主と従者、超えさせない一線 黒衣を纏う、仮面の男

『アァァア! ハァァッァアア!』


 冷静さを失った主犯格の攻撃など一徹には恐れるには足らなかった。


 外に連れ出した一徹を地面に叩きつけ、馬乗りになった主犯格。

 小指の折れた手で、拳は作れなくても振り下ろした掌底は……


『ヒッ! ヒァァァァァ!!』


 しかして身を捩ることで避けた一徹の、伸ばした両腕によって、絡めとられた肩を思い切り引っ張られたことで、逆に間接を外されるダメージとなって帰ってきた。


 ボグゥッ! という嫌な音を耳に、数瞬送れて襲い来る傷み。全身からまた噴出した冷や汗を感じ、悲鳴を上げた主犯格は、出来た隙を見逃さなかった一徹に蹴飛ばされる形で地面に倒れこんだ。


「ハッハァ!? 相当、状況は出来あがってるようじゃないかぁ!?」


 目の前の主犯格は両手が使えず、だから脚なき虫のように身体をくねらせながら何とか立ち上がろうとする。


 別にそんな手間取るさま興味が無い一徹は、いま外に出たことで、襲撃者と、それと戦っている者たちの作り出す戦場という状況セカイに感嘆の声を上げた。


『隊長!』


『何があったんだ隊長っ!?』


 怒号に、金属同士がはじける音。死に逝く者の悲鳴が響くさなかに入ってきたもの、いま交戦中の、主犯格の男の周りに何人も集まった者たちの驚きの声。


「あー、やっぱり兵隊さんであったわけだ」


 その場面に目をやった一徹は、溜息混じりに呟いた。


『触るなっ! やめろ! 触るなぁっ!』


 集まったのはどうやら主犯格の部下たち。何とか抱き起こされた主犯格は、しかし激昂から声を張り上げ、身を大きく捩ることで、部下たちから離れた。


『私は良い。私は良いからっ! 奴だ! あの男を……殺せっ!』


 上官の命令だからゆえか、それともこれほどにしてやられた上官が必死になっているのを初めて目にしたゆえか。

 気迫に押された者たちは、決意を新たにしたような表情で一徹に体を向けた。


「なんだよ部下任せか? 別に……他の奴には興味がないんだけどな」


 主犯格の叫びで他で戦ってきた者たちも集いはじめた状況に、苦々しげに笑った一徹は、バツが悪そうに首筋をボリボリとかいた。


 ドンドン集まる。そして一徹を取り囲んだ。5人、8人、10人、15人。


『コ……ロ……セェェェェ!!』


 主犯格のときの声に反応し、弾かれたように地を蹴り、群がってくる者たちを目に、一徹は少し体勢を低くした。


 襲撃者たちの影に、一徹はいまにも呑まれそうだ。


「いるんだろうが! まさか……くたばっちゃいねぇだろうなぁ!? ヴィクトルッ!」


「フンッ! 私は申したはずです! 嫁っ子を取った旦那様のお子を、我が手に抱くまで死ぬわけにはいかないと!」


 ……綺麗に咲いた。

 360度、一徹を取り囲む者たちが作った円から、血華が咲いた。


 一人として漏れることなく、一徹を殺しに掛かったすべての者に首はない。

 一徹を中心に集ったことを利用して、一徹の発言に答えが返ってきたと同時、瞬間で全ての首がはねられたのだ。


 さしずめ計算されつくした噴水芸術のように、高々と噴出する四方八方からの血流。

 円の中心に立つ一徹。目を細めて眺めながら、シャワーのように全身でそれらを浴び、やがて足元に跪き頭を垂れた、やはり全身が朱に染まったヴィクトルに向かって微笑んだ。


「この状況でもお前は、俺の婚活は忘れてくれないんだ」


「嬉しいですぞ旦那様。この混沌としたなかでも、旦那様は私の気配をかぎ分けますか。申し訳ありませぬ。遅くなりました」


「お前らしくねぇ。随分と手間取っていたようじゃないか」


 微笑んだのは、どう言葉を掛けたものか一徹も悩んだからだった。

 「何とかなってるから気にするな」なんて言ったら、護衛としての誇りを傷つける気がした。とはいえ『何をやっていた!』などこの状況で怒るわけにも行かなかった。


「でもいまのは……助かった。俺も、ちょっと疲労がね」


「当然でしょう。我ら従者の側にも襲撃がございました」


「お前たちにも?」


「ゆえに戦うものなき主人級しかいない会場内で、旦那様はずっと戦ってこられたはず」


「その主人級を救うために戦ってきたお前だって、なかなかに体力もキてるだろ?」


 既に円を作っていたものたちはバタバタと倒れていく。


 この凄惨な状況に、それでも安堵しきった笑顔を一徹とヴィクトルが見せるから、複数人の首が纏めて飛んだ光景も、血が吹き出た光景も、円の外から見ていた主犯格、他の襲撃者たちは、恐怖から声を上げることが出来なかった。


「外に出てこられたのは丁度よかった。この機に乗じ、離脱いたしましょう」


「いや、まだだ。シャリエールが中にいる」


「シャリエールが!? どうしてアイツが!」


 ヴィクトルは狼狽した。やっと一徹と合流できた。ならば後は離脱するだけ。さすれば戦いも終わる。そう考えたのだ。

 だがそれを一徹が止めたこと。そしてその理由が、予期せぬこの場に居るはずのないシャリエールだったことが、余計ヴィクトルを慌てふためかせた。 


「目くじら立てるなよ。俺が生きているのはアイツが戦ってくれたところが大きい」


「ですが!」


「綺麗なドレスを纏っていた。これがまた《馬子にも衣装》っつか、《美女なら襤褸ボロも、にしきでも》って感じでさ。ドレスね。俺は知らないよ。手に入れたとするなら……《メンスィップ》のトリーシャさん。あのハッサンの奥さんに見繕いをお願いした着物の中に、もしかしたら入っていたのかもな」


「なんですと!?」


「案外俺の予想は当たってたりして、ハッサンからの招待状は実はもう一枚あって、シャリエールにも来ていた。『ヴィクトル殿では入れないパーティ会場で護衛を務めなさい?』なーんていわれちゃって……」


「あ、あのお人はぁっ!」


 が、一徹の言葉を耳に、全てを理解したヴィクトルは、脳裏に冷たく、悪どい笑顔を浮かべたハッサンの姿が脳裏に過ぎり、思わず声が荒ぶった。


「だからチョット待ってくれないか? まだ……オトシマエも済んでいないんだ。あの男に、シャリエールが痛めつけられた」


「ホゥ?」


 話を連ねる主人の言葉で、その対象となった主犯格に目を向けたヴィクトル、瞳に改めて殺意をみなぎらせた。


「ならば殺しますか」


「いや、まだ足りない」


「いえ、殺しましょう。私が殺して差し上げる」


 そのような目で射抜いたのは仲間を痛めつけられた怒りによるものだ。が、別の思惑もあった。 


「いけませんなぁ旦那様。これ以上あの男を痛めつけ、その上さらに落とし前の結果がどのようになったか、シャリエールに見せ付けるおつもりですか? あの、デンザート元男爵との一件を思い出させることになる」


「ッツ!」


「まぁもちろん、そんな心配など露ともこの私はしておりませんがな。旦那様が、あのときの私との誓約ちかいを反故にするわけがない……でしょう?」


 少し、落とし前としてはやり過ぎたところが主犯格の怪我具合で見て取れた。


 危険な兆候だった。同じような流れで、一度その領域・・・・に踏み込みかけた一徹を、ヴィクトルは見たことがあったから。


 チラリと横目で主人を見たヴィクトルは、クワァカッ! と楽しげに主犯格を見つめる悪意ある一徹の表情を見逃さなかった。


 だから、その域に再び踏み込ませかねないきっかけとなりうる主犯格は、いまヴィクトルが斬ってしまおうと考えたのだった。


「……あぁ、その通りだよヴィクトル。俺は……もう二度と・・・・・失敗しない・・・・・と決めたんだから」


「……では……」


 右掌で両目を覆い、がっくりとうなだれる一徹。

 心に自身の声が響いたと感じたヴィクトルは、剣先を主犯格に向けた。


「ヒッ!」


「……って?」


 が、唖然とヴィクトルは口を開いた。


 ドンッ! と盛大な破裂音。次いでガシャァン! と窓を突き破った音。ヴィクトルの視線の先に主犯格はおらず、認められるのは一徹の背中。


「これなら、流石にやっこさんの意識ぃ持ってけただろ?」


 《脚装具カマイタチ》の素材と属性能力を開放させ、見せた瞬動勢いそのままに、強化した脚力、加速した思いっきりの一蹴りで、一徹は主犯格を会場外から強引に、また会場内へと蹴り戻したのだ。


「だ、旦那様、いまのは、話の流れというものが……」


「大丈夫だよヴィクトル。ちゃんと届いた。いまのが最後だ」


「……ですか?」


「シャリエールを連れて来る。エメロードを連れて行く。《ベルトライオール》へと帰るぞ」


「エメロード嬢でございますか?」


「思わず助けちまってね。外で戦ってくれているのは《レズハムラーノ》から来た援軍か? ならもう襲撃者たちは分が悪い。ここからは奴らがどんな凶手に出てもおかしくない。助けちゃったくせに、この会場から離れたのちに死亡……なんて寝覚めが悪いだろ?」


「ではお早目の行動を、私は馬車あしを見つけてきますゆえ」


「おう! 頼んだ!」


 蹴り飛ばした主犯格の方へと、つまり会場内へと視線を向ける一徹。


「ヴィクトル!」


「ハッ!」


 だが、ヴィクトルに背を向けていた一徹は、顔だけ振り返り、横顔を見せて呼びかける。


「ありがとう。本当、お前には世話を掛けるな」


 この、修羅の場での、あまりに純粋な言葉。邪のない屈託な笑顔。

 それを一徹が不意に見せたからヴィクトルは面食らった。

 そして……


「なんだ! 結構なタフガイじゃないか! 正直おっどろきぃ! 気を失わせるくらいにゃ力込めたつもりだが!?」


 高らかに、楽しげに一徹は会場内にたったいま蹴り飛ばした主犯格に向けて吼え上げた。


「ハ……ハハッ! まったく。そういう大事なことをこういうときに。貴方という方は……ヤレヤレ」


 会場内に向かって走り出す一徹。会場内に入るために割れた窓の枠に脚をかけたその背中に、呆れたように笑ったヴィクトルの言は届かなかった。


 だが、それでよかった。

 一徹から視線をはずし振り返る。読んでいた気配の通り、大勢の敵に囲まれていた。


「おっと、殺しに掛かるなら気をつけたほうがいいぞ下郎ども。まさかこのような場で、気持ちが上がるとはおもわなんだ」


 だが……ヴィクトルは満面の笑み、ニカッと歯を見せていた。


「ハシャギが……過ぎてしまう可能性がある」


 なんとか押さえていた身の悶えを解き放つように、ヴィクトルは手にした剣を翻して……あたりは、戦場となったこの混沌の中でもとりわけ凄まじい数の命潰える叫びが轟いた。



 誰もが息を飲んだ。それは貴族の子女が集まるこの広い屋敷の中でのこと。


 本来なら煌びやかな内装と美しい音楽がたゆたうこの仮面舞踏会マスカレードに、民草達が武器を手に取り突然襲撃を仕掛けたからか。


 違う。恐怖には違いない。一寸先は闇、そんな気の休まらない状態を一時間も続けてなお、さらなる驚愕が彼らの心を貫いたから。


 誰もがその光景に時間の鈍化を感じた。

 バリィ! と耳をつんざく破壊音。誰が見ても巨漢と見なす一人の賊が、外から窓を破ってパーティホールに姿を現した。


 現したというのは正しくない。吹き飛ばされたようだった。窓の外から吹き飛ばされ、窓を壊し、床に叩きつけられた。

 襲撃されてからここまで、子女達は知っている。その男が襲撃者達の主犯格であることを。


『い、い、いやだ……』


『なんだ、結構なタフガイじゃないか。正直おっどろきぃ。気を失わせるくらいにゃ力込めたつもりだが?』


 それを知っているから皆息を飲んだ。窓を突き破ってパーティホールに飛び出た主犯格の男が、窓の外からの楽しげな声に恐怖に顔をゆがめ、鼻から口から血を流していたゆえ。


 彼女・・もその場で絶句する子女の中の一人だ。ルーリィ・セラス・トリスクト、同じくこの夜会に招待された彼女も信じられない。ルーリィは伯爵家の人間。とはいえ令嬢ではない。若くして当主代行を務める存在。


 その責と共に、女性としては珍しく騎士団に所属する騎士の一人でもあった。だからこそ主犯格の実力を正しく見極めることができたルーリィは、半ば奇襲のような襲撃によって圧倒的な優勢状況を作り出した主犯格の男が、先ほどまで豪快に笑っていた時には背筋すら凍らせた。


 それが……


『いや……だ。いやだ……来るなっ! 来るなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』


 これだった。

 なんてこと無い。窓の外から聞こえてきた楽しげな声の主が窓枠に脚を掛け、飛び越え、パーティホールに着足しただけ。

 床に降りた一瞬の、床板の鳴き声に呼応するかのように、主犯格の恐怖は最高潮に達したようだった。


 現れたのは仕立てこそ上等なものの、ともすれば不吉な喪服のような全身黒色の衣を纏った男。


「旦那様ご無事ですか!?」


「何とかね。あれ・・からひっさびさの戦闘だろ? 勘鈍りまくって冷や冷やしたの、していないのって」


 ルーリィは息を飲んだだけではなかった。


 能力の高さからルーリィを不安させた主犯格の大男に恐怖の悲鳴を上げさせる。 つまりそれより更なる力を持つとうかがえる黒衣の男が、余りに気の抜けた話し方をするから、意外さに視線が惹きつけられた。


「にしてもありがとうなシャリエール。命令した俺が言うのもなんだがまた戦わせた。魔族のお前が人間族の貴族子女のために。屈辱だろう? ってチョーごめん! あっち向いててくれるか? 目のやり場に困る」


「大丈夫です。旦那様にコートをお借りしました。汚して……しまいましたが」


 軽薄な物言いをする男が姿を見せた瞬間、いつの間にか男の隣に肌は浅黒く、耳が斜下に長く尖った若い女が立った。魔族の女だった。


 上下の下着姿、羽織ったコートは大量の血で染め上げられていた。

 女がこの場でここまで戦うさなかに纏っていたドレスを破り取られてしまったゆえだ。羽織っていた血まみれのコートは、そのとき黒衣の男が羽織らせたものだった。

 ひるがえるさなか、チラリと見たもの、それはコートを羽織らなければ見えてしまう、首より下から全身に渡る大きく、酷い火傷の痕。


 ルーリィが感じたのは意外さだけではない。違和感もだ。

 その男やルーリィを含め、人間族である彼らにとっては天敵であり、互いに忌み嫌いあう対象、それが魔族だから。


「別に謝る事など何一つ。私は身も心も旦那様の物。貴方にそう申しました。それに……」


 だというのに、シャリエールと呼ばれた魔族の女は、人間族の黒衣の男を《旦那様》と呼び、その無事に安堵の笑みを浮かべていた。


「先ほどの言葉はズルイです。あれだけ言ってもらえた私が、旦那様のために動かないわけがありません」


「思った。スッゲェ恥ずかしいこと口走ったって。思い出させないでくれよ。顔から火が吹き出そうだ」


 二人が交わす言葉と表情。この世界の種族観をみればあってはならないもののはず。それが大きな違和感をルーリィにもたらした。


 そして、ルーリィは次に耳に入った言葉に目を見開く。


「私なら……旦那様の全部を受け止めてあげられるのに」


「ん? なんか言ったか?」


 人間族であるはずの黒衣の男が、種族的に天敵であるはずの魔族の女シャリエールにそれを言わせたから。


 仮面舞踏会。だから仮面をつけた男の表情全てはうかがい知れない。が、シャリエールだけは別だった。彼女は既に仮面を剥いでいた。

 先ほどからあらわな表情。示す感情は、この世界の常識を思うと禁じられたもの。


「いえなにも。ご指示を」


「んじゃ……帰るか? ヴィクトルはまだ外でってんのかね? 拾って帰るぞ」


「ハイ!」


 忘れてはならない。ここは修羅場。

 襲撃は何もこのパーティホールだけのことではない。パーティホールを備えるこの優美で雄大な建物のいたるところで、この建物の外そこかしこで、襲撃に対し警備兵が応戦する状況が音にして聞こえていた。

 怒号、絶叫に、命尽きる最後の音色の断末魔がそれだ。蔓延するは狂気と暴力、死の臭い。


「と、言うわけで出ましょうか? エメロード様?」


 そんな中、男がまるで業務終了後の仕事先や、放課後に至った学び舎から帰宅するような間延びした発言を繰り出すのだからルーリィは理解できなかった。


 ……だけでない。名を呼んだ。

 ルーリィにとって、最近出来た親友と呼んで遜色の無い一人の美少女の名だ。


 エメロード・ファニ・アルファリカ、公爵令嬢だ。

 近く来る大きな戦に備え、ルーリィが隣国ルアファ王国から、同盟交渉担当官として、同盟候補先であるこの《タベン王国》にまかりこしたばかりの頃に知り合った。


「エメロード様、恐いですか?」


「わ、私が! この公爵令嬢たる私が、恐れるなんてこと! 恐い……なんてこと……」


 良くも悪くも高位貴族の令嬢。それがルーリィの思うエメロードの印象。少し誇りの高すぎる我の強い娘。


 ルーリィは知っている。

 「そうあらねばならない」と自分に言い聞かせてきたエメロードは、その言動によって生まれてしまっていた周囲との心の距離の遠さに思い悩んでいたことを。


「……恐い……」


「うっはー! めずらっすぃ! どうしたんです? 今日はやけに正直ですね」


 また、ルーリィは眉を顰めることになった。こんな場にあって思うのもなんだが、エメロードとその男とのやり取りも理解が及ばなかった。


 まだ襲撃が始まる前、エメロードと接する相手として相応しく・・・・ない・・とその男を評していたルーリィ。

 そう思うには理由があった。


 ルーリィは前々からその男について、エメロードから話を聞いていたから。淑女を淑女とおもわず、常に子ども扱いするいけ好かない男と。


「貴方は! こんな時にあっても私を……ッツ!」


 考えを改めなければならない。次の男の行動と、それに対するエメロードの表情がルーリィにそうおもわせた。


「それでいい。危機管理は重要ですよ。知っておけば《百戦、危(あや)うからず》ってね」


 茶目っ気タップリに歯を見せる。面によって口元だけ露出した男。

 クシャリクシャリと優しくエメロードの髪に指を絡ませ、揉み込み、そして頭をなでた。


 彼はエメロードの婚約者でもなんでもない。まして公爵令嬢に対してその行動に及ぶなどとんでもない。が、その光景には相応の信頼関係があるゆえにも見て取れた。

 

 ルーリィはエメロードに視線を送る。

 既に面を取り外していたエメロードが見せたのはホッとした笑顔。男の頼もしさに、エメロードの心地が安らいだのかもしれないとルーリィは心得た。


 ただしそこまでだった。


「さ、参りましょうかエメロード様」


「参るって……え?」


「取り急ぎ《ベルトライオール》にお連れします。色々驚くような場所だとは思いますがご安心を」


「ちょ、ちょっと待って!」


「保護したことは私からラバーサイユベル伯爵に……ってエメロード様?」


 腰を抜かして床にへたり込んだエメロードの手を、男は逞しい腕で取って立たせる。小枝のような腕を引こうとした。エメロードは……そんな男の大きな手から逃れたのだ。


                 +


『行けない! お願い! 貴方も行かないで! 私達を助けて。貴方ならこの騒ぎを止められるでしょう!? 貴方が存分にその武を発揮して、その上で救えない命があったとして、勿論私は、貴方を恨まないから!』


 嘆願する、階下の愛娘エメロードの叫び。

 耳にした父親、上階で見守るアルファリカ公爵は、ハラハラとした面持ちで黒衣がどのような答えを返すのかを待った。

 

 当然だ。先ほどまでマゾッ気を発揮し、アルファリカ公爵をして《どこぞの馬の骨》の烙印を押した、黒衣の男の口元に浮かんでいた笑みは消えていたから。


『公爵家第二令嬢が……退けない! 他の子女を見捨ててこの場を放棄したとあっては父上や皇太子妃おねえさまのメンツに、家の名に傷が付く。だからっ……』


 ブルリッ! と身が震えた。いや、娘の言葉に身も魂も揺さぶられたというのが正しい。


 何度も父親として「出来損ない」と処断した娘。それで手が掛かるからこそ可愛くて仕方ない己が娘。

 違った。「これまで娘の何を見ていたのだ?」と自分で自分に問い詰めたくなる気持ちにかられた。


『生より誇りを取るかよ。聞けませんね』


『どうして!? 前に言ってくれたじゃない!? 『公爵令嬢、その立場に向き合う貴女に、私は敬意を評する』って!』


 落ちこぼれとすらみなしていた娘は、これほどに心が強く、覚悟を持って公爵令嬢を務めようとしてきたことを、その言葉から思い知らされた。


『それとは話が別です。それに他の子女方のために戦う義理も道理もない』


 だからこそ、黒衣の男の回答には歯噛みした。

 エメロードが口ばかりのお粗末な娘ではないことは、ここにいたるまで、己の死と隣り合わせの恐怖の中、歯を食いしばって生存者の治療に当たっていたことで証明した。


 悲しみに喘ぎ、それでも気持ちを震わせて見せた娘の願い一つ聞いてくれても良いじゃないかと、そう思った。


『分かってる! 分かってるけど! それでもお願い! 山も……』


 だというのに、そのエメロードは……話の途中に、魔族の女に横っ面を叩かれた。


『シャリエール!』


『申しわけありません旦那様。ですが公爵令嬢であろうが旦那様を煩わせるなら我慢なりません』


 その光景に、上階は手摺りから光景を見下ろしていたアルファリカ公爵も、ガバッと身を乗りだしそうになる……こらえた。


 階下のエメロードが泣きながら頼み込んだことを拒絶した黒衣の男が、仮面を、目線を、上階から見守る己、つまりアルファリカ公爵に向けてきたからだった。


『いいですかエメロードお嬢様? 私個人としては許し難いことですが、貴女は旦那様に気に入られている。だから旦那様は不戦たたかわずの禁を破り、私は旦那様のために戦いました』

 

 頬を叩かれ、冷たく言い放たれ、黙り込むエメロードの放心した顔をアルファリカ公爵は見ていられなかった。


『旦那様なら首を縦に振ってくださると? 公爵令嬢如きの言葉で? 勘違いも甚だしい。なぜ旦那様や私が、貴女以外の醜悪な人間族、それも殊更汚らわしい貴族子女のため命を懸けなければならないのです?』


『もういいよシャリエール。ありがとう』


『ですが旦那様!』


『お前が、俺を心配して出張でばってくれたのは分かってる。だから、いい。それでエメロード様……動けないか。なら、失礼を』


 が、もう一度アルファリカ公爵は改まって娘とその周囲に視線を送った。


 それは、黒衣の男が娘の手を取ったからだ。ダンスのために必要に駆られているわけではないのに、当たり前のように徐に、あまつさえエメロードの指一本一本とを絡ませるように握ったから。


 そういえば先ほども優しげに頭を撫で付けていた場面も思い起こさせた。

 それは父親として心に来た。


「……卿?」


 だけではなかった。自身の隣に、手摺りに、もうひとり身を乗り出したラバーサイユベル伯爵が、真剣な顔をして黒衣の男に向かってコクンと頷いた。

 応えるように頷き返した男はやがてアルファリカ公爵をまた見つめ上げたように……否、間違いなく見つめてきた。


「スマヌ。娘を……頼んだ。ありがとう……」


 だから、《タベン王国》は王家に次ぐ最名門、アルファリカ公爵家当主は、仮面の黒衣の男に、目を伏せ、深く深く、頭を垂れた。


                 +


「お手前拝見しました。なんて凄まじい槍捌き。御礼を。おかげでシャリエールに危険が迫ることは無かったようです」


「ご、誤解です旦那様! 私は、そこな女性がいなくても問題ありませんでした。寧ろ殺すことが・・・・・恐いのか・・・・実際は足手まといに……」


「殺すことが無いならそれに越したことはないよシャリエール。これまでただの一度も殺した経験が無いなら、それは喜ばしいことで崩すべきじゃない。だろ?」


 ルーリィへと呼びかけてきたときには先ほどエメロードに対して失わせた笑顔を取り戻した黒衣の男は、感嘆を伺わせる語気での感謝を告げてきた。


 言を挟んだシャリエールは、言われた言葉に口をつぐんでしまっていた。


「なぁんて俺が言っちゃいけないのか。特にお前には言っちゃいけなかった。俺が殺さないから、それがシャリエール、お前に殺させる」


「それはっ! ……いいんです。私が、旦那様を戦わせたくない。それだけですから」


「参ったな。戦わせたくないかぁ? そりゃウチのメイドであるお前に対し、本来俺が言わなけりゃなんないことなんだけど」


 男への緊張。ルーリィもどのように回答して良いものか困り押し黙る。


「悪いが、これ以上彼女に近づかないで貰おうか?」


 そんなときだった。新たな声が、割り込んできたのは。

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