一章 大東流合気柔術
道場見学
目的地は区営のスポーツセンターの三階にある武道場。
晩秋の夕方ともなればすぐに暗くなるが、稽古の始まる三十分前には無事にたどり着けた。
道場の入り口にはすでに道着に着替えた弟子が何人かいた。
その内の一人に見学に来た旨を話すと、道場の畳のない壁際のスペースに案内をし、椅子まで用意をしてくれた。
「
弟子はそうにこやかに告げると、畳の上でストレッチを始めた。
どうも見学者を案内するのに慣れている感じがするのは、それだけ見学する人が後を絶たないからかもしれなかった。
それを証明するかのように、また見学希望者がやってきた。
「ねえ、パンプキン。本当に面白いの? つまらなかったらすぐに帰るけど」
「心配すんなって、ハニー・バニー。俺を信じろって」
声のする方を見ると、学生服をだらしなく着崩したカップルが目に入った。
二人ともそろって茶髪、ピアス、腕にタトゥー。
どうも道場にはミスマッチである。
二人組みが椅子に座ってペチャクチャ喋っていると、突然道場の空気が引き締まった。
大柄の体を白い道着に黒の袴姿に包んだ達人。
すなわち
周りを静かに圧倒する存在感はただの老人が出せるものでは決してない。
そして大岩は見学スペースに向かってゆっくりと歩いて来た。
「初めまして、
尚志は椅子から立ち上がり、頭を下げお礼を述べた。
二人組みも同様に頭を下げた。
「見学者の方たちですね。こんばんは。この稽古を見学することで何かを感じてくれたら嬉しいです。ではまた(微笑)」
大岩は笑顔でそう言うと道場の真ん中に正座した。
すでに弟子たちは全員が正座している。
互いに礼をすると大岩の顔から笑みが消え、真剣な表情に変わった。
そこには穏やかな好々爺ではなく、武を極めた達人がただ独り座っている。
号令がかかると、一列になった弟子たちが順番に正座している大岩の両手首を掴みに行った。
大岩が掴まれた手首を無造作に振るうと、弟子の首が一瞬ムチ打ちにでもあったかのようにガクッと後方に仰け反った。
これは一体?
まるで電気ショックを受けたとでもいうのか?
尚志は不思議に思った。
さらに奇妙なのは、ムチ打ちのように首に衝撃を受けた弟子たちはアクション俳優並みにきれいに一回転して受け身を取っている光景だった。
柔道のようにベタッ、ズシーンッと重い受け身ではない。
皆が軽やかでアクロバティックな受け身を取っていた。
最後尾の白帯の弟子が技を受けると、
道場には4つのグループができ、それぞれの列で今受けたばかりの技をかけたり受けたりしていた。
列の順番は袴、黒帯、茶帯、白帯。
先頭の弟子が技を一通りかけ終わると最後尾に並び、二番目の弟子が先頭になってまた技を一巡するまでかけていき、次は三番目の弟子が先頭になる。
こうして全ての弟子が技をかけ終わると、その列は動きを止める。
動きの止まった列に気付いた大岩が列の先頭に立ち、今度は違う技をかけていく。
列のすべての弟子に技をかけ終わると、そこで列は一巡するまで技をかける。
その間に大岩は動きの止まった列に教えに行く。
稽古の流れというかシステムはこのような感じだった。
二十分近く経った頃、ハニー・バニーと呼ばれていた女が突然椅子から立ち上がった。
「どうした? トイレか? 場所はわかるな。ここで漏らしたらシャレんなんねーからな。ギャハハ」
パンプキンと呼ばれていた男が下品に笑った。
「私、帰る! あんなんで人が投げられるわけないじゃない! インチキ! 八百長! 時間を無駄にしたわッ!」
道場中に響き渡る声でハニー・バニーが叫んだ。
何事が起きたのかと、弟子たちは一斉に稽古を止め声のした見学席を見た。
「待てよ、ハニー・バニー。声が大きいから俺らは注目の的になっちまった。なあ、喧嘩で無敗のウルフ先輩がこの武術を習っていたって噂は聞いたことがあんだろ。俺はパンプキンの二つ名に賭けて見極めなきゃなんねえんだ」
「ならアンタ一人で見てれば」
冷たく言うとハニー・バニーは早足で道場から出て行った。
「オイ、待てって! わかった、俺が悪かった。なんか奢るから機嫌直せって」
パンプキンもハニー・バニーを追って道場から出て行った。
バカップルの二人が出て後、道場は何事もなかったかのように活気を取り戻した。
技の種類も段々と激しいものに変わっていった。
座り技から立ち技へ。
投げ技から固め技や絞め技へ。
なるほど、大岩の繰り出す技はハニー・バニーの言を借りれば確かにインチキで八百長にしか見えない。
しかしこれだけの弟子たちがインチキに月謝を払い、貴重な時間を費やすものだろうか。
尚志は考え込んだ。
実際に自分の目で見ても半信半疑であった。
絶技を目の当たりにしても疑わざるを得ない。
「見ていてもインチキとしか思えないでしょう?」
いきなり後ろから声をかけられ、驚いて振り向くと大岩が尚志のすぐ後ろに立っていた。
「いいえ、そんな事は……まったくもって……微塵も……」
本当は少しだけインチキかも、と疑っていたが尚志は全否定した。
「見学もいいけど体験した方が納得出来ます。あなた、今から私の手首を掴みなさい(微笑)」
自信があるからこその大岩の言葉である。
少しの間、躊躇したが尚志は椅子から立ち上がり大岩の両手首を掴んだ。
「もっともっと! あなたはそんなに大きな体なのにそれしか握力がないのですか? さあ、もっと本気を出して!」
ならば、と尚志は全力で握った。構うものか。手首が握りつぶされても知ったことか。
「エイッ!」
ギュッ!
と両手に力を込めたその時、大岩の手首が前方に半円を描くようにスッと上がった。
フワリ。
尚志の巨体が浮いた。
得体の知れない力が尚志の手首から肘、そして肩から首へ伝わった。
大岩は技を解いた。
苦しんでいた尚志は解放され、たまらず椅子に座った。
「今の技を
そう言った大岩は道場に戻るやいなやこれでもかと絶技を繰り出し、弟子たちは片っ端から吹き飛んでいった。
八時半になると大岩と弟子たちがお互いに向き合って礼をして稽古が終わった。
大岩は道場の奥の床の間のようなスペースへ引っ込んだ。
残った弟子たちは帰り支度をする者、いくつかのグループに分かれ自主練習を始める者と様々であった。
「あの、今日は見学させていただきありがとうございました。技まで体験できるとは思いませんでした」
道場の奥に引っ込んだ大岩を追って尚志は礼を述べた。
正直、入門するかどうかはまだ迷っていた。
「いかがでしたか? 何かを感じてくれたら身に付かなくてもきっとあなたの財産になるはずです。それではご縁があればまたお会いしましょう(微笑)」
てっきり入門を強く勧められるかと思っていた尚志にとって、大岩のこの言葉は予想外だった。
しかし後になって思い返すと、このさりげない言葉こそが入門を決意させたのだ。
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