テストテストテスト12

(吐きそうだ……)


 この言葉くらいしか出てこない。


「壊しちまった。自分の身勝手で」


 下宿に帰ってきたばかりの、俺に対する小隊員面々からの反応。

 トリスクトさんがその場にいなかった事実。

 想像をはるかに超えて衝撃的だった。


 そう。壊してしまった。

 この下宿が俺の帰る場所であるという意味では、一応迎えられた。

 

(だが小隊という意味じゃ)


「クソッ! なんて軽率な……誰も信じてなかったって示す形になっちまった!」


 自分の部屋に戻ってもじっとしていられない。

 風呂に入りに来たのは自然な流れだった。


「時間はもう夜の10時半か。いつもの下宿ルールじゃ、入浴時間は十時までだってのに……」


 下宿は元が温泉ホテルの旧館。

 住人はそれぞれが住まう部屋にもユニットバスは存在している。

 が、贅沢にも源泉かけ流しの、露天風呂付の大浴場を日々使わせてもらっていた。

 大浴場の掃除を毎日することが条件で。それは俺の役目だった。

 翌日早朝、すぐに掃除に取りかかれるように。本来なら栓を抜き、湯水すべてを流し終えるべき時間帯だった。


「それでなお、温泉にありつける。気をつかわれているのか」


 内湯で、ため息ながらにこぼした声がエコーがかった。

 跳ね返って耳に入り、改めて発言を理解してしまう。

 また、ため息をついた。


(その気遣いが、いまはこんなにも痛い)


 いま、湧いているのは天然温泉だけじゃなかった。

 俺の中で、自責の念みたいなものもポコポコ湧いていた。


「いや、湯につかってる俺が言うこっちゃねぇな」


 仕方ないこととはわかっている。

 しかしやり切れない。


(さて、どうするかなぁ)


 肩まで湯につかっていた状態から、思いっきり頭のてっぺんまで潜ってやった。

 

(言える立ち場でもねぇが、このままでいいはずないよな。俺も一応、小隊長なんだし。隊内がぎこちないままじゃ、三組連中にも迷惑掛かるし)


 毛穴の隅々から、暖かさがじんわり染み入ってくるのを感じる。

 人間は皮膚呼吸をしない。

 ただ、体内のコリ固まった疲れがふやかされ、毛穴から溶け出していくような。

 体の力がドンドン抜けていくようだ。


(山本……小隊かぁ……)


 ふと、トリスクトさんら隊員だけじゃない。

 教官であるシャリエールの顔が頭によぎった。


(う~っ! 小隊長の立場にある奴が、こんな考えなしにアホなことするなよ~!) 


「ゴボッ! ゴババッボ!」


 水中で頭を抱えてしまった。

 悩みの種はそれだけじゃない。


(三組、特に《主人公》はマジで怒ってるんじゃねぇかな。《ヒロイン》を説得しようとしてくれたのに、戻ったら俺がいない)


 このまま体すべてが溶け、排水溝に流され、海にたどり着き、何処か遠くまで行けたら……なんて。

 流石にそれは現実的ではない。

 ただ、そう願う程、身につまされる想いだった。


「プハッ!」


 人間はエラ呼吸も出来ない。

 口呼吸で酸素を取り込まなければならないから、底を蹴って水面に顔を出した。


「くぅ~~っ! 気分を変えよう。露天だ露天!」


(今日はたぶん、寝付けないな。風呂入っちゃったけど、外をランニングしてでも……)


 本当、いまは何とかして、気分を紛らわせないとやりきれない。


(……って、失踪した俺が夜間に姿を消すって。それこそシャレにならねぇ)


 何も考えないようにしないと生殺し。

 とはいえ、気を紛らわすためにできそうなこともなさそうだ。


「んあぁぁっ! 詰んだっ!」


 思い知ってしまう。今日はとことん、頭によぎるこの感覚と付き合わなければならない。

 もしかしたら今日どころか、明日も明後日も。

 

(しばらく、悩むことになりそうかな)


 そんなことを考えつつ、内湯を上がった俺は、そのまま露天風呂へと向かった。

 足が……重い。


 ☆


「日中はまだまだ暑いが、やっぱ十月。夜は冷え込んで、秋風は気持ちいい」


 内湯で体が火照ったから、吹きすさぶ風は心地よい。

 一気に冷まされたこともあって、頭もシャキッと切り替わるかのよう。

 その状態のまま、露天風呂に足を入れていくと……


「お、おおお♪」


 気持ち良さから、変な声が出てしまった。


 (湯気によって、浴室に暖気がたまった内湯も悪くないけど)


 肩より下は暖かい。

 一方で上は涼しくて、露天風呂特有の解放感(なお、露出狂ではない)も、気分を晴らす一助になる気がした。


「もう考えるのはよそう。俺自身まだ落ち着いてない。じっくり考えるのは明日からでも……って、どうにも頭には、いろいろ浮かんできてしまうわけで」


 外気によって冷えてきた濡れた顔に、改めてパシャッと両手ですくった風呂湯を叩きつける。

 《冷》に突然の《暖》をぶつける。その衝撃による心機一転を図ろうとした。


「……参っているようじゃないか・・・・・・・・・・・・?」

「なんでこんなことしちゃったの~ってさ。自分のことばっか考えて行動したことも、それでアイツらがどう想うか考えなかったことも、ムカつく」

「フゥム。こたえてるね。みんなの反応が、君には効果テキメンだった」

「当然じゃないよ。見てられなかった。トモカさんに、他の奴らの表情って言ったらさ。それに……」


 不意に耳に入った問い。

 俺の心中にドンピシャで、思わず答えてしまった。


「それに?」

「それに……って……え?」


 そう、答えてしまった・・・・・・・

 俺しかいないはずのこ・・・・・・・・・・の露天風呂で・・・・・・別の声が聞こえてきた・・・・・・・・・・から。


「それになんだい?」

「そ、その場には、トリスクトさんがいな……くて……」

「そうか。もしそれが、少しでも君の心を穿うがったなら、ささやかな仕返しは成ったといったところかな?」


 そしてその声を、俺は良く知っていた。


(いや、まてまてまぃ! 声は知ってます! でも、この場にはあり得んだろう! そんなはずが……)


 この場にいるのはおかしい。

 というより、俺と一緒にこの場にい・・・・・・・・・・るなんて・・・・あっちゃならない・・・・・・・・


「も、もしかしまして、もしかしなくともぉ……」


 気づいて、全身が強張った。

 温温ヌックヌクだった俺の身体なんて、その声に全身冷や水をぶっかけられた気がした。

 心なしか縮みこまった・・・・・・ような気も……


 声の主に振り返る勇気がなかなか出ない。

 しかし向かないわけには行かなかった。

 油の差されていないブリキの人形がごとく、ギギギっと首が鳴った気がした。


「待ちくたびれたよ。危うくのぼせてしまうところだった」


 目に入った人影。


「トリ……ッ!」


 驚天動地きょうてんどうち

 露天風呂につかった状態で飛び上がる。

 底で足を滑らし、思いっきり背中から、ザッパーンとダイブすることになったのはしょうがないこと。


「えっ! ちょっ!」


 露天風呂は、座っても首が出るほどの深さのはず。

 バシャバシャと水面でバタつき喘いで、溺れそうになった。


(う……嘘だろぉぉぉっ!)


 おれが入浴している露天風呂に、女性が肌をさらして・・・・・・・・・浸かっているわけがない。

 しかも下宿に戻ってきたとき、その場にいなかったトリスクトさんがだ。


「驚かせたようだ」

「お、驚くって! だって、え? ごめんっ! トリスクトさんが露天風呂に入浴中って知らなかったんだ。だから内湯の大浴場に入ってこっちに……」


(ってことは……脱衣所にトリスクトさんの脱いだ服一式がっ!? んべべべべぇぇ! なんで気づかなかった俺ぇぇっ! 放心状態とか言い訳にならねぇぞぉぉ!)


「す、すぐに出ていくからっ!」

「なにか勘違いをしているよ。『待ちくたびれた』と言ったじゃないか。私は、君を待っていた」


 ハイ。桐桜花の心、温泉の入浴には、たとえ海外出身の方でも守っていただきたいルールってのがあります。

 それすなわち、湯舟にはタオル・・・・・・・をつけてしまわないこ・・・・・・・・・・


(ま、待てって! なにか!? じゃあトリスクトさん、まさか生まれたままの姿で……)


 そこまで考えが及ぶ。


「うっ!」


 ツンと、目と鼻の間が熱くなる。ドロッとしたものが、鼻の中を流れる感覚。


「は、はにゃにゃ(が)……」

「傍に行ってもいいだろうか?」

「ふぇぇぇぇぇっ!?」

「どうして離れる。それに背中なんか向けて、急に星空など仰いで」


(当たり前でしょうがぁぁぁぁ!)


 嗅覚を支配するのは鉄の匂い。

 間違いない。こみあげてきたのは鼻血。

 当然……垂れ流すわけにもいかない。


「なら……」

「ひぅっ!」


 動物的な反応……というのが正しいだろうか。


(ちょっ! この背中に感じるすべすべとした肌触り!)


 思わず、背筋が張ってしまった。


(言葉に表せない、二つの……柔らかな圧っ!)


「振り向くなよ?」

「ま、まさか……」

「いや、振り向いても構わないが、この姿にはすこし、さわり・・・があるからね」

「ッツ!」

 

 心も頭も、沸騰しそうだ。


「……あ……」


 が、一気に目が覚めた。 

 後ろから、白くほっそりとした両腕が回され、俺の首を抱いてきたこと。

 さらに……


「おかえり。一徹」


 一言。


 裸の彼女と、露天風呂で居合わせてしまったこと。背中に密着してきたことより。

 後ろから抱きしめられ、心から安堵をにじませる声で想いを送られたこと。


(敵わねぇなぁ本当)


 心が引き締まった。


(裏切るようなことをした。どうしてこんなに……)


「ちょっと……優しぎるんじゃない?」

「そうかい?」

「胸が痛い」

「それでいい」


 温泉で血行は良くなり、心拍が早く、強くなっているからか。

 彼女の鼓動が、肌を通して背中越しに感じられた。


「分からないんだ。トリスクトさんが、なんだってこうして迎えてくれるのか」

「信じられない?」


 どんな言葉が、彼女をさらに傷つけるか分かったものじゃない。


「信じたい。でも、色々おかしい」


 だけどトリスクトさんは、この期に及んでだ俺をここまで受け止め、受け入れようとしてくれる。

 なら、全部ぶちまけたかった。

 

(八方ふさがりに追い詰められた状況。ぶちまけて楽になりたいのかね)


「鶴聞って町に行ったんだ。トモカ姉さんから聞いてる《誰かの記憶》の中で、一番印象が強い」

「うん」


 独りよがり。

 トリスクトさんが、ちゃんと受け止めてくれるかなんて保証なんてないのに。


(さっきのみんなの反応で、自分の好き勝手さを後悔したうえで。本当、自分のことしか頭に無いのな俺)


「小学校に。中学校に。そして通ってた高校があった町」

「それで?」

「三縞校三年生は、高校三年扱い。だから記憶をたどるなら、直前の二年間、その高校に行ってたもんだと思ってた」

「それ……から?」

「……在籍した記録も何も、一つとしてなかった。おかしいんだ。色々、そこであったことが残像として思い浮かぶのに」

「一徹」


 キュッと抱きしめてくる腕に、力がこもった気がした。


「ゲーセンに行った。記憶に残ってた、記憶の持ち主が住んでたろう場所にも行った」

「何かあったかい?」

「何もなかった」


 また力加わった。

 少し息苦しい。だが、聞いてなお、トリスクトさんがまだいてくれることが心強かった。


なっさけないよなぁ。俺さぁ、その記憶が、本当は俺自身の記憶なんだと思ってた」

「そうだろうね」


 だけど、言ってしまえばここからが正念場かもしれない。


「トリスクトさん。君に……聞いてもらいたいことがあるんだ」

「私は、一徹に対して……」

「言えないことがあるのは知ってる。婚約の話が、そこに含まれていないとありがたいんだけど」


 たぶん俺はこれから、間違いなく、また彼女を傷つける言葉を放ることになるから。


 ――投げかけて、数秒間が開いたかどうか。

 降りた沈黙を破ったのは俺から。 


「どんなに思い出そうとしても、トリスクトさんは記憶の中にいないんだ」


 首に回された小枝のように細い腕。ピクリと反応した。


「シャリエールも。ナルナイにアルシオーネも。リィンにエメロードも。トモカ姉さんすら、俺の記憶にはいなかった」

「あ……」

「でも君たちは、記憶をなくす前の俺のことを知っているようだった。夏の終わり。リィンたちが小隊に加入したとき、俺のみんなに対する最初の前提が崩れてさ」

「前提?」

「トリスクトさんたちが良くしてくれるのは、俺が《関係者》だから」

「それは……」

「《大事な人》。《旦那様》。名前は知らないけど、君とシャリエールは同じ人を見つめ続けてる。俺はその人と何かしら繋がってるから気にかけてくれるのかなって」

「それを崩したのが、リィンによる婚約についての話かい?」

「《当事者》に、なっちまった」


 コツンと、後頭部に感じた。

 俺の背に、正面から体を預けている彼女。なら額を当てているのだろうか。


「当事者ってことは、少なくとも、記憶をなくす前の俺は評価されてたってことだろ

?」

「答えにくい質問を放るね」

「だから君たちは、前の俺・・・の評価された部分の無い、いまの俺・・・・に、勿体ないほど良くしてくれる。ちょっと気持ちが悪かった」

「ん……」

「そんな時、偶然にも皇都に向かうことになった」

「桐京。水脈橋での抽選会」

「色々と、思い当たるところがあった。それこそ俺が、トリスクトさん達と前々から親しかった……なんて話より」

「より信じられた。だから、私たちからの話頼はなしだのみの全くない記憶より、そちらに目が行ってしまった」

「そっちに傾いた方が楽だったんだ。それで、《誰かの記憶》を自身の記憶と睨んで、鶴聞に確認しに行きたくなった」

「すがりたくなる。当然だよ」


 一つ、大きく息を吸う。

 一気に吐き出して、リラックスするようにガクッと肩をおろした。


「《誰かの記憶》に君たちはいない。それが本当に俺の記憶なら、やっぱ俺の人生に君たちはいなかったんだ」

「私たちのいない一徹……か」

「時たま、俺を通してみんな誰か・・を見てるフシも見えた。ならそれが、一番正しい落ち着き方なんじゃないかって」

「はじめの前提に戻る。すなわち《当事者》ではなく、《関係者》だと」


 トリスクトさんの声が、少しだけ強張った気がする。

 俺の発言のせいだってわかってるのに、どういうわけか止まらない。


「当事者になってからお互い、受け止め方が変わっちゃったじゃない? 時々のすれ違いが正直心苦しくて、参ってた」


 首筋に、深い吐息がかかるのを感じる。


「色々、頭の中グルグル。こんがらがって、よくわからなくなって」


 俺の後頭部に額をくっつけたままのトリスクトさんも、言葉一つ一つを我慢して聞いてくれているようだった。


「もし俺が当事者なら、君たちはいまの俺・・・・が失った前の俺・・・を見てる。関係者なら、君たちの本命は《大事な人》。だったら。いまの俺の居場所は?」

「だから、逃げだしたかった」

「仮に当事者だったとして、いまの俺・・・・前の俺・・・とかけ離れている。元に戻れる保証もない。それはトリスクトさんたちにも申し訳がない」

「どんな結末になるとしても、まずはその、《誰かの記憶》を確認したかった」

「でも、いざ確認してみたら、現実を知っちゃった」


(これは……困っちゃうなぁトリスクトさん)


 後ろから抱き着くだけじゃない。首すら、俺の肩にもたれかかってきた。

 耳元で囁かれ、気分が変になりそうだ。

 それと同時に、心配が肌を通して感じられた。


「家があったはずの場所は、五年以上更地だったようで。雑草も伸び放題。時系列的におかしいじゃん。記憶の中では一、二年前の出来事のはずなのに」


 ……本当にマズい。


「じゃあ必然的に、《誰かの記憶》は俺じゃないってことになっちゃうじゃん。ってことは何か? 君たちが見る前の俺・・・が俺ってことじゃん」

「一徹。もういい……」


 一つ二つ話す。そうするともう……


「情けなくてさぁ! 君たちを信じられなかった。じゃあ現実知った。その話が正しかったってやっとわかった。でもさぁ……俺には君たちの記憶の一切がないっ!」

「もう、いいから……」


 言葉と想いが、興奮の感情によってあふれ出てとまらない。


「知らない女の子がいっつも俺に絡んでくるんだ! 喧嘩別れして、その後のこともわからねぇっ! でも、それは俺の記憶じゃない! 《誰かの記憶》だ!」


 それと共に、シャリエールが迎えに来てくれた夕方までの間に、無常感に打ちのめされた記憶も湧き立った。


「じゃあ俺は、一体誰なんだよ!」

「一徹っ!」

「アルシオーネの師匠分で。ナルナイから兄貴と慕われ。リィンは妹分だっていうじゃないか! エメロードにはきっと答えられない何かがある!」


 苦しくてならない……のに。

 この感覚は、とても矛盾していた。


「シャリエールは何があっても優しく迎えてくれて、トモカさんは親戚だっていう。そして君は……っ!」

「黙れ……」

「君は、俺の婚約者なんだそうだ! なのに何一つ思い出せない! 最低だろうが! なぁ教えてくれよ!? それが、君を、一体どれだけ傷つけ……!」

「黙れっ!」


 ぎゅうっと一際強い力。それが……黙らせた。


「もう、黙れ。一徹」


 今日一日で張り詰めた緊張か。

 それとも裸のトリスクトさんが密着するゆえの緊張か。


「私たちに、余計な気を回すなと言ったろう? 愚か者」


 矛盾の理由。

 こみ上げる苦しさに終わりはない。しかし、胸にためおかずに吐き出せる。

 聞いていて楽しくないどころか、ものすごく傷つける話。

 それでいて、受け止めてくれるトリスクトさんに、心が救われていく感覚。


「……これは、あの言葉を口にしてもらわなくては……かな?」

「あの言葉?」

「それは、私たち二人だけのおまじない・・・・・・・・・・・・・


 胸に渦巻くモヤがスゥっと抜けていき、軽くなっていくような。

 そう思ったら、どっと全身の力が抜けていく気がした。


えにしほころびるような状況になった時、たった一つのセリフしか、君は口にできないんだ」

「それって……」

「難しい言葉はいらない。私には、ただその一言だけで十分だから」


 耳元はここばゆく。ヒソヒソとささやく吐息は心地よい。

 そして彼女が何を言っているか、もはや俺にも分かってしまうからこそ、身は震えた。


(……これは……)


「いつでもいい。受け止めて見せる。私はたとえそれがどんな時であっても、君が私をどう思おうとも、傍に……」

「君と一緒にいたい」

「んっ!」


(……抗えない)


 気持ちもはやってしまった。

 初めて口にしたときとは比べようもない。あまりに滑らかに漏れ出た。


「ちょっと驚いた。私の口上を遮って……か」


 彼女がすべて話し終わる前に言い切ってしまったこと。

 首に回った腕は、またピクリと動いた。


「うん、でも、それでいい……」

「っ……」


 チュ……と。吐息でもない、彼女の腕がこすれたわけでもない。

 右のコメカミに、とても柔らかくて小さなものが、音と共に触れた……途端。

 一気にまぶたは重くなって……


「ルー……リィ……?」

「ここでその名で呼んでくるか。やっぱり心は覚えているじゃないか」


 視界は、真っ暗になって……。


「今の私は、君がその名で呼んでくれるだけで……」


 残るのは、聴覚だけだった。

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