292
夢三縞の大社鳥居をくぐる。
先ほどまでいた神域は厳かな静けさに満ちていたのだが、神域の外はまた違う意味で静かだった。
気持ち悪い静けさ。
「いくら地方の町だと言っても異常だね。人っ子一人見かけない。車も一台も通らないなんて」
「見慣れた街。でも、廃墟のような。ここに一徹様が本当にいらっしゃるのかすら、危うくなってきました」
まるで世界中の生き物が滅びてしまったかのような。
自然溢れて緑と清水の調和、そしてノスタルジー感じさせる夢三縞は、風景に一見変わりがないのに、人が滅亡したのち木々が町を支配しているように思わせた。
「山本君の居所だけど」
「一番可能性が高いのはやっぱり《三泉温泉ホテル》でしょうけど。三縞をモチーフに作るしかなかった夢世界。なら居場所について一番思い入れがある場所でしょう。或いは三縞校」
「だろうね。三縞に置いて一徹の世界を構成するものは2つ。シャリエールと、私たち山本小隊が一徹とともに己が居場所にした《三泉温泉ホテル》。そこは三縞における一徹の
「《第三魔装士官学院三縞校》だね。なんか、もう何年もその名を口にしていないように感じる」
「どうします?」
「まずは三縞校から行ってみよう。きっと本丸はホテルだろうけど、いきなり訪ねるのは危険かもしれない。私達の町だし勝手知ったる。道もわかっている以上、情報を集めておくのはどうだろう」
がらんどうの夢三縞で最初の目的を決めた三人は歩き出す。じゃりっという道の小石を引きずる音が、嫌によく響いた。
――三縞大社から《第三魔装士官学院三縞校》まで、しばらく緩やかな登り坂。
初夏は堪らず臭いが、秋は爽やかな香ばしさ香るいちょう通りをもう何ヶ月通ったか。
「……三縞市立男子高等学校?」
だから、ロケーションで違えるわけがない。
ゆえに唖然だ。
一徹、魅卯の三縞校は無いのだ。
校舎のフォルムは全く同じで、看板や校章だけが違う。
「いや、わかっていましたよ? 本格的にあの女がぶっ壊れているくらい。でもここまで来てしまう。もはやただのヒス女じゃないですか」
「一徹を誘惑しうる芽を、まずは摘んだか。若い女。三縞校から全女子訓練生が除かれている世界。ゆえの男子校」
学校とか言うのに、やはり人の気配がない。
不気味さを感じつつ、頷きあった三人は正門を抜けようとした。
そこで、ルーリィは口元に人差し指を当てた。
黙って動きを魅卯とシャリエールが止めたのを認め、地面に手のひらを向けて上下した。
「身を低めて行こう」と、言っているらしい。
従ってしゃがみながら通り抜けたのは正門すぐの守衛室だった。
「いよいよ薄ら怖くなってきたね」
十分に離れて三人は木々の陰に隠れる。ルーリィが先程の守衛室をチョイチョイ、人差し指を向けて……
「ッ〜〜〜ッ!?」
魅卯なぞ、あまりの驚きに口を両手で塞いだ。
でなければ、叫んでしまいそうだったから。
守衛の初老の男性。
三人とも見覚えがある。《第三魔装士官学院三縞校》に同じ顔立ちがいるのだ。
ピクリとも動かない。身体も、顔も。
ただ室内の椅子に座り、窓越しに外を向いている。
それだけ。
生きているか死んでいるかも定かではない。
マネキンのように。蝋人形のように。
なんなら、呼吸をしていないように見えた。
「な、何あれ……」
「わからない。が、先に進んでみよう」
恐れは魅卯のみにあらず。
ルーリィもシャリエールも、胸騒ぎを唾飲むことで腹に抑えながら、校舎へと向かう。
そうして……
「こ、コレは……」
「一徹様の記憶とは、また違う意味で異様ですね」
校舎内、まざまざと、三人は見てしまう。
学年それぞれワンフロアずつ。すなわち一階層毎に各学年の教室が三クラスあった。
女学生が存在しないから、各教室の人数は魅卯たちが知るより半数。
これもいい。
やはり、 誰も動かない。
生徒会長の魅卯は学生全員の顔と名前は一致している。
一人としてもれなく席についている。背筋をシャンってのばし、両肘は机に。
無表情で黒板に向かう。
待てと。
教師が立っているわけでもない。あまつさえ、黒板に何も書かれていないのに。
一階、一年生。
二階、二年生。山本組の古参幹部5人衆同様。
三階に上がった。
まずは御剣某はじめとした名門一組。
魅卯の所属学級から、そっくり女子がいなくなった2組には、《ガンス》こと水無瀬凍矢を筆頭とした《月城魅卯親衛隊》の5人。
果ては……
「選りすぐりか、意図された寄せ集めか。ただでさえ人数が少なかったから、目立つね」
「一徹様以外は正直どうでもよかったんですが、流石にこれを見て揺れますか。案外、ちゃんと担任だったんですね私」
「と、刀坂君……皆……」
綾人はいる。
でも富緒はいない。
正太郎もいて斗真がいるのに、ネコネはいない。
……灯里がいなかった。ヤマトがいるなら、彼女は傍にいなければならないのに。
ちなみに、可哀想に男子のはずだが有希もいなかった。
―許さない。リングキー。私たちの宝物を弄んでくれた―
やっぱり三組は男子だけ。
他のクラスと同じように佇むのを見せられ、ルーリィは歯噛みして拳を握りし……
「……えっ?」
いや、マネキンならぬ微動だにしなかったそれらが急にガクガク全身を言わすのだから殊更気色悪く、不安が過った。
「何かおかしい! 身を隠す! 一旦屋上に上がろう!」
なんども極限を潜ったからこその瞬時の判断だった。
ルーリィが張り上げたのに反応したシャリエールが動き出す。
魅卯の手を握って、先を行くルーリィの背中を追って走った。
――こんな展開、三人が予想できるはずが無い。
『あ〜山本さん、随分ご無沙汰していましたね』
『あ、どもぉ。そだ、これ良かったらどうぞ。幸治郎餅お好きでしたよね』
『おっ、大社の、銘菓の。菓子には目がなくてね。茶菓子として頂きますよ』
先程の大社でヴァラシスィから話しかけられて以降、三人は初めて三人以外の声を聞く。
……それに……
「「「……一徹/一徹様/山本さん?……」」」
とうとう校舎の屋上から三人は、遠目からでも再会できた。
眼下は先程通り抜けた守衛室の前に立つ、二人を引き連れた今の一徹。
三十代後半に差し掛かり、肌に張りは失われこそしすれまだまだ活力は漲っている。
朗らかで明るく優しい雰囲気は、周囲数メートル範囲内の空気をポカポカ温めているようにも見えた。
『それで、今日はなんの御用で?』
『校長、教頭の両先生と、ヤマト君、アヤト君、トーマ君。それに担任の先生に挨拶を。暫くウチの宿目玉の観光客への武道レクチャーは休むことにしました。講師としてイケメン三人に手伝ってはもらいましたが、どうやら彼らの卒業前に再開は出来なさそうで』
『あぁ、そういうことですか。後ろの……ですね?』
『まだチョット夢みたいなんですが』
それ故のおかしさは勿論あった。
『一徹さーん!』
守衛と話していた一徹に向かって声を上げ嬉しそうに駆け寄って行く者。
ヤマトだ。
その後ろから、ヤッパリ走ってきたのは笑みを浮かべた斗真。仏頂面の綾人。
一徹は言及しなかった正太郎まで。
「ちょっ!?」
「気づいたかい魅卯少女」
「さっきまで、ピクリとも動かなかった彼らが、生き生きてしている。本当に、生きているように」
それがおかしさの正体だ。
『山本さーん! アメフト部の差し入れあざーす!』
『今年の文化祭でもスポンサーあなしゃーす!』
屋上ゆえ彼女たちは身を乗り出すことは出来ないが、恐らく校舎窓から何人もがハキハキと声かけているのが聞こえた。
『お前たち! 教室に戻りなさい!』
動かなかったはずの守衛が放った怒声に、「チェッ」だの「もうちょっと良いじゃん」とブーたれるあと、また校舎内は静かになった。
『いや、でも良かった。母子ともに無事だったんですね』
『あぁ、まずはそれが一番の何よりだよ』
『フン、父親に似ないことを願うばかりだな』
『コラ、イタズラにそんなことを言うもんじゃない』
『まぁ、一徹さんがおおらかだから繋がる縁もあるだろう。感謝はしなくてはな』
周りが静かになったから、聞こえる。
「いま……なんて言ったの? 『母子共に』って……えっ?」
聞きたくないことも。耳に、入ってしまう。
『もう、名前はあるんですか一徹さん?』
『名前? あぁ、この子の名前は、えっと……』
思いもしなかった話題になるではないか。
それを耳に、一徹が連れたのは二人ではなかったと三人は知る。
夢三縞のヤマトに問われた一徹は、朗らかな笑みから、どことなく引き攣ったような。
急に、答えに窮するような反応を見せ……
『徹新です刀坂君』
『テッシンと言うんですね』
『山本・サイデェス・徹新。私達2人の息子です』
「「「ウヅゥッ!?」」」
一徹が連れていたのは、やはり三人にとっての魔女、リングキー・サイデェス。
まだそれだけなら良かったのに。
あまつさえ、二人の間に子供が出来ていたなどと言ったなら。
『フン、将来の苦労が見えたぞ。この男の面影を受け継ぎおって』
『この子に謝りたまえ蓮静院。リングキーさんにも似ている。きっとモテるさ』
『うん、正太郎も併せ、二人共普通に、盛大に失礼だから』
『幾ら寛大だからと、いつか一徹さんとの縁を壊すぞ。一徹さんを怒らせたら、俺たちは三縞で生きていかれない事はわかって置くべきだ』
『いや、イヤイヤイヤ。俺が一体、どれほどのもんよ』
後ろに立って談笑に加わったリングキーは、腕の中に赤ん坊を抱いていた。
「許さ……ない。あの女は、決して冒してはいけない一徹の聖域にまで踏み込んだ」
「徹新って、その名前……だって彼は、目覚めた世界に……」
「似てはいけない。似ている徹新様はもはや一徹様の徹新様ではない。徹新様は、一徹様の血を引いてはいないのに……」
「「リングキー……サイデェスッ」」
軋む音が聞こえる程にギッと歯を食いしばったルーリィとシャリエール。殺意が詰まった、声にならない怨嗟は重なった。
瞬間……
「抑えて二人ともっ」
正門に立つ三人目。ヴィクトル・ユートノルー。
彼はまさしくその場から、魅卯らがいる校舎屋上をキッと見たのだ。
息だけの発言。声は出してない。
なら、二人が漏らした感情に反応したに違いない。流石は凄腕と言わざるを得ない。
『ヴィクトル殿、どうしたのです?』
『少し用事を思い出しました』
『用事? 私の知らない用事など、貴方にはないはずですが』
『旦那様、宜しいか?』
『うん? ん、こっちは他の先生方と会えたら別で帰るよ』
『ありがとう御座います』
一人、一徹達から離れて歩くではないか。
その背を眺める一徹の死角であることを良いことに、リングキーは忌々しそうに歯噛みした。
「この場はここまでかもしれないね。離れよう。身を、隠さなければ」
多分、ヴィクトルはこの場所までやってくる。
無条件で確信した三人は、彼が到着する前にその場をあとにした。
◇
「やはりなにかいたようだな。それもどうやら、この世界の者ではないらしい。一見当たり前のような事がこれほど目に付くとは。寧ろ、おかしいのは存外、この世界の方かも知れんな」
ヴィクトルは、もぬけの殻となった校舎屋上にたどり着いた。
「抜け毛など当たり前にそこかしこに落ちているもの。だというのに、ついぞ俺には見た記憶がない。そしてこの色数。恐らく3人と言ったところか。確かこの色は……」
やっぱり何かに勘付いていたのだ。
指に摘んだ抜け毛は三色。一本ずつゆえどれも光透かすと透明にも白にも見えるが……
「栗毛、青い髪に黒。そして俺は、どこかでその所持者を目にしたずだが……」
◇
「一回整理しよう。この夢三縞について」
男子校の裏手には小さな滝、河川に沿った広い公園がある。
その女子トイレに身を隠した3人の中、呼びかけたのが魅卯。
「と、その前に、一徹の呼び方を改めたいと思う。私たちがこの夢三縞で見た一徹は、私たちも魅卯少女も馴染みのないものだから」
「穢れを知らぬ雰囲気でしたね。手を血に染め人を殺めたなら絶対に醸せぬ様相。もしカラビエリが誤らず、山餅魔鎖鬼を送っていれば私達の世界を知らぬまま歳を重ねたのがあのお姿でしょう」
「そして齢40に届きそうな彼は、私の知る山本君と指し示すに抵抗があるよ」
「別にあの一徹が私達の一徹じゃないと言いたいんじゃない。絶対に目覚めさせてみせる。だが、便宜上、フルネームで呼ぼうと思う」
ついで出したルーリィの提案は全会一致した。
「フランベルジュ教官の予測の通りだと思う。夢三縞はリングキー・サイデェスの都合良く作られた世界だとヴァラシスィ様は言っていた。そして本人の雰囲気。私達との出会いとそれからの出来事をゴッソリ抜き取ったんじゃないかな」
「女っ気の無い一徹にベッタリなリングキーと、二人で過ごし暮らす日々か」
「あの女は私たちの世界における一徹様の1年目に手放した、一徹様との人生を取り戻そうとしている。きっとなにか催眠術の類を一徹様に掛けているでしょう」
「考えられないことではないね。斗真はまだ若いとして、灯里、ネーヴィスと、妖王の姫君と筆頭側付きすらコントロールした実績がある」
「ねぇ、もう一度確認していいかな?」
分析後、魅卯はゆっくり手を挙げた。
「本当に、山本一徹を目覚めさせる。それでいい? 先に言っておくと、私はそうする。罪悪感がないから」
「そう言われると聞きたくないですね。決心が鈍ったらどうします?」
「いや、聞こう。山本一徹ごとに関しては全て覚悟した上で臨むと決めた」
「もしこれが仮に……山本一徹にとって都合の良い世界の場合……」
魅卯の疑問に、二人は身体を波打たせた。
「住んでいた村が焼かれ奴隷に墜ちたフランベルジュ教官にとって救ってくれた彼は眩しかった……そもそも村が焼かれない未来があったら?」
「まさか……」
「ご両親が早逝して慣れない伯爵業によってトリスクト伯爵家は没落仕掛けた。でも、彼が助けてくれたことと、もしご両親が健在だったら。天秤はどちらに傾く?」
「そ、それは……」
「私ね、目覚めのセカイで山本君が山本さんに戻ったとき、転生したリングキー・サイデェスの姿を追い求めていたのを実際に見ているんだ」
言いたいことが伝わっているか、二人の顔色を魅卯は覗いた。
「それが罪悪感の正体か。この世界はリングキーだけでない。彼女が一徹の心を救うために見せた理想郷」
「彼女は私たちに一徹様を奪われたと思った。私達との今は、私達が一徹様を傷つけた結果なのに。だから奪い返してみせた。私たちには決して与えられない癒しすら施して」
「さぁ、それを更に奪還しようと言うんだ。目覚めさせることは、一徹に思い出したくない現実を叩き込む。私たちとともに三縞校に通っていた一徹なら、そんな展開のライトノベルは遠ざけるだろうね。『なぜ、物語の世界でまで暗いストーリーをなぞらなきゃならない』って」
「でも、やるんだ?」
「「やるよ? /やりますよ?」」
だが、どうやら聞くまでもなかったらしい。
「仮に一徹様が平穏無事を望んだとしても、私たちのこと、徹新様のこと、月城生徒会長のこと、私たちの世界と月城生徒会長の世界での一徹様についてきた者たち、想い……一徹様が捨てるにしてはあまりに大きすぎます」
「それは記憶を失った前と後、全ての彼の人生を形作るセカイなのだから」
肚など、2人はとっくに固めていた。
☆
「もう、良いのですか?」
「ん、なんだか今日は食欲が無いみたいでさ」
「それでは、元気が出るように何か別のものを……」
「ゴメンゴメン。失礼過ぎたね。徹新も産まれて面倒も見てるのに、それでなお飯を作ってくれたんだ。ちゃんと全部美味しく頂く。洗い物も済ませておく。今日は徹新の夜晩は俺がやるから、たまにはシッカリ休んで頂戴よ」
出産を終えたばかり。病み上がりの嫁さんに夕飯作らせるとかなにそれ俺外道?
言わせてくれ。リングキーが申し出た。
重ねて言わせてくれ。流石に当たり前にサービスなんか受けられないよ。
大事な大事な俺の奥さん。旦那としてちゃんと全うせねばと思うこの頃である。
だから言でもって半ば強引にリングキーに休息を取らせることにした。
家長命令……なんていかにもDVモラハラ夫感満載……のつもりは勿論ないが、ここまで言えばちゃんと休息をとってくれるから安心する。
「おやすみなさい一徹様」
「あぁ、お休……」
「一徹様、私を愛してくださっていますか?」
男子校に顔見せた日ももう22時程まで来ていた。
ダイニングから離れようとするリングキーとの挨拶間際、彼女からの問い。
「……愛しているよ。リングキー」
「私も愛しています。一徹様」
答えて、さらに答えが返ってきて、リングキーは姿を消した。
間もなくコップを水道蛇口に持っていく。桐桜名水100選、水都三縞の水は美味いのだ。
「最近、あまり酒は召しませんな旦那様」
「おぅ、ヴィクトルじゃないか。ま、父親の自覚が出てきたのかもね。酒飲んで赤ん坊の世話は嘘だろ?」
「違うでしょう? 旦那様は酒に歓びを感じなくなった違いますか?」
リングキーと入れ違いに、ダイニングに入ってきたのはヴィクトルだ。
言われたことは、同時に言い当てたそのもの。
無二の親友、信頼出来る男だと思っちゃいるが、そこまで以心伝心は気持ち悪いやらこっ恥ずかしいやら。
「歓びを感じない。味覚が変。そんなところかも」
「御子息が生まれ、不安に駆られているのでは?」
「そんなところかもしれないね」
「私でよければ、聞き手になりましょうぞ」
さっきまで面と向かって食事していたリングキーの椅子にヴィクトルが座る。
野郎は一升瓶を右手に握り、広い左手でコップを2つ用意したが、俺は首を横に振った。
「マンネリなのかなぁ。倦怠期かも。子供生まれたのに良くない」
「代り映えのしない毎日が苦痛ですか?」
「贅沢な悩みなのは分かってる。例えばリングキーはいつも俺の好物な料理を作ってくれる。ルーティンかと思うくらいによくね。しかも味にムラがない」
「好きなものも、食べ飽きはしますが」
「だからたまには違う料理を食べようと言うと、途端にアイツは困った顔をするんだ」
「よくありませんぞ。今日び《男子厨房に入らざるもの食うべからず》です」
「だからたまに独り身時代を思い出して料理することもあるんだ。食材の味、香り、食感をイメージして、掛け合わせた際の想像通りの味を試みる」
「結果は?」
「失敗と成功半々だな。でな? それをリングキーと食べるじゃん。次からはルーティンメニューにその料理が加わってる。しかも味にムラがない。俺の作った失敗味と成功味を寸分違わず完璧に再現するんだ」
「ほう」
「それを続けていたら、知らぬ間に飯に興味を無くしちまった。その酒もそうさ」
「これが?」
「ビール、ワイン、焼酎、ウィスキー、桐桜華酒。飲み慣れたブランド、飲み慣れた銘柄。でもな? たまに違う物を飲みたいと思っても、一向に手に入らない」
「それは宿で提供する飲み放題メニューから外れているからでございましょう?」
「で、な? この前、彩玉県は幻の銘酒、《玄武》が手に入って飲んだんだけど、いつも飲んでる酒の味とやっぱり寸分違わない。だから、水にした。味に期待できなくなったからだ」
あぁ、ヴィクトルは構わず酒を飲む。
俺だって旨いことは知っている。ただ、知りすぎるほど知っている味には新鮮味がなかった。
「似たようなことが最近いろいろとな。三縞旦那女将衆ネットワークの皆さん、町の皆、男子校の連中、無条件で大歓迎してくれちゃって」
「人望が厚い証明ではないですか」
「生まれた徹新なんて空気読め過ぎだ。夜泣きはしない。抱けば機嫌よくしてくれる。ただでさえ手がかからない……だけじゃない。まるで育児休暇を神様が与えてくれているかのように、三縞観光客も、宿泊客も潮が引いたように少なくなった」
目新しさが無い。苦労がない。
苦労がないことはいいのかもしれないが、張り合いがない。
(苦労と楽しさ半々。バランスを取りながら生きることで感じるものが達成感や充実感だと思っていたよ)
幸せも、長く浸れば食傷気味。
ただ安定を、ただただ受けるだけではやがて生きることの面白みも薄れゆく。
これじゃただ、人生の時間を無為に過ごしているだけにも……
「ですが、それこそが旦那様が愛する奥方とともにあるのではないのですか?」
(あ……れ?)
「今、旦那様は幸せでは無いのですか?」
(あっ……)
マジックワードとも言うのかもしれない。
俺の、俺が愛すべきリングキーの名。俺が幸せに揺蕩う事実。
ヴィクトルが言及した途端……
(……俺、今、何の話をしていたんだっけ)
たった今、ヴィクトルに何を言われたか分からない。
わからないけど、何故かこれだけはハッキリ言える。ハッキリ言いたかった。
「俺はいま、すこぶる幸せだよヴィクトル」
「ッ!?」
「リングキーのこと、心から愛している。妬くなよ。コッチだって恥ずかしいんだ……が、思わずには、言わずにはいられない」
「旦那様、またその目が。目から、光が……」
(そういえば何やってるんだろう俺は。早く、飯を平らげなけりゃ。折角リングキーが作ってくれたんじゃないか。味わって、感謝して、次は徹新の面倒を見て……)
「本当にコレが、旦那様の幸せなのかよ……」
あぁ、美味い。
一気にかき込んでしまえた。皿の上全てを口に詰め込む。
咀嚼しながら食器を流し場に持っていった。
(さっさと皿洗って、俺達の徹新の側に行って。俺達の徹新? 俺と……リングキーとの間に生まれた徹新?)
「本当にコレが、俺の観たい旦那様の幸せだと言うのかよ……」
なにかヴィクトルが言った気もするが、何、気にすることはないだろう。
やっと、一徹の記憶を抜けました。
ダイジェストではありますが、前日譚完結の心持ちです。
長かった。ただひたすら。
でもこの後日談を完結させてこそシリーズ完なので、引き続き頑張ってまいります。
いつも言っていますが、いつか完結した暁に全話一気投稿が出来る日を祈って……
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