嗜虐不遜の山本・一徹・ティーチシーフ
「ダンスの時もそうだった。社交界など黒い腹の探り合い。だが貴女は何というか……真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎる。わからない。どうして、それも他国の貴女がエメロード嬢をあそこまで気に掛けられるのか」
ルーリィは唾を飲み込んだ。
品定め。黒衣の男の目が、スイッと細くなったから。
「親友だから」
「へぇ?」
本来は目を背けてはいけない場面。だがプレッシャーに耐えられず、思わずルーリィは目を背けた。それでも言はやめなかった。
「社交界のなかで、エメロード様はあまりに無垢だから」
「……悪いねシャリエール。ちょっとばかり時間を稼いでくれないか? 御令嬢の話を聞いてみたい。あまり、気に入らないかもしれないけど」
「それがお望みとあらば」
釣れた。
黒衣の男の言葉。
それに頭を垂れたシャリエールが、敵陣に単身踏み込む。踏み込んだことで大男の一言で集まった襲撃者らが悲鳴をあげたとき、ルーリィは拳を握りこんだ。
ある意味ここからが正念場だと理解した。
「それで? 正直、私はいまでもほんの少し、アルファリカ公爵家第二令嬢に良い感情を持たないときがある。超絶タカピー高慢チキチキ傲慢女王エメロード姫が……無垢ですか」
「タカ……確かに、あの方は我が強いところはある。だがその一方、実に正直」
「確かに」
「《公爵家の人間》という圧倒的高位な位置に立つエメロード様。故に爵位差に
「要は誰かの実績をわが物とし、嘘をつき、疑いあう。そんな
「それでも社交界がわが身生きる
「共感なされたと?」
「だけじゃない。眩しいまでの清らかさ。くすませたくなかったのだと思う。私は多分、もうそれを失ってしまっているだろうから」
「そして羨望か。失った……ね? 私から見れば、貴女も相当に清廉な方だと思いますが。なるほど、いいでしょう」
己が言葉が黒衣の男の眼鏡にかなったかは定かではない。そらしてしまった目、ここまで話してチラリと男を見やった。
どうだろう。
「いいでしょう」とは返してきたものの、彼もまた、目をあらぬ方向へと向けていた。
「貴女がエメロード様に真っ直ぐな理由はわかった。かくいう私もいろいろとね、因縁がある。そういうわけでエメロード様を助けることに、自分の中でも道理が立った」
「お前にとって、エメロード様はお守り差し上げたい存在なのか?」
「そのあたりの踏ん切りは自分でもまだつけられていません……が、あの紳士はその限りじゃない」
「なっ!?」
「さきほど申し上げた。『今日初めて会った、それも敵意すら向けてくる者を大怪我や死ぬリスクを覚悟して助けるつもりはない』とね。幾ら頼まれても……」
一瞬は男の興味を釣れたはずだった。
どんな回答なら間違いないか慎重を重ねて言葉を選んだのに、しかし反応は希薄。
「筋が通っていないのは自覚している。それでも助けて欲しいんだ! あの人は、あの方は、我が国の第二王子殿下なんだ!」
「なんです? なら、なおさら救う価値は見えませんね」
「なんだって!?」
そのうえ「助ける意味がない」とまで言われたルーリィは、腹部の圧迫感と胃袋の引付けに似た痛みを感じた。
「第一王子殿下がおられるわけでしょう? 恐らくその御仁が、次期王位を約束された皇太子。なら第二王子殿下が亡くなっても構わない。後継者問題だって考えなくても良いはず」
「そ、そんな……」
「社交界だったら『誰々王子を王の位まで担ぎ上げたい』……なぁんて、王子ごとに派閥が出来、傘下の貴族同士でにらみ合いやいざこざなんか起きるものなのでしょう?」
このままではいけない。
「でもね、そんなこと民草連中にとって知ったこっちゃない。『良い治世さえ保ってくれるなら、誰が王でも構わない』というのが彼らの……」
「大切な人なんだっ!」
仮面をかぶった黒衣の男の冷静で淡々とした分析は、確かに客観的に見れば正しいもの。
だが感情がその結論を許さないルーリィは、思わず声を張り上げた。
「あの人は自分にとってとても大切な人なんだ!」
もしかしたら、アーバンクルスは主犯格に殺されかけているかもしれない。
いやもし、もう殺されてしまっていたとしたら?
「その心は?」
「それはっ!」
最悪なイメージは頭を占めて離れないのに、黒衣の男はおしゃべりを止めようとしない。
「いつまで詮索するつもりだ! もういいだろう!?」
だからたまらずルーリィは声を張り上げる。
「……俺も随分と無粋だったな。王子だのなんだのじゃない。始めっからそう言ってくれれば面倒は無かったのに」
男は苦笑いを浮かべながら頭をボサボサとかきむしった。
「真っ直ぐだが素直じゃないねどうも。それに頑固だ。だがぁ? その真っ直ぐさがエメロード様に友情を、その第二王子様には情愛からくる憂いを……かぁ。シャリエールっ! この場は任せた!」
が、とうとう、動き出した。
シャリエールが交戦真っ最中の敵集団に向け、ゆるりと歩みを進めるではないか。
「お応えになるおつもりですか!?」
「ここからはエメロード様を守ってもらう! それ以外の生存者はご令嬢に守ってもらう! ご令嬢、貴女も戦った方がいい」
困ったようなシャリエールの叫びを浴びながらも、黒衣の男は言葉を続けた。
「元来この会場での私の目的は、エメロード様を死なせないことだけ。他の生存者については知るところではありません。死なせたくないなら奮い立たれるといい」
黒衣の男は一瞬だけ振り返る。
眼差しの先、治癒を続けながらも視線を向けて来るエメロードと双眸が絡み合った。
「が、守るためにお前に命を差し出させるつもりはないよシャリエール。危なくなったら……エメロード様を切り捨ててでも自分を守れ。お前は、俺にとってそういう存在だ」
「なっ!?」
「えっ? そん……な……」
「
ルーリィの嘆願はきっと通った。
改めて敵集団へ歩み、顔を向き戻した黒衣の男の背中と口にした言葉の頼もしさよ。
ルーリィは知らずのうちに、槍握る手に力が入った。
「友達や恋人を助けたいって想い。その行動にゃ、ずるい大人特有の駆け引きは見当たらず、ただひたすらに真っ直ぐを貫く青さが際立つ……」
『オ、オイ! こっちに来るなっ!』
『行かせねぇ! ここから先には絶対行かせねぇぞ!』
『お前たち! 大将の覚悟を無駄にするな! 死んでもっ! 黒衣の野郎だけは止める!』
敵集団も認識した。
蹂躙する先であったはずのパーティ参加者。その中で圧倒的な戦いぶりを見せた、
「ハッハ! 若いっつーの!? イイネ! 青春じゃないか! 嫌いじゃない! んじゃ、まぁ……
『『『『『……あ?』』』』』
「……嘘……」
……全ての者が、拍子抜けた声を同時に零した。ルーリィも同様。
結論から言おう。
誰も命を落とすことは無かった。誰も武器を振り上げることは無かったし、そのための声をかけることも無かった。
皆、しかと黒衣の男に集中していたはずだった。
凝視。そして目が乾いたことで瞬きを一つ……そして、いなくなっていた。
「んじゃ二人とも、後は宜しくぅ!」
そして声が上がったほうに皆が注目して、シャリエール以外が驚きに表情をゆがめた。
二十三十は集まった、兵であることを隠しているらしいルーリィたちの前に集った襲撃者集団……だけではないのだ。
外での状況が芳しくないから、会場内には、外で戦ってきた者たちが逃げ込み、そこらじゅうで溢れかえっていたはず。
なのに黒衣の男が次の瞬間立っていたのは……さきほどアーバンクルスが投げ飛ばされた廊下に続く、会場出口のその場所だった。
『待て、何があった! 俺は……瞬きすらしていないぞ!』
誰かがそう言ったのを耳に入れ、今の今まで状況を間近に見ていた者たちは敵味方問わず絶句した。
どうやったかはわからない。が、それは言ってみれば瞬動だ。
会場をごった返すほどの数に至る襲撃者全てを、黒衣の男がすり抜けた事実。
桁違い過ぎる実力、規格外も度を越した動き。
「本当、本当にお前は……何者なんだ?」
もはやルーリィも、黒衣の男に対してそのように呟くことしかできなくなってしまった。
☆
ズドンッ! 重たすぎる物が、勢いに身を預け、床板を砕き深々と突き刺さった音。
『勝った!』
そして勝ち誇った威勢の良い声が耳に入る。
男の声は普通に聞こえるのに、どういうわけだか一徹には、その瞬間時間がゆっくり流れている気がした。
『この戦ぁっ!』
いま、己が取りこぼしている時間の空白。ふと宙を見上げた先には……
『我らの勝利だぁぁぁぁ!!』
高々と噴出した己の血しぶきが……
「……ゴメンなぁ? また、お前の力を使うことになっちまった」
目に入った。
「俺を癒せ!
力ある言葉に呼応して、バァッ! と一徹のスーツジャケット、その胸ポケットから眩い光がはじける。
落ち着き、光量こそ落ちたが、やがて一徹を包み込みこんだソレは、柔らかさと温かさを醸し出していた。
『な! そんな!』
埋まっていく。傷は埋まっていく。
たったいま上段、それも死角から振り下ろされ、かわしきれなかったことで大量の鮮血すら噴き上げさせた大戦斧による傷。
肉は埋まり、血管も修復し、皮膚も閉じていた。
今や……先の詠唱魔技による両腕の酷い火傷跡すら、完全に消えていた。
敵将にとっては、一撃で一徹を倒せなくてもよかったはずだった。
深手を受けたことで一徹の動きを封じ、さらに二撃三撃と手を休めず最終的に殺すことさえ出来れば良いのだ。
「いま何か……したのか?」
『男が、《白の癒し手》とそれに準ずる者しか使えないはずの《治癒魔技術》だとぉ!? っ馬鹿なぁ!』
そう考えていたからこそ、目の前で起きた出来事に、主犯格は声が裏返ってならなかった。
ショックの度合いなど一徹にはどうでもいい。斬られた軌跡を指でなぞりながら、驚く男から視線を外した。
「その……髪飾りか……」
「ホウ? こりゃあまたまたゴイスーなイッケメンなこって」
注目したのは、よく聞こえなかった何かを呟いた青年。
仮面は既に外れていた。主犯格に捕まるまでは、かぶっていたはずだが。
「すんばらすぃ~恋人がいらっしゃいますね。貴方のために、ご令嬢は恥を偲んで私に謝罪した」
「貴殿に? それはどういう……」
「山本・一徹・ティーチシーフと申します。貴方をお守りするように嘆願されました。『王子殿下だからという以上に、大切なヒトなのだ』とね。そういうのに、私は弱い」
呼びかけたのは満身創痍のアーバンクルス。
左肩と腹に傷を負っているのか、両手それぞれで患部を押さえ、荒い息。
苦しげな顔で片膝を床につけている様から、激しい戦いを繰り広げるさなか仮面が飛んでしまったことが伺えた。
「教えて欲しい。その髪……」
「おしゃべりは後です殿下。《
一応は自分で納得して受けた話。
だから頼まれたことを全うしようとした一徹は、アーバンクルスに有無も言わせず髪飾り、一徹の言葉に反応して発せられた光を当てた。
「やはりこの感覚、間違いない。《治癒魔技術》」
光を浴びるさなか、次第にアーバンクルスの辛そうな表情は溶けていく。
光がやんだ後に己の体、いたるところを見回し、傷が閉じ、出血が止まっているのを確認すると、惚けた表情で一徹に目を向け……
「さ……て? そいじゃあ……始めようかぁ?」
ドクッ! と心臓は高鳴なり、ビクン! と背筋は改めさせられた。
心臓が高鳴ったのとはちょっと違うか。心臓が強く握られた感覚。
ゆえに満足に動くことの出来ない心臓が、何とか機能を保とうと、ドクンドクンと、必死に動いているように感じられた。
『貴様か』
「あん?」
『貴様だったのか!? 先の、あの魔族の女を両断しようとしたとき、私に凄まじい寒気をもたらしたのは!』
「こいつは
取り出した髪飾りをおもむろにもとの胸ポケットにしまった一徹。一つ溜息をついた。
なんとも対照的だ。主犯格はあからさまに顔色を変えている。だが一徹は少しだけ嬉しげに口の両端を薄く引いていた。
「王子様を助ける助けないにしてもね、どちらにせよアンタにゃあ……ケジメェ付けてもらうつもりだった。うちのモンに手ぇ上げてくれたオトシマエだ」
『ぬかせ!』
十分な踏み込み、ただでさえ怪力の男が存分に床板を踏みつけた事実。
目を細めた一徹が認めるのは、秒も掛からず自身との距離を詰めきった主犯格。
歯を食いしばる、血走った主犯格の目を捉えた一徹の表情は、好戦的にゆるんでいた。
『なんっ!』
最後まで言が紡がれることは無い。初手、押し負けたのは主犯格。
一徹に向かって両手で握り込まれた大戦斧は振りぬかれる……はずだった。
腰をひねり、十分に出来た力のタメ。開放された力は、斬るにしても叩きつけるにしても絶大な効果があるはずだった。
……真後ろに弾き飛ばされた。
横なぎにされた大戦斧。その取っ手と斧頭の間の柄を、前に蹴り込んだ一徹の足裏に押し返されたのだ。
「人の脚力は腕力の三倍。
『ド、
跳ね飛ばされ、背中から倒れこんだ主犯格の表情。
絶対の自信があった力が返されたことにショックを受けていたようだった。その上で、悲鳴を上げた。
『ならば先ほどの《治癒魔技術》は! 貴様、なんておぞましいことを!』
「《
すぐさま体勢を立て直し、猛然と突っ込んできた主犯格。大戦斧はまだ取りこぼしていない。
上段から振り下ろされた一断。
一歩脚を、主犯格へと踏み込んだ一徹は、それゆえ半身となったことでかわしきった。
一徹は認めた。信じられないとばかりに瞳を剝いた主犯格を。
理由はわかった。死の臭い迸る一撃に対して、一徹は前に出ることを選択したのだから。
『ガッ!』
小さい悲鳴。
しかし主犯格は床板に埋まった斧頭を引き抜き、無理やり下から、斜め上に跳ね上げるように一徹に振り切るのは止めなかった。
……かわしきった一徹が刺し込んだ、銀製の
『ッグゥ』
フラァッと上半身をそらす要領で、外れた斧頭の軌跡を眺める一徹。
フワリと跳んで後ろへと体を移動し、着地した瞬間にはもう、フッと主犯格のすぐ目の前に距離を詰め、もう一方の腕へとさらに一本刺し込んだ。
『ちょこざいなぁ!』
横薙ぎの一線。ギリギリの高さに飛び上がったことで避け、今度一徹がそれぞれ一本ずつソレを突き埋めたのは、興奮する主犯格の両肩。
『おっのれぇ! ……ッガァ!』
穂先を返し、今度は戦斧の柄を棍として突き込まれたもの。冷静によく見た一徹の手のひらにて軌道を変更され……勢いに、前に体が流れた主犯格。
今度はその二の腕に、一気に三本まとめて
ここまでに数本、ところどころに深々と刺され、動きが鈍った主犯格。
その隙を一徹は、見逃さなかった。
「大戦斧ね。いい趣味してるよアンタ。いい武器だ、危険な武器だ。だからさ……」
どれほど持っていたのだろうというほどの束の
これを、立っている主犯格の丁度頭の上あたりに高くばら撒いた。
「ちょっくら手放してもらおうかぁ?」
ジャラジャラと音を立てながら放物線を描いて高く上がり、そして松明、蝋燭の炎に当てられキラキラ明かりを反射させ、落ちて行く。
「
一徹は踏み込んだ。まずは主犯格の真後ろ、背中。
『グッ!』
続いては真横、主犯格にとっては左手。
『ガッ!』
当然……右手にも。
『ギ、ギ、ギイィヤァァァァァァァア!!』
途切れ途切れだった悲鳴はやがて断続的、それも耳を塞ぎたくなるほどの声量で木霊する。
当然だ。
瞬動がなせる業。
主犯格の正面から、左から、右から、背後から、斜めを含めた全方位に至るまで、地面へと落ち行く
悲鳴に大気を振るわせる主犯格の大男。
取り巻くは、光を跳ねさせる
コンマ数秒でいたる所に、数え切れないほど差し込まれたことで、全身から霧のように血華は噴出した。
「あーしんど、もう二度とやらねぇ。半数近く取り落としたのも恥ずかしいし」
その絶痛を、絶叫に還元して解き放つ主犯格を尻目に、ゼェハァと息を切らした一徹。
両膝に両手をおきうなだれていた。うなだれて、してやったりと口角を吊り上げた。
主犯格が痛みに耐え切れず、ガラァンと絨毯に大戦斧を取り落としたゆえだ。
「……っとに、
おもむろに、一徹は横たわった大戦斧を両手で担ぎ上げる。
主犯格に視線も合わせず背さえ向けて少しばかり離れたのは、明らかに相手に対する舐めがあった。
いや、相手の嫌なことを徹底的に実践するいまの一徹にとっては、それをワザとやっている節があった。
いたるところから血を流す、だが打ち込まれたナイフによって栓がなされ、まだ本当にまずいところまでは出血に至っていないからか、フゥッ! フゥッ! と主犯格は息は荒くさせ、殺意の篭った色で一徹を睨みつけた。
「へぇ? この大戦斧に組まれている素材の効果、重量増加。奇遇じゃないか。
『な……に?』
だが、そこまでだった。
まるで仲のいい友達が「お前のソレ貸して」、とでもいうように軽い口ぶりの一徹。特段顔色も変えずに大戦斧を振り上げて見せた。
「
一喝、そして一振……爆音。
一徹が振り下ろした大戦斧の斧頭、それは主犯格が振り下ろすのと全く同じ深さまで床を穿っていた。
それすなわち、主犯格と同じくらい、もしくはそれ以上に大戦斧を使いこなす証明。
『な、な……』
信じがたい、ありえない出来事に
「と、いうわけで武器はお互いなし。Fight like a man(男らしく
だが挑発するように吐き捨てる様に激昂し、サボテン宜しくいたる所にナイフをはやした主犯格は、激昂のまま一徹の目の前に飛び込み、そしてスーツの襟元を力強く握り込むにいたった。
『捕まえたぞ貴様! このまま絞め殺してや……ダッダダッ! ガァッ!』
「……なぁんてアホなこと、真剣勝負で言うわけがないだろ?」
一徹を捕えたことでやっと見出した主犯格の余裕……も、一瞬のはかない夢。
冷めた目で、口調で、一徹が呟いた途端、襟元を握った拳に痛みが走ったことが主犯格に悲鳴を挙げさせた。
「何が……起きているんだ?」
二人の状況を傍から見ていたアーバンクルス、目を丸くするしかなかった。
アーバンクルスは主犯格の怪力振りを知っている。
だからいまの光景はあまりに異質だった。一徹がスピードをもって圧倒する場面なら、まだ理解できた。
違うのだ。
転がされていた。いいように投げ飛ばされていた。
不思議な光景だった。一徹は全く力を込めていないのに、彼が腕を引くと、引かれたその方向に向かって、主犯格は食らい着くように全力で飛び込んだ。
「やっぱり効くな。《指取り》」
異常な光景だった。一徹はただ、主犯格の小指を握っているだけだというのに。
「これが
一徹の発言は、あまりにもその状況に似つかわしくないような力が抜けたもの。
「……あ……」
そのときだった。渇いた、小枝が折れたような、パヂィッ! という音が耳に入った。
空虚空白、その場に降りた一瞬の……沈黙
「ゴメッ、折れちゃっ……」
『ッアアァァッァァァアアアァァァア!!』
立って見下す一徹。跪き、変な方向へと折れ曲がった右手の小指を、もう一方の手で包み込み天井へと絶叫を上げる主犯格。
アーバンクルスは、違いすぎる二人の光景を目に焼きつけ、寒気が止まらなくなった。
特に一徹に対して。
いま軽い口調で謝ったさなかに浮かべた、ニヘラっとした表情のその裏に、何か
『アァッ! アァァァァァ!!』
主犯格も一徹には、何か人間とは別の、恐ろしいものに見えているのだろう。
恐怖の形相が顔に刻み込まれたまま、それでも引くことが出来ないのか、雄たけびをあげ、自身を奮い立たせながら一徹へと走った。
「大振りが過ぎる」
小指折れていない腕を伸ばしてきた主犯格に対し、一徹は伸ばされた腕を、その側の、己の腕によって絡ませ、片足を軸に反転。向けた背が、主犯格の胸に触れた頃には、もう一方の腕を、先ほど捕らえた腕にさらに抱きこむようにして……
「
『イッ! ヒャァアアァァァ!!』
背負い、投げて、極めた。
「
投げられた主犯格の背中が床に落ちきる直前、捉えた男の腕の、丁度肘を支点に、一気に吊り上げる。
耳障りのよくない音。一徹が開放した主犯格の腕は、肘が決して曲がってはならない方向に折れていた。
「立て」
「……待て」
フゥッ! フゥッ! と荒い吐息。
強者としてこれまで生きてきたことで、培われた強面の主犯格には、似つかわしくない珠が目の淵に浮き出ていた。
「待ってくれ山本一徹! もう、ここまでやれば十分だ!」
「十分? 何を仰っているんですか殿下?」
顔を真っ赤に、痛みに食いしばった歯の隙間からは涎を溢れさせた主犯格。
痛々しい様相、恥に塗れていた。それがなんとも哀れにもアーバンクルスには映った。
「十分だと……」
ここで声を張り上げたのはアーバンクルス。険しい顔を主犯格に見せながらすばやく剣を握りなおして……
「言っているっ!」
終わらせてやろうとした。騎士の情けのつもりだった。
「そりゃ……困っちゃうなぁ」
空ぶった。理解が、追いつかない。
空ぶったのは一徹が、アーバンクルスの動きを封じ込めたからではない。
振るう先だったはずの、殺してやるはずだった主犯格を、たった一蹴りで数メートル蹴り飛ばしたことで的が失せたのだった。
「
「まだね、全然足りてない」
「もう十分だろう!?」
「いんや。もっと苦しんでもらう必要がある。うちのモンに手ぇ出すということがどういうことなのか、もう少しばかり刻み付けたい」
「これはやり過ぎだろう!?」
「なに、安心してください。他の襲撃者同様……殺しはしない。殿下は助かった。私もご令嬢への義理は果たした。早く恋人の下へと向かわれると良い。《私のシャリエール》と襲撃者の対応に当たっているでしょうから」
一徹と、アーバンクルスの会話はまるでかみ合うことは無い。
アーバンクルスにとっては、いまや狂いに狂った襲撃者や主犯格ではなく、仮面で顔を隠す黒衣の男、山本・一徹・ティーチシーフの方が恐ろしく映った。
両者は無言、そして見つめあった。一徹の口は薄く横に広がっている。しかし仮面からのぞける瞳は笑っていなかった。
そこから声を出すこともさせず、身動きも取らせず、いまは呼吸すらさせてくれないほどの圧を放つ一徹は……しかし次の瞬間姿が消えた。
『ウォォオォオォ! ウォォオアァアァ!!』
完全に意識をアーバンクルスに集中していた一徹の死角を、主犯格がタックルをもって攻めたのだ。
『ハァァッァァッァアアァ! アァァッァァァァ!!』
一徹を捉えた主犯格の雄たけびは増すばかり。
一徹を担ぎ上げたまま、暴走しているかのように廊下を駆ける主犯格は、そのまま、窓にいたり、突き破り、そうして、一徹を連れて行ったまま外へと姿を消した。
……なんとも、後味の悪い命の救われようだった。
二人の姿が見えなくなったのち、アーバンクルスはおもむろに周囲に視線を巡らせ、顔をくもらせた。
散らばるは、銀の
床に深く斧頭の埋まった大戦斧。
ここで撒き散らされた血の跡が、一徹が駆けつけてからこれまでの10分に満たない出来事を、アーバンクルスの脳裏に沸き立たせた。
漠然とした、されど大きな黒い不安を胸に抱えたアーバンクルスは、二人が消えた、突き破られた窓へと視線を送った。
不安。それは一徹への心配ではない。まさかの……主犯格への心配だった。
体中にサボテンの針が如く数え切れぬほどの、
それでいて一方の腕は手の小指が折られ、もう一方の腕は、肘から凄惨にひしゃげさせられた。
間違いなく、もう武器はを持つことはできないだろう。
……アーバンクルスは見逃さなかった。
タックルを決められ、会場の外に連れて行かれるさなか、一徹が「コイツっ! ヤルっ!」とばかりに楽しげに口元を崩していたことを。
ゆえに心配だったのだ。何を思って主犯格が突っ込んだのは定かではないが、《黒衣の仮面男》、山本・一徹・ティーチシーフを相手に、武器を持たないハンデは、絶望的過ぎたから。
……そうしてしばらく、アーバンクルスは動き出す。
彼が心の底から愛する女のもとへと。
ルーリィ・セラス・トリスクトのもとへと。
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